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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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一日の約束

もんろが最後の「私」として過ごす一日は、朝日と共に始まった。

前夜、私たちは東京に戻り、純心会が用意した都内の隠れ家(今回は、高層マンションの一室)に身を潜めていた。窓の外には、灰色の東京の街並みが広がる。もんろは、窓辺に立ち、朝日に染まるビル群をじっと見つめていた。彼女の顔は、鎮魂の香の効果が完全に切れた後も、かろうじて安定を保っていた。裂け目は相変わらず深く、無数の色の染みが浮かんでいるが、激しい「蠢き」はない。彼女自身の覚悟が、無数の記憶を一時的に鎮めているのかもしれない。混沌度は、65% のまま変わらない。

「今日は一日、何も考えずに過ごそう」 私は、もんろの横に立って言った。「明日の準備は、結衣に任せておけ。お前は、ただ、『もんろ』でいればいい」

もんろは、かすかにうなずいた。しかし、彼女の目には、一抹の迷いがよぎる。

「…『私』らしいことって、何でしょう?」

その問いに、私は少し考え込んだ。彼女にとっての「自分らしさ」とは? 彼女には、趣味も、好みも、過去の思い出もない。全てが「借り物」だった。

「…わからないな」 私は、正直に答えた。「だから、一緒に探そう。今日一日かけて」


最初は、近所の小さな公園。

朝の公園は、数人の散歩客と、犬を連れた老人がいるだけだ。もんろは、深いフード付きのパーカーとマスクで顔を隠している。人目を避けるためだ。

私たちは、ベンチに座り、ぼんやりと池の鯉(灰色の、動く影のようにしか見えない)を見ていた。もんろが突然、隣のベンチで母親に抱かれた幼児が食べているクレープをじっと見つめた。その子は、イチゴと生クリームたっぷりのクレープを、嬉しそうに頬張っている。

「…あれ…美味しそうですね」

もんろの呟きに、私は立ち上がった。

「待ってろ」

近くの移動販売のクレープ屋で、イチゴクリームクレープを一つ買う。もんろに渡す。彼女は、マスクを少しずらし、小さく一口かじった。

彼女の目が、ぱっと見開かれる。

「…甘い…」

彼女は、もう一口、そしてまた一口。夢中で食べ始める。口元にクリームがついても気にしない。その食べ方は、どこか無邪気で、子供のようだった。

「イチゴ、好き?」 私は聞いた。

もんろは、口いっぱいにクレープをほおばりながら、一生懸命うなずく。そして、飲み込むと、「…初めて、食べました。でも…なぜか、好きな気がします」

彼女は、残ったイチゴを、じっと見つめる。

「赤い…でしょう? このイチゴ」

「ああ、真っ赤だ。甘酸っぱい香りがする」

もんろは、目を閉じ、イチゴをそっと鼻に近づける。深呼吸する。そして、かすかに微笑んだ。

「…いい匂いがするような気がします」

彼女の、その純粋な喜びの表情は、何の「借り」も感じさせない、彼女自身のものだった。小さな発見。自分だけの好み。


次は、東京のとある遊園地。

結衣の手配で、閉園後の夜間、貸し切りに近い状態で入場できた。もんろの顔を隠す必要はない。彼女は、初めて見るネオンや電飾(灰色の点滅にしか見えないが)に、目を輝かせていた。

「あれは…?」 彼女が、遠くにそびえる巨大な観覧車を指さす。

「観覧車だ。一番上からは、東京の夜景が見られる」

「行ってみたいです」

私たちは、観覧車のゴンドラに乗り込んだ。ゆっくりと上昇していく。もんろは、最初、窓の外を楽しそうに見下ろしていた。しかし、高くなるにつれ、彼女の顔色が青ざめていった。手が、膝の上でぎゅっと握りしめられている。

「…高い…」

声が震えている。彼女は、高所恐怖症らしい。これも、彼女自身の特性なのか、それとも、誰かの記憶の影響なのか。

「大丈夫か? 降りようか?」

「…いいえ」 もんろは、首を振る。目をしっかり開け、外を見ようとする。「ここから…見てみたい。尚さんが言っていた、『東京の夜景』を」

ゴンドラが頂上に達する。外は、無数のビルの灯りが、灰色の海のように広がっている。もんろは、息をのんだ。

「…たくさんの…光…」

彼女の目に、涙がにじむ。怖さと、感動が入り混じっている。

「一つ一つの光に…人がいるんですよね。みんな、それぞれの色で…光っているはずなのに…」

彼女は、窓ガラスに自分の顔(裂け目だらけの)を映しながら、そっと呟く。

「…私も…こんな風に、誰かの光になりたかったな…」

その言葉に、私は胸が熱くなった。彼女は、ずっと、他人の光を背負い、反射してきた。自分自身が光ることを、許されなかった。

観覧車が降り始める。もんろは、最後まで外を見つめていた。怖さよりも、美しさに打たれているようだった。


公園に戻ったのは、日が完全に暮れてからだった。

もんろは、ブランコの前に立った。彼女は、そっとブランコに座り、ゆっくりと蹴り出した。最初は小さく、次第に勢いをつける。風が、彼女の髪とフードを揺らす。

そして、彼女が笑った。

ケラケラという、抑えきれないような、子どもっぽい笑い声。それは、ステージ上の完璧な微笑みでも、誰かの記憶にある優しい笑い声でもない。高く上がる感覚、風を切る気持ちよさに、思わず漏れた、無邪気で、少し間の抜けた笑い声だ。

彼女は、何度も何度も、ブランコをこいだ。笑い声を上げた。時折、怖くなってキャッとはしゃぐ。その姿は、もはや「国宝級歌姫」でも「最後の巫女」でもない。ただ、初めてブランコに乗って、その楽しさに夢中になっている、どこにでもいる少女だった。

私は、その光景を、息をのんで見つめていた。胸が締め付けられるほど痛かった。この笑顔が、明日にはもう二度と見られないかもしれないという現実が、一瞬で私を襲った。

ブランコが止まり、もんろは息を切らしながら降りてきた。彼女の頬はほんのり赤らみ、目はきらきらと輝いている。

「…楽しかった」 彼女は、はにかむように言った。「ブランコ…好きかもしれない」

彼女は、空を見上げた。曇り空で、星は見えない。

「…星の色…きっと、きれいなんでしょうね。尚さん、見たことありますか?」

「ああ、田舎ではよく見た。無数にちりばめられて、金色や青白く光っている。天の川は、ぼんやりとした光の帯のように見える」

もんろは、目を閉じ、私の言葉を想像しているようだった。そして、深くうなずく。

「…きれいでしょうね。私も…見てみたかった」

その言葉は、叶わない願いのように、夜の空気に消えていった。


隠れ家に戻ると、結衣が最終準備の報告をしていた。

「全国107か所の神社の能面に、特殊な共鳴装置を取り付けました。もんろさんの歌声の情感パターンを増幅し、全国、そして世界中へと拡散するためのネットワークです。CPDSの患者が特に多い地域から、順次、共鳴を開始します」

結衣の顔は疲れ切っているが、目は鋭い。

「問題は、もんろさん自身の『歌』です。これまでの『癒しの歌』とは逆位相、逆流の情感を、正確に、かつ制御しながら発しなければなりません。失敗すれば、百合さんの事故よりも大規模な情感の逆流が起こります」

もんろは、真剣にうなずく。

「…練習します。今から」

彼女は、結衣が用意した防音室に入った。私は、ドアの外で耳を澄ます。中から、かすかな声が聞こえてくる。

歌ではない。ハミングだ。旋律は定まらず、途切れ途切れ。時折、音程が外れる。それは、あまりに未熟で、不安定な「声」だった。しかし、その声には、何かが込められていた。苦しみでも、悲しみでも、役割でもない、ただ、存在したいという、切実な願い。

私は、スマートフォンを取り出し、そっと録音を始めた。ドアの隙間から漏れる、かすかなハミング。彼女が、生まれて初めて、誰の真似でもない、自分だけの声で紡ごうとしている旋律。

録音ファイルの名前を付ける。『もんろの、ただ一つの歌。』

数時間後、もんろが部屋から出てきた。彼女は、汗で額が濡れ、息が上がっている。しかし、目は澄んでいた。

「…少し、わかった気がします」 彼女は、かすかに微笑んだ。「『返す』って、どういうことか。それは、ただ流し出すんじゃない。一つ一つ、丁寧に、手放していくこと…」

彼女の言葉を聞きながら、私は、先ほどの録音を再生した。小さなスピーカーから、彼女の未熟なハミングが流れる。

もんろは、驚いて目を見開いた。そして、恥ずかしそうにうつむく。

「…下手ですよね」

「いや」 私は、揺るがない声で言った。「これが、お前の声だ。誰のでもない」

彼女は、私を見つめ、ゆっくりとうなずいた。

その夜、練習の後、私たちは再び外へ出た。結衣の手配で、東京スカイツリーの特別展望台(通常は閉まっている時間帯)へと向かった。エレベーターで一気に上空へ。展望台は、誰もいない。ガラス越しに、眠る東京の街が広がっている。

もんろと私は、東を向いて座った。夜明けは、あと数時間後だ。明日のライブは、日の出と同時に始まる。

もんろは、静かに私の肩にもたれかかった。彼女の体は、軽く、冷たい。

「尚さん…ありがとう」

彼女の声は、かすかだった。

「この一日…本当に、楽しかった。クレープも、観覧車も、ブランコも…全部、初めてのことばかりで。でも、どれも、『私』の思い出になった気がします」

彼女は、深く息を吸い込む。

「もし…もし私が、『私』の顔を…ほんの少しでも、思い出せたら…」

声が震える。

「…最初に見せたい人は、尚さんです。約束、してください。私の顔を、一番最初に、見てください」

その言葉に、私は、もんろの細い肩を抱きしめた。涙が、こぼれそうになるのを、必死にこらえて。

「…約束する。必ず、真っ先に見る。お前の、本当の顔を」

もんろは、安心したように、小さくうなずいた。そして、静かに目を閉じた。彼女の呼吸は、次第に深く、規則的になっていく。短い眠りについたようだ。

私は、彼女を抱いたまま、東の空を見つめていた。闇が、一番深い時。夜明け前の、静寂。

そして、時が来た。

もんろの体が、微かに動く。彼女は、目を開け、ゆっくりと立ち上がった。私の腕から離れ、展望台のガラスに向かって一歩踏み出す。

東の水平線が、ほんのりと紫色に染まり始めている。

もんろの顔が、かすかに光り始める。無数の裂け目から、虹色の微光が漏れ出る。彼女は、フードを脱ぎ、マスクを外す。何も隠さない。ありのままの、割れた顔を、世界へ向ける。

「…そろそろ…時間ですね」

彼女の声は、静かだが、この広い展望台に、しっかりと響き渡る。

遠く──東京の街並みの向こう、全国の山々の彼方から、かすかな、107もの微光が、一斉に灯ったように感じた。全国の神社の能面が、呼応し始めている。

世界のどこかで、無数のCPDS患者が、眠りの中で、かすかな歌声を夢に見ている。それは、まだ形にはなっていない、しかし確かに届き始めた、癒しの予感。

もんろは、深く息を吸い込み、朝日が昇る方へ、両手を広げた。

その背中は、無数の裂け目に光が走り、まるで、割れたガラス窓から朝日が差し込むかのようだった。

そして、夜明けが、ついに、水平線を金線で縁取った──

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