最終決戦
深夜、もんろの仮設ブースのドアが、音もなく開いた。
監視カメラの死角を縫い、私は忍び込んだ。手の中には、小さなプラスチック容器。中に二粒のイチゴが、真っ赤に輝いている。コンサート会場の地下施設にある、研究用の植物栽培室からこっそり拝借したものだ。
もんろは、ベッドに横たわっていたが、私の気配に目を開けた。薬物による強制睡眠は、もう数時間前に切れているはずだ。彼女は、静かに体を起こし、私を見つめる。暗闇の中、彼女の顔の金色の裂け目が、微かな温もりのような光を放っている。
「…尚さん」
「約束だ」
私は、イチゴの入った容器を差し出す。もんろは、息をのんだようにそれを見つめ、ゆっくりと手を伸ばす。容器を取り、蓋を開ける。甘酸っぱい香りが、狭いブースに広がる。
彼女は、一粒を取り出し、じっと見つめる。そして、私をもう一粒、差し出す。
「…一緒に」
私は、うなずき、イチゴを受け取る。私たちは、暗闇の中、無言で、同時に口に運んだ。
甘さと酸味が、舌の上で広がる。もんろは、目を閉じ、味わっている。一粒を食べ終えると、彼女はもう一粒を、私に渡そうとする。
「いい、お前が全部食べろ」
「でも…」
「俺は、もう何度も食べた。お前は、これが二度目だろ? 全部味わえ」
もんろは、かすかにうなずき、二粒目を口に含んだ。ゆっくりと、時間をかけて。まるで、その味、香り、食感のすべてを、身体の隅々に刻み込もうとしているかのように。
食べ終えると、彼女は、容器を抱え、深く息を吐いた。
「…ありがとう、尚さん」
その声は、涙声だった。しかし、彼女は泣かない。ただ、目を閉じ、イチゴの余韻に浸っている。
長い沈黙。外からは、深夜の施設のわずかな機械音だけが聞こえる。
「明日…」 もんろが、かすかに口を開く。「…全部、終わりますね」
「ああ」
「…怖いです」 彼女の声が、かすかに震える。「消えるのが…痛いのが…」
私は、彼女のベッドの縁に腰を下ろした。そして、そっともんろの、冷たい手を握った。
「大丈夫だ。お前は独りじゃない。107人の先輩たちが、一緒にいる。結衣がいる。俺も…いる」
もんろは、私の手をぎゅっと握り返した。その力は、意外に強かった。
「…約束、覚えていますか?」 彼女が、暗闇の中で私を見つめる。「本当の空の色を、見せてくれるって」
「ああ。約束だ」
「じゃあ…」 彼女は、かすかに微笑んだ。「明日、私は…目を、しっかり開けています。尚さんが教えてくれた、青い空を…見られるように」
その言葉に、私は胸が熱くなった。彼女は、明日、自分が消えゆく瞬間にも、空の色を見ようとしている。たとえ、それが彼女にとって最後の光景であっても。
「わかった。必ず、見せてやる」
私は、立ち上がり、去ろうとした。その時、もんろが私の袖をそっとつかんだ。
「尚さん…最後に、一つだけ…」
「何だ?」
彼女は、少し間を置き、小さな声で言った。
「…私の…名前を…呼んでください。ただ、『もんろ』って」
私は、はっとした。彼女は、これまで、私から「お前」と呼ばれることが多かった。時に「もんろ」とも呼んだが、意識的に名前を呼んでくれ、と頼むのは初めてだ。
彼女は、私の驚きを理解し、かすかにうつむく。
「だって…『もんろ』って名前も、AIが付けた、借り物の名前かもしれないけど…それでも、今、ここにいる私を指す、唯一の呼び方ですから…」
その言葉の切なさに、私は息を詰まらせた。彼女は、最後に、たった一つの、自分に与えられた「名前」で呼ばれたいのだ。
私は、深く息を吸い込み、もんろの目をまっすぐ見つめた。暗闇の中で輝く、金色の裂け目に縁取られた瞳。
「…もんろ」
声は、思った以上にかすれていた。
もんろの目に、大きな涙が、ひとつ、またひとつと浮かぶ。金色の光に照らされ、宝石のように輝く。
「…ありがとう」
彼女は、涙をぬぐおうともせず、ただ微笑んだ。その笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりも、確かに彼女自身のものだった。
私は、ブースを後にした。背中で、かすかなもんろのささやきが聞こえたような気がした。
『行ってらっしゃい…尚さん…』
コンサート当日。朝。
旧国立競技場は、異様な熱気に包まれていた。十万の座席はすべて埋まり、さらに場外には数十万のCPDS患者とその家族、メディアが詰めかけている。人々の顔は、一様に灰色で、不安と期待に曇っている。首には、政府配布の情感共鳴受信器が下がっている。
ステージは、簡素だった。中央にひとつ、マイクスタンド。背後には、巨大なスクリーン。その両脇には、最新式の音響・情感増幅装置が設置されている。ステージの真下では、能面化装置と強化型剥離器が、最終チェックを受けていた。
もんろは、ステージ裏の特別準備室にいた。純白の簡素なドレスを着せられている。顔には、もう何の化粧もベールもない。ありのままの、金色の裂け目と無数の色の染みに覆われた容貌が露出している。彼女は、鏡を見つめていた。その表情は、深い静寂に包まれている。
碇大佐が入ってくる。彼は、もんろを一瞥し、満足そうにうなずく。
「よかろう。時間だ。外には百万人が待っている。お前の歌で、彼らを癒やせ」
もんろは、ゆっくりと振り返る。その目は、碇大佐をまっすぐに見つめている。
「…約束を、果たします」
その言葉には、二重の意味があった。政府との契約を果たす。そして、彼女自身の、真の「約束」も。
私は、管制室にいた。もんろの生体データと情感出力を監視する役目だ。手元には、剥離器の緊急停止リモコン(チップを組み込んだもの)がある。胸の内ポケットには、107人の意志が込められた透明な能面のプレート。もんろがあの夜、私に返したものだ。彼女は「これは尚さんが持っていてください」と言った。
画面に、もんろがステージに上がる様子が映る。足取りはゆっくりだが、確かだ。観衆から、どよめきが起こる。彼女の顔を見て、驚き、あるいは恐怖の声も上がる。が、すぐに静寂が訪れる。
もんろは、マイクの前に立つ。深く息を吸い込む。目を閉じる。
そして、口を開く。
歌い始める。
最初は、かすかなハミング。彼女が「たった一つの歌」と名付けた、あの即興の旋律。音程は定まらず、途切れ途切れ。しかし、その声は、マイクを通し、増幅装置を通し、世界へと拡散していく。
スクリーンには、もんろの顔のクローズアップが映し出される。金色の裂け目が、歌に合わせて脈動する。無数の色の染みが、微かに輝く。
観客席から、すすり泣く声が聞こえ始める。ある老婆が、突然、隣にいる息子(もう三十年も忘れていた)の幼い頃の顔を思い出し、泣き崩れる。若い男性が、恋人と別れた日の、雨の匂いと切なさを、突然鮮明に思い出し、うつむく。
もんろの歌声が、次第に力を増す。旋律に言葉が乗る。しかし、それは既存の歌の歌詞ではない。無数の言葉の断片が、ランダムに、しかし美しく織りなされている。
『…ははの…てのひら…』
『…あおい…うみ…』
『…さくら…ちる…』
『…あい…して…』
それらは、彼女が「借りた」無数の記憶から漏れ出す、最も大切なキーワードたちだ。彼女は、それらを歌に織り込み、増幅し、返還の準備をしている。
管制室のモニターで、もんろの混沌度が急上昇する。90%…92%…95%…
碇大佐が、興奮した声で指示を飛ばす。「出力、計画以上だ! 能面化装置、準備! 剥離器もスタンバイ!」
ステージ下では、能面化装置が唸りを上げる。107の宝石が埋め込まれた能面が、ゆっくりと昇降機で上がってくる。剥離器の針が、光る。
もんろは、歌い続ける。目を見開いている。瞳には、無数の光が渦巻いている。彼女は、もう観客など見ていない。空を見つめている。灰色の、厚い雲に覆われた空を。
混沌度:98%
彼女の体が、微かに光り始める。金色の裂け目から、虹色の光が漏れ出す。ドレスの裾が、微かに揺らめく。物理的な崩壊の始まりだ。
その時、私の携帯端末(純心会専用の暗号回線)に、結衣からのメッセージが届く。
『全神社、逆流陣法、起動準備完了。あなたの合図を待つ。』
もんろとの約束だ。彼女が「あの歌」のサビに入る瞬間、結衣に合図を送り、陣法を起動させる。サビは、もんろが最も情感を込め、混沌度を100%に押し上げる部分だ。
画面でもんろが、深く息を吸い込む。サビに入る合図だ。
私は、メッセージを送る。『今だ。』
同時に、管制室の警報が狂ったように鳴り響く。
『警告! 対象、情感出力、臨界点突破! 100%! さらに上昇中!』
もんろの体から、爆発的な光がほとばしる。金色と虹色の光の柱が、彼女を貫き、天へと昇っていく。その光は、ステージを越え、競技場を越え、東京の空へと広がる。
全国107の神社で、結衣と純心会の残党が、一斉に逆流陣法を起動する。千年の時を経て、能面たちが、一斉に輝く。それらの光が、空中に光の経路を描き、もんろから放出される情感の奔流を、無数の細い流れに分配し始める。
光の流れが、観客席へ、東京の街へ、日本中へ、そして世界へと広がる。人々の胸の受信器が、一斉に輝く。だが、それは情感を「受信」するためではなく、もんろから流れ来る光(返還される記憶)を、それぞれの持ち主へと確かに導くための道標として。
老婆は、息子の全ての成長の瞬間を、鮮明な色と共に思い出す。男性は、恋人との全ての幸せな瞬間を。戦場で死んだ兵士の家族は、ふと、遠い地で眠る彼らの笑顔を。飢えで消えた子供の親は、ほんの一瞬、子供の温もりを。
色が戻る。灰色の世界に、かすかだが確かな色が、ぽつり、ぽつりと灯り始める。人々の服、看板、空の一部…。
だが、代償は大きい。
ステージの上でもんろの体が、崩壊し始める。金色の裂け目が大きく広がり、その隙間から、無数の光の粒(彼女が背負ってきた記憶の結晶)が飛び散る。彼女の体は、風化する砂の像のように、端から崩れていっている。
碇大佐が絶叫する。「能面化、強制実行! 今すぐ!」
能面化装置のアームが、もんろに向かって伸びる。107の宝石が埋め込まれた能面が、彼女の顔に被さろうとする。
その時だ。
私は、リモコンのボタンを押した。剥離器チップに刻まれた、緊急停止コードを発動させる。
『MOTOMURAI』
管制室の全画面が真っ赤に染まる。警告文が点滅する。
『緊急停止プロトコル作動。全装置、強制シャットダウン。』
能面化装置のアームが、もんろの顔の数センチ手前で、ぱたりと止まる。モーターの唸りが消える。剥離器の針の光が消える。
碇大佐が、私を睨みつける。「お前! 何を!」
彼は、腰の拳銃に手をかける。が、その瞬間、ステージ上で、もんろの最後の歌が最高潮に達する。
彼女は、もう体の大半が光の粒になりかけている。しかし、顔だけは、かろうじて形を保っている。その顔で、彼女は、空を見上げている。
そして、歌う。最後の一節。
『――――ありがとう。』
『さようなら。』
その言葉と共に、彼女の体が、完全に無数の光の粒へと分解する。金色と虹色の、優しい光の粒。それらは、まるで逆流する天の川のように、空へ、空へと昇っていく。
光の粒は、厚い灰色の雲を貫き、その向こうへ消えていく。
そして、一瞬の静寂。
次の瞬間、灰色の雲が、まるでカーテンが引かれるように東西に裂ける。その隙間から、真っ青な空と、金色の太陽の光が、競技場に、東京に、降り注ぐ。
色が戻る。一気に。人々の服、建物、木々、空――全てが、鮮やかな、本来の色を取り戻す。
観客席で、老婆が、息子の茶色の瞳を、しっかりと見つめ、泣き笑いする。男性が、恋人のピンクの頬を、確かに目に焼き付ける。世界中で、無数の人々が、失われていた色と記憶の一片を取り戻し、泣き、笑い、抱き合う。
もんろの大いなる帰還は、完了した。
ステージの上には、何も残っていない。ただ、無数の光の粒が舞った後のかすかなきらめきが、空気の中に漂っているだけだ。
碇大佐は、呆然とスクリーンを見つめている。計画は完全に狂った。もんろは消え、能面化も剥離もできなかった。しかし、代わりに、CPDSの症状は、少なくともこの瞬間、百万人から消えている。データはそれを示している。
彼は、ゆっくりと私の方を見る。その目には、怒りよりも、理解に近いものが浮かんでいる。彼も、科学者だ。もんろが成し遂げた「奇跡」を、データとして認めざるを得ない。
「…これで、満足か?」 碇大佐の声は、疲れ切っている。
私は、ステージの上、もんろが最後に立っていた場所を見つめた。そこには、何もない。しかし、胸の内ポケットで、透明な能面のプレートが、微かに温かい。
もんろは、確かに消えた。だが、彼女が「私らしい何か」と呼んだものは、この中に、ほんのかすかに、封じられているような気がした。107人の意志と共に。
私は、外の、真っ青な空を見上げた。太陽の光が、まぶしい。
「…ああ」
私は、かすかに微笑んだ。
「約束は、果たされた」
もんろは、最後に、本当の空の色を見た。彼女自身の目で。




