集合する顔
逃亡の道中、もんろは、CPDSに苦しむ人々を見過ごすことができなかった。
キャンピングカーが通りかかる町々、村々。灰色の世界に沈む人々の、かすかにうつむいた後ろ姿。それを見るたび、もんろの呼吸が浅くなり、手が膝の上でぎゅっと握りしめられる。結衣の警告も、私の制止も、彼女の耳には届かないようだった。
「…少しだけ、寄っていきます」 彼女が、小さな声でそう言い、車から降りる。ベールを深くかぶり、人目を避けながら、しかし迷いなく、苦しんでいる者のもとへと歩み寄る。
最初は、小学校の校門前でうずくまる少年。ランドセルを背負い、泣きじゃくっている。もんろがそっと近づき、声をかける。
「どうしたの?」
少年は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。「…おかあさんの…おべんとう…黄色かったのに…思い出せない…」
毎朝、母親が作ってくれた卵焼きの、鮮やかなレモンイエロー。それが、いつの間にか、薄汚れた灰色の塊にしか見えなくなっていた。少年は、母親の愛情の「色」を失い、不安でたまらなかった。
もんろは、少年の前にひざまずき、そっと彼の手を握る。歌は歌わない。ただ、優しいささやきのようなハミングを、少年の耳元で響かせる。
少年の目が、かすかに見開かれる。「…黄色…レモンみたいな…」
彼の記憶の奥から、かすかなイエローの光がよみがえる。もんろの頬(ベールの下)が、ほんのりと温かくなる。少年の笑顔と共に、ほんのわずかなイエローの色素が、彼女の顔のパレットに加えられた。
代償:もんろの左目の下に、ごく薄い、レモン色の小さなそばかすが現れた。
次は、路地裏の古いアパートの前。白髪の老女が、ぼんやりと洗濯物を干している。彼女の目は虚ろで、手の動きも機械的だ。もんろが声をかけると、老女はゆっくりと振り向き、寂しげに微笑んだ。
「…初恋の人に…会った時の…着物の柄…桜だったか、藤だったか…」
戦前に、たった一度、祭りで出会った青年。彼女が着ていたのは、母から譲り受けた淡い色の着物。その模様の記憶が、色と共に失われ、彼女の青春の一片が空白になっていた。
もんろは、老女と並んで洗濯物を干しながら、かすかに、古い祭り囃子の節を口ずさむ。老女の目に、かすかな光が灯る。
「…桜…淡い桜色…小紋で…」
老女の頬が、ほんのり赤らむ。思い出の色が、かすかに戻る。もんろの右頬に、ごくかすかな桜色のほのかな染みが浮かび、すぐに肌に溶け込むように消える。
代償:もんろの着物(旅用の簡素なもの)の袖口に、目に見えないほど微かな、桜の花弁のようなかすかな模様が、一瞬、光って見えた。
そして、夜のコンビニ前。スーツ姿の若い男性が、缶コーヒーを片手に、虚脱したようにベンチに座っている。昇進したばかりだという。しかし、初めての大きな給料袋を受け取った時の、あの誇らしく、嬉しかった笑顔を、自分がどう歪ませていたか、思い出せない。
「…写真を見ても…他人の笑顔にしか見えない…あれが、本当に俺なのか…」
もんろは、彼の隣にそっと座る。無言で、彼の肩にそっと手を置く。そして、ごくかすかな、励ましのようなハミングを響かせる。
男性の目に、涙が浮かぶ。「…ああ…そうだ…あの時、ちょっと、右の口元だけ、思いっきり上げて…笑ってた…」
彼は、思わず自分の右口元を触る。もんろの口元も、かすかに、同じような、少しぎこちないが嬉しそうな引きつりを一瞬見せる。
代償:もんろの口元の右側に、ごく微かな、笑いじわのような浅いラインが、一瞬刻まれた。
こうして、もんろの「借り」は、雪だるま式に膨れ上がっていった。
黄色のそばかす。桜色の染み。ぎこちない笑いじわ。それらは、一つ一つはかすかで、すぐに彼女の顔の「蠢き」に飲み込まれてしまう。しかし、数が増えるにつれ、彼女の顔は、深刻な不調和を呈し始めた。
ベールを外した時、その変化は誰の目にも明らかだった。
左目は、漁師の妻の優しい切れ長から、さらに少年の無邪気な丸みを帯び、どこか幼さが残っている。しかし、右目は、老女の深い皺と、戦場の兵士の鋭い観察眼が混ざり、年齢も性別も定かでない、深く疲れた老獪さを宿していた。
口元は、画家の妻の柔らかい微笑みの形を基本としながらも、時折、若いサラリーマンのぎこちない笑いや、飢餓に倒れた者の苦痛の歪みが、瞬間的に表面化する。
肌の質感さえ、場所によって違う。頬の一部は少女のようなつるりとした柔らかさ、額の一部は老女の深い皺、顎のラインはどこか男性的な角ばりを見せる。
光の当たり方で、彼女の顔は、全く異なる年齢、性別、時代の人間のように見えた。同じ顔の中で、無数の人生の断片が、押し合いへし合いし、調和するどころか、互いに否定し合っているようだった。
もんろは、次第に鏡を恐れるようになった。キャンピングカーの小さな鏡に、偶然映り込んだ自分の顔を見て、思わず叫び声を上げ、鏡をタオルで覆ったこともある。洗面のために川の水をくむ時、水面に映る自分の倒影に、十人以上の他人の顔が一瞬で入れ替わり立ち替わり浮かび上がるのを見て、恐怖のあまりバケツを転がし、泣きじゃくった。
「…あれは…私じゃない…誰だ…あの人たちは…?」
彼女は、震える手で自分の顔を触りながら、そう繰り返す。触れる部位によって、肌の感触さえ違う。老人のごわごわ、子どものすべすべ、労働者のごつごつ。
ある夜、私は、もんろの異変に気づいた。深夜、彼女がベッドから起き上がり、無言で車内を歩き回る。夢遊状態だ。そして、口を開く。
『…色は…いのちだ…』(老画家・風間の、深い感慨に満ちた声)
『…かえりたい…うみが…みたい…』(老漁夫の、切ない嘆き)
『…ははうえ…ゆりの…はなが…』(戦場の兵士・楓の記憶の中の声)
『…おかあさん…おべんとう…きいろ…』(少年の、泣きじゃくる声)
無数の声。無数の願い。無数の人格。それらが、もんろという一つの肉体から、無秩序に、しかし切実に溢れ出る。
私は、飛び起き、もんろを抱きしめた。彼女の体は、冷や汗で濡れている。目は見開かれているが、焦点が合っていない。中で、無数の亡霊たちが、彼女の意識を奪い合っている。
「もんろ! もんろ、聞こえるか?! 戻って来い!」
彼女は、私の腕の中で、小刻みに震え続ける。やがて、力が抜け、深い眠りに落ちていった。朝まで、私は彼女を離さず、抱きしめ続けた。彼女の肌を通して、無数の他人の人生の鼓動が、混乱したリズムで響いているように感じた。
翌朝、私は限界に達していた。
キャンピングカーを路肩に停め、もんろの前に立ちはだかった。彼女は、ベールをかけ、静かに朝食のパンをちぎっていた。だが、その手には、老画家の筆だこ、老女の関節の腫れ、若いサラリーマンのペンだこが、すべて微かに刻まれている。
「もう、やめろ」 私の声は、思った以上に荒々しかった。「これ以上、人を治すな」
もんろは、ゆっくりと顔を上げる。ベールの下の目は、私を見つめている。その目は、今日はどの「借り」の色だろう?
「…どうして?」 彼女の声は、平静だった。あまりに平静すぎる。
「どうしてって…」 私は、言葉に詰まった。「お前の顔が見えないのか? 聞こえないのか? 昨夜、お前がどんな声で、どんな言葉を発していたか!」
もんろは、かすかにうつむく。
「…わかっています。私は、たくさんの人の中に、消えつつあります」
「それでも、やめられないのか?!」
彼女は、長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げ、ベール越しに私を見つめた。
「…でも、尚さん」
その声は、どこか諦念に満ちている。
「私は…それでいい、と思っています」
「…何?」
「たくさんの人になること。誰かの一部になること」 もんろは、そっと自分の胸に手を当てる。「だって…『誰でもない』より…『誰かでいられる』ほうが、まだ…」
彼女は、言葉を切った。だが、その意味は、痛いほど伝わってきた。
彼女は、自分が「何もない」状態で生み出されたことを知っている。最初から「自分」という核がない。ならば、無数の「他人」の断片で自分を埋め尽くし、それらを「自分」だと錯覚していたほうが、まだましなのだ。空白の虚無よりも、他人の記憶で満たされた混沌のほうが、まだ「存在」を感じられる。
それは、あまりに悲しい、自己欺瞞だった。
「バカな…」 私は、歯を食いしばった。「お前は、お前だ! 赫映もんろだ! 誰かのコピーじゃない!」
「でも、『赫映もんろ』の中身は、借り物ばかりです!」 もんろの声が、初めてかすかに震えた。「最初から! それが、私の『設計』です! ならば、せめて、この借り物たちを、少しでも役立つように使わせてほしい! 彼らが忘れた色や形や笑顔を、返してあげたい!」
彼女は、涙声になる。
「そうすれば…私も、ほんの少しだけ…『誰か』の役に立ったって、思えるから…!」
その叫びに、私は何も言えなかった。彼女の絶望的なまでの「役に立ちたい」という願い。それは、自己存在の証明なのか、それとも、自らを滅ぼすための口実なのか。
その時、運転席で無線を聞いていた結衣が、振り返った。彼女の表情は緊迫している。
「…もんろさん、尚さん」
私たちは、結衣の方を見る。
「東京から、緊急連絡です。純心会の地下ネットワークが、第三の記憶の珠の場所を特定しました」
結衣の目が、もんろをまっすぐ見つめる。
「第壱代巫女、桜の記憶の珠です。全ての始まり。最初の『借り』と『契約』が記録されています」
その言葉に、車内の空気が一変した。
第一代。全ての源。そこには、この呪いの、真の起源と、おそらくは、唯一の「解決」のヒントが眠っているかもしれない。
「しかし、場所が問題です」 結衣の声が低くなる。「東京都心、皇居外苑に隣接する、ある非公開の地下神社です。政府の最重要機密施設の一つで、今は厳重に監視されています。おそらく、私たちの動きを察知して、わざと囮として情報を流した可能性もあります」
罠かもしれない。しかし、行かねばならない。
もんろは、深く息を吸い込み、ゆっくりとうなずいた。
「…行きましょう」
彼女の目には、かすかな、しかし確かな決意が戻っている。無数の他人の顔の影に覆われていても、その中心に、一本の芯のような光が、かすかに灯っている。
「最後のチャンスかもしれません。桜様の珠に、全ての答えがあるなら…」
彼女は、私の方を見た。その目は、今日は、萩の知性と、楓の優しさと、画家の温かみが、奇妙に調和した、深いこげ茶色だった。
「尚さん、約束を、果たさなければ。本当の空の色を、見に」
私は、拳を握りしめた。胸の奥で、冷たい不安と、熱い決意が渦巻く。
東京へ。千年の呪いの、最初の記憶へ。
もんろの、そしておそらくは、この国の、真の色を取り戻すための、最後の旅が始まる。




