救出
コンサート前夜、私は行動を起こした。
施設内の監視システムは、コンサート準備で若干手薄になっていた。碇大佐の部下たちのほとんどは、会場の最終チェックや、全国から集まる患者たちの管理に回されている。これは、千載一遇のチャンスだ。
私は、隔離された管制室の端末にアクセスした。剥離器チップに刻まれた緊急停止コードと、Dr.K が残したバックドアクセスプロトコルを使う。チップを端末の読み取りスロットにこっそり挿入し、コードを入力する。
画面が一瞬フリーズし、施設全体のセキュリティログに、一瞬だけの偽のシステムエラーが発生する。すべての自動ロックが、十秒間だけ解除される設定だ。時間は限られている。
私は、端末を抜き取り、用意しておいた清掃員の服装に着替え、施設の奥、地下の拘置ブロックへと急いだ。結衣の発信器の信号は、ここから発信されている。
廊下には警備兵が二人。彼らは、突然のロック解除に戸惑い、無線で状況を確認している。隙だ。私は、彼らの背後から、鎮静剤入りの注射キット(純心会から渡されたもの)を素早く打ち込む。二人は、うめき声も上げずに崩れ落ちる。
最奥の独房。鉄の扉は、ロック解除中だ。中では、結衣が壁に鎖でつながれていた。顔にはあざがあり、服は破れている。拷問を受けた跡だ。しかし、彼女の目は、しっかりと開いている。諦めの色はない。
「…尚さん!」
「静かに。時間がない」
私は、拘束具を純心会の特殊ツールで素早く外す。結衣は、よろめきながら立ち上がる。
「大丈夫か?」
「…なんとか。叔父め…伝統を、まるまる売り渡した」
結衣の目に怒りの炎が灯る。だが、彼女は感情を抑え、すぐに状況を把握する。
「もんろ様は?」
「ブースに戻った。監視下だ。今から計画を話す。ついて来い」
私たちは、監視カメラの死角を縫い、施設内の廃棄物処理用のダクトへと潜り込んだ。ここは、監視が行き届かない、数少ない安全地帯の一つだ。事前に、もんろにこの場所と時間を伝えてあった。
数分後、ダクトの入口の蓋が内側から静かに開き、もんろの姿が現れた。彼女は、ブースからこっそり抜け出すために、鎮静剤の一部を吐き出し、仮病を使ったらしい。顔には、まだ金色の光の筋が走っている。彼女の表情は、深く静かだ。
三人、束の間の再会。暗く狭いダクトの中、私たちはひざまずき、声を潜めて話し合った。
「まず、現状を」 結衣が低く言う。「叔父は、全国107神社の管理権を政府に委ね、その見返りに純心会の『国認定』を得た。神社の結界は、政府の技術者が『調整』を加えている。私たちが逆流陣法を起動しても、政府がそれを検知し、妨害、あるいは逆用する可能性が高い」
もんろは、深くうなずく。
「…わかっています。だから、計画を変えます」
彼女の目が、暗闇の中でかすかに光る。
「コンサートで、歌いながら、私の中の全ての記憶、情感を、能面化の臨界点である100% を超えるまで、意識的に押し上げます」
その言葉に、結衣が息をのんだ。
「100%を超えれば…あなたは、物理的に…」
「崩壊します。器としての形を保てなくなる」 もんろの声は、驚くほど冷静だった。「でも、その崩壊の過程で、中に閉じ込められていた全ての情感、記憶の結晶が、一気に解放されます。それが、『大いなる帰還』の瞬間です」
彼女は、私たちを見つめる。
「でも、それには、二つの鍵が必要です」
彼女は、指を一本立てる。
「一、全国の神社で、結衣さんが『逆流陣法』を、政府の調整を無効化する周波数で、正確に同時刻に起動すること。私の崩壊から放出される情感の奔流を、適切に『分配』し、それぞれの持ち主へと導くために。タイミングを誤れば、情感は暴走し、百合先輩の事故の大規模版になります」
結衣は、真剣にうなずく。「…調整周波数は、純心会にしかわからない。叔父が渡した資料には、核心部分は含まれていないはず。できる」
もんろは、二本目の指を立てる。
「二、尚さんが、剥離器の緊急停止プログラムを、正確なタイミングで起動すること」
私は、目を見開いた。「停止プログラム? でも、お前の計画は、崩壊することじゃないのか? 止めたら…」
「止めるのは、私の『崩壊』ではありません」 もんろは、かすかに微笑んだ。「止めるのは、政府が私を能面化しようとするプロセスです。私が100%を超え、情感を解放し始めた瞬間、彼らはパニックになり、強制能面化を開始するでしょう。その装置を、尚さんの手で止めてほしい」
彼女の目が、私をまっすぐ見つめる。
「私が消えた後…ほんの少しだけ、『私らしい何か』…私が借りたのでも、与えられたのでもない、純粋に私から生まれた情感の欠片が、残るかもしれません。それを…能面という永遠の檻に、閉じ込めてほしくないんです。消えゆくものは、消えさせてください」
その願いの切なさに、胸が締め付けられた。彼女は、最後の最後まで、「自分」としての尊厳を守りたいのだ。
「わかった」 私は、うなずいた。「必ず、止めてみせる。お前が望むままに」
もんろは、安堵のため息をついた。そして、私の方を見る。
「…まだ、あります。尚さんから、預かっているもの…」
私は、はっとした。ポケットから、透明な能面を取り出した。暗闇の中でも、それは微かに内部の銀河をきらめかせている。
もんろは、息をのんでそれを見つめた。そして、震える手で、そっと受け取る。
透明な能面が、彼女の手のひらに触れた瞬間──。
光が炸裂した。
透明な能面から、無数の光の糸が迸り、もんろの体に、特に顔の裂け目に、吸い込まれていく。彼女の体が、浮かび上がるように光に包まれる。
そして、彼女の顔に、無数の能面の虚影が、次々と浮かび上がっては消える。桜、楓、萩、雪、波、焔、瘴…107枚の能面が、ほんの一瞬ずつ、彼女の顔の上に重なる。それらは、過去の亡霊というより、祝福する先祖のようだった。
虚影が全て消えると、もんろの顔が、はっきりと見えた。
相変わらず、無数の金色の光の筋(金継ぎのようなもの)と、色とりどりの染み、裂け目がある。しかし、それらが、以前の「無理矢理の継ぎ接ぎ」ではなく、一つの調和したモザイクのように見える。一つ一つの破片が、宝石のように磨かれ、それぞれが異なる色と輝きを放ちながら、全体として一つの深く美しい、しかし痛ましい相貌を形成している。
彼女の目を開けた。その瞳は、107の色が混ざり合った、深く澄んだ宇宙のようだった。そして、その瞳に、無数の声が響いた。107人の巫女たちの声が、一つのハーモニーとなって。
『お前なら…できる…』
『私たちの意志を…』
『最後の歌に…』
『託す…』
もんろの目から、涙が流れた。金色に輝く涙。
「…はい…」
彼女の声は、震えているが、確かだ。
「先輩たちの思いも…全部…返します。借りたものは、きちんと…」
透明な能面は、光を失い、ただの透明な薄いプレートになった。もんろは、それをそっと胸の内ポケットにしまった。彼女の心臓の上に。
時間がない。監視の隙間も、もう長くはない。
「では、行きましょう」 結衣が立ち上がる。「私は、純心会に残る忠実な者たちを集め、神社の陣法を準備します。刻限は?」
「明日のコンサート、私が『あの歌』を歌い始める時」 もんろは、静かに言った。「あの歌が、私の合図です」
結衣は、深くうなずく。彼女は、もんろの手を一瞬握りしめ、そして、私を見て、こっくりと頷いた。全てを託す、という意味の。
彼女は、ダクトの奥へと消えていった。
残された私ともんろ。彼女が、私の方を見る。
「尚さん…後は…お願いします」
その一言に、全てが込められていた。監視官としての私の、最後の役目。彼女の最期を見届け、彼女の願いを叶えること。
私は、強くうなずいた。拳を握りしめ、ポケットの中の剥離器チップを感じながら。
「ああ。任せておけ」
もんろは、かすかに微笑み、ダクトの蓋を開け、そっと外へ出ていった。彼女の背中には、金色の光の筋が、微かに輝いていた。
もんろがブースに戻ると、碇大佐が待ち構えていた。
彼は、もんろを鋭い目で見つめる。何かを感じ取っているようだ。
「…何かあったのか? お前の生体データ、少し乱れている」
もんろは、ゆっくりと顔を上げ、碇大佐を見つめる。その表情は、深い静けさに満ちている。金色の光の筋が、彼女の顔に神々しい輝きを与えている。
「いいえ」
彼女の声は、穏やかで、澄んでいる。
「ただ…覚悟が、決まりました」
その言葉に、碇大佐は一瞬、目を見開いた。そして、満足そうに、ほのかに笑った。
「…そうか。ならば、よかろう。明日、お前の力を見せてもらおう」
彼は、背を向けて去っていく。
もんろは、ブースの窓辺に立ち、外の、夜明け前の闇を見つめた。東の空は、もうすぐ明ける。
彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。透明な能面のプレートの硬さ、そして、その奥で鼓動する、107人分の意志を感じる。
「…さあ、行きましょう」
彼女の呟きは、誰に向けられたものでもない。自分自身へ、そして、千年の旅路の、最後の一歩を踏み出すための、決意の宣言だった。




