東京潜入
東京の空は、彼女の記憶よりも、さらに深い灰色に沈んでいた。
高層ビルが林立する街並みは、色を失い、巨大なモノクロ写真のように見える。人々は地面を見つめ、無表情にすれ違う。CPDSはここ都心でも、確実に、静かに人々を蝕んでいた。私たちのキャンピングカーは、一般車両に紛れ、皇居外苑に近い細い路地に潜むように停まった。
車内では、結衣が小型タブレットに映し出された複雑な構造図を説明していた。
「桜の記憶の珠は、国立博物館の、地下三階にある『特別文化財第零号保管庫』にあります。厳重な警備。生体認証、パスワード、物理鍵、さらに、情感センサーまで装備されている。無許可の情感、特に強い『借り』の気配を検知すると、自動的にシャットダウンし、完全封鎖される仕組みです」
結衣は、私たちを順番に見る。
「計画はこうです。まず、私が純心会のネットワークを使い、もんろさんが埼玉の郊外に現れたという偽情報を流します。それに引きつけられて、警備の一部がそちらへ向かう隙に――」
「俺が潜入する」 私が言った。元監視官として、施設の基本的な構造と、セキュリティの盲点は知っている。「職員用の裏口から。結衣が用意した偽造IDと、こっそりコピーした生体データ(掌紋)を使う。珠を取り出したら、即座に脱出する」
「私が、車で出口付近で待機する」 結衣が続ける。「尚さんが出てきたら、すぐに乗り込んで離脱する。時間は、最大十五分。それを過ぎると、偽情報に気づかれ、包囲網が再構築されます」
計画は、危険で稚拙だった。が、他に選択肢はない。
その時、もんろが静かに口を開いた。
「…私も、行きます」
「何?」 私は、彼女を見た。「馬鹿な。お前の顔は、今、どんな状態かわかっているのか? 情感センサーに一発で引っかかる!」
「わかっています」 もんろの声は、低いが揺るがない。「でも、私は…行かなければならないんです」
彼女は、自分の胸に手を当てる。そこには、楓と萩の記憶の珠が入った袋が、温もりを放っている。
「桜先輩に…直接、会いたい。最初に『借り』を始め、この輪廻を始動させた方に…そのお気持ちを、この肌で、感じ取りたい」
彼女の目は、今日は、萩の知性と、画家の深いこげ茶が混ざり、驚くほど落ち着いて見えた。混沌度は、85% 前後で、かろうじて保たれている。無数の「借り」が、ある種の危うい平衡を保っているのか。
「だめだ」 私は、きっぱりと言った。「リスクが大きすぎる」
「でも、尚さん一人では、珠に触れても、その記憶を開けられないかもしれない」 もんろは、真っ直ぐに私を見つめる。「珠は、巫女のためのものです。私がそばにいれば、たとえ外にいても、何か…共鳴が起こるかもしれません。それが、脱出の鍵になるかもしれない」
その指摘は、的を射ていた。記憶の珠は、単なる記録媒体ではない。巫女の情感そのものだ。私が素手で触れても、おそらく何も起こらない。あるいは、逆に暴走する可能性すらある。
結衣が、深刻な表情でもんろを見つめた。
「…あなたの顔を、完全に隠す装備が必要です。情感センサーをかいくぐるために」
彼女は、車内の工具箱から、特殊なマスクと、全身を覆うタイツのようなものを取り出した。
「電磁波シールド素材。外部への情感漏洩を99%カットできる。だが、中は蒸し風呂のようになる。長時間は無理だ」
もんろは、うなずき、その装備を受け取った。
「十五分なら、耐えられます」
夜の午後十時。作戦開始。
結衣が偽情報を流す。たちまち、警察無線に慌ただしさが走る。『対象、埼玉県川越市で確認!』 数台の黒い車両が、博物館前を離れ、疾走していく。
「行くぞ」 私は、黒い作業服に着替え、もんろは、シールドタイツとマスク、さらに清掃員の作業着を重ね着している。顔は完全に隠れ、体型も不自然にふくらんでいる。歩きにくそうだが、彼女は一言も不満を言わない。
私たちは、博物館の裏手の職員用通用口へ向かう。私は、偽造IDカードをかざす。カードリーダーが緑に光る。掌紋スキャナーに手のひらを置く。一瞬、緊張が走るが、結衣の用意した偽データが通り、ロックが解除される。
中は、薄暗い。深夜の博物館は、誰もいない。静まり返っている。監視カメラの赤いランプが、所々でちらちら光る。私たちは、清掃員のふりをして、地下へと続く階段へ向かう。
地下三階へ降りるエレベーターは、特別許可が必要だ。私たちは、非常階段を使う。重い鉄の扉を開け、冷たいコンクリートの階段を下りていく。もんろの息遣いが、マスクの中で荒くなっている。シールドタイツが、彼女の体温と情感を閉じ込め、過熱しているのだ。
地下三階の扉の前で、私は立ち止まる。ここから先は、私一人だ。もんろは、この扉の外で待機する。
「…もし、中で何かあったら、すぐにここを離れろ」 私は、もんろに言い聞かせる。「結衣のところへ戻れ」
「…尚さんこそ、気をつけて」 もんろの声は、マスク越しにこもっている。
私は、もう一度偽造IDでロックを解除する。重い扉が開く。中は、真っ白な廊下が続いている。床も壁も天井も、すべてが真っ白だ。情感センサーが、微かな感情の揺らぎも検知するため、一切の装飾を排した空間なのだろう。
廊下の先に、もう一つの扉。特別保管庫だ。ここには、偽造IDは通用しない。結衣から教えられた、緊急用のバックドア——空調ダクトのメンテナンスハッチを使う。
天井のパネルを外し、狭いダクトに入る。ほこりくさい。這って進む。目的地の真上まで来たら、慎重に下のパネルを外す。
下は、小さな部屋だった。中央に、ただ一つの展示台。その上に、ガラスのケース。中には――。
水晶の珠ではない。
古びた、乳白色の勾玉が、紫の布の上に静かに横たわっていた。長さは十センチほど。表面には、かすかなひび割れと、年月によるくすみがある。しかし、その中心部は、わずかに透き通り、中に、かすかな霞のようなものが、ゆっくりと、永遠に回転している。
これが、第一代巫女、桜の記憶の珠――いや、記憶の勾玉か。
私は、ダクトから慎重に降りる。床に着地。周囲には、情感センサーの小さなレンズが無数についている。一呼吸置き、心を無にしようとする。だが、もんろのことが気がかりで、まったく無になれない。
展示台のガラスケースは、単なるガラスではない。あらゆる物理的衝撃に耐える強化ガラスだ。が、結衣が用意した、小型の共振装置(特定の周波数でガラスの分子結合を一時的に弱める)をケースに押し当て、スイッチを入れる。
ブーン… かすかな振動。ガラスが微かに曇る。数秒後、ケースの前面が、静かに横に滑り、開いた。
私は、手袋をはめた手を伸ばし、勾玉をつかむ。
冷たい。しかし、その冷たさは、単なる温度ではない。千年の時を超えた、深い寂寥と、どこか優しい決意が、その石からにじみ出ているようだ。
その瞬間――。
保管庫の外、扉の向こうで、もんろの声が聞こえたような気がした。叫び声ではない。驚きの、息をのむような声。
同時に、私の手中の勾玉が、ぽわっと柔らかい光を放った。光は、乳白色から、次第に薄い桜色に変わっていく。
そして、私の意識が、一気に引っ張り込まれる。いや、引っ張り込まれるというより、勾玉を通して、扉の外のもんろの意識と、繋がった。
視界はない。音だけだ。
まず、遠い、遠い時代の歌謡。万葉の調べ。人が自然に、喜びや悲しみを口ずさんだ、飾らない旋律。
それに重なる、無数の祈りの声。飢餓に苦しむ人々の、かすかなささやき。「どうか、わが子を…」「一粒の米でいい…」「あの世では、苦しまずに…」
そして、嬰児の啼哭。新たな生命の、しかし、すぐに消え入りそうなかすかな泣き声。
それらの音が、層を成し、渦を巻き、私ともんろの意識を包み込む。映像はない。ただ、音の洪水だ。千年の時を隔てた、無数の人々の、生の証が、音として記録されている。
そして、そのすべての音の中心に、一つの、澄んだ、しかし深い哀しみをたたえた女性の声が響く。
『後の世の人よ』
声は、優しい。しかし、どこか、断固としている。
『顔を忘れるな』
一呼吸。
『顔こそ、人の証』
その言葉が、私たちの意識に、深く、深く刻み込まれる。
顔こそ、人の証。
それは、単なるスローガンではない。桜が、飢餓で次々と消えていく人々の「顔」を必死に記憶し、能面に封じた理由だ。名前も、物語も、すべてが失われても、最後に残る「顔」――その形、その表情こそが、その人がこの世に存在した、唯一無二の証拠なのだ。
その瞬間、勾玉が、さらに強く光る。その光が、空中に、かすかな文字を浮かび上がらせる。古代文字だ。しかし、なぜか、私たちには読める。
『壱百八の面、揃いて、真の扉開く』
『始まりの巫女、終わりの巫女、邂逅の時、記憶は還る』
108枚の能面。108人の巫女。全てが揃った時、真実の扉が開く。最初の巫女(桜)と、最後の巫女が出会う時、記憶は還る――。
その意味を理解する間もなく、保管庫内に、けたたましい警報が鳴り響いた。
ピーポーッ!ピーポーッ!情感センサー異常!侵入者検知!
しまった。勾玉との共鳴が、私の情感(そして、扉の外のもんろの情感)を増幅させ、センサーを突破してしまった!
私は、勾玉をしっかり握りしめ、ダクトへと駆け戻る。上へ這い上がる。背後で、重い扉が開く音。警備員の怒声。
「止まれ!」
ダクトを逆戻り。非常に狭い。背中に冷や汗が走る。何とか元の廊下に出る。扉の外には、もんろが、マスク越しに必死な表情で立っている。
「尚さん!」
「走れ!」
私たちは、非常階段を駆け上がる。下から、複数の足音が追ってくる。銃を構える音。
地上階に出る。正面玄関はもう使えない。結衣が待つのは、裏の荷物搬出口だ。
廊下を曲がり、搬出口が見える。外には、結衣のキャンピングカーが、エンジンをかけたまま待っている。
「あと少し!」
その時、搬出口の横のドアが開き、黒い戦闘服の特殊部隊員が飛び出してきた。銃口が、私を狙う。
パン!
銃声。しかし、痛みはない。
前に、もんろの体が、弾かれるように動いた。彼女が、私の前に飛び出し、盾になったのだ。
弾丸が、もんろの左肩を貫いた。シールドタイツと作業服を貫通し、血しぶきが上がる。
「もんろ!」
彼女の体が、よろめく。私は、彼女を抱きしめ、そのままキャンピングカーの開いたドアへと飛び込む。
「出発!」 結衣が叫ぶ。
キャンピングカーが急発進する。後部座席で、私はもんろを抱き、彼女の肩の傷を押さえる。血が、私の手のひらを温かく濡らす。マスクとシールドタイツの一部を引き裂き、傷口を確認する。弾丸は貫通しているようだ。出血は多いが、幸い、主要な血管や骨には当たっていない様子。
「ばか…! なぜ飛び出した!」
もんろは、痛みで顔を歪めている。マスクは半分外れ、彼女の顔がのぞいている。冷汗と痛みで青ざめているが、その目は、かすかに笑っている。
「…だって…尚さんが…珠を…持ってる…」
彼女は、私が握りしめた勾玉を、かすかに見つめる。
「…桜…先輩…に…会えた…」
彼女の目が、とろんとしてくる。ショックだ。
「もんろ! 目を開けろ! 結衣、病院へ!」
「ダメです!」 結衣がハンドルを握りしめながら叫ぶ。「病院は、真っ先に監視される! 純心会の隠れ家へ行きます。そこに、医者がいます!」
キャンピングカーは、深夜の東京の路地を、狂ったように曲がりくねる。後ろでは、複数の車両のサイレンが、近づいては離れ、また近づく。
私は、もんろの傷口を、できるだけ強く押さえ続ける。血はなかなか止まらない。彼女の体温が、じわじわと下がっていくように感じる。
「しっかりしろ、もんろ…約束だろ? 本当の空の色を見に、行くんだろ?」
もんろの瞼が、かすかに動く。彼女は、かすかにうなずく。
「…ええ…」
彼女の手が、私の手(勾玉を握っている方)に、かすかに触れる。勾玉は、まだかすかに温かい。
「…壱百八…全部…揃えないと…」
彼女は、夢見るように呟く。
「…会い…に…行かないと…」
そして、意識を失った。
私は、もんろを抱きしめ、拳を握りしめた。手中の勾玉が、かすかに震えている。108枚の能面。全て揃える。最初と最後の邂逅。
道は、まだ遠い。しかし、終わりは、もう見え始めている。




