色あせた画家
キャンピングカーは、夜明け前の京都の町外れに停まっていた。
古都の町並みは、薄明かりの中、瓦屋根のシルエットが幾重にも重なり、遠くに東山の稜線がぼんやり浮かんでいる。しかし、全てが深い灰色のグラデーションで、まるで古い水墨画の世界のようだった。ここは、千年の都。無数の記憶と、そして、無数の「色」が失われた人々が息づく場所でもある。
結衣が、小さなメモ用紙に書かれた住所を確認する。
「西陣のはずれ。かつて日本画家として名を馳せた、風間梧朗という老人です。八十歳を超えています。CPDSを発症してから十年。一切の色彩知覚を失い、今は墨のみで絵を描いています」
「なぜ、彼に?」 私は尋ねた。
「彼の妻も、画家でした。色を失う前、二人で多くの鮮やかな作品を残しています。彼のアトリエには、妻の肖像画が、数百枚あるそうです。毎日、一枚。しかし、どれも少しずつ違う」
「違う?」
「ええ。妻の正確な顔を思い出せないからです。だから、毎日、記憶の中の断片を頼りに、『新しい可能性』として描き続けている。『今日の彼女は、こんな笑顔だったかもしれない』『あの日の彼女は、少し怒っていたかもしれない』…そうして、無数の『かもしれない妻』を生み出し続けています」
その話を聞いて、もんろの息が止まったように見えた。彼女は、ベールの下で、かすかに目を見開いていた。
「…毎日…違う顔を…」 彼女が、囁くように言った。
「記憶がないから、固定できない。だから、可能性として描き続ける…」 もんろの声には、深い共鳴が込められていた。彼女自身、自分という「顔」を持たず、無数の他人の顔の「可能性」の海に漂っている。その姿と、老画家の行為が、驚くほど重なって見えた。
「会いたい」 もんろは、はっきりと言った。「お会いして、話がしたい」
風間梧朗のアトリエは、古い町家を改造した、広々としただが、どこか寂れた空間だった。
中は、墨の匂いが充満している。壁には、無数の水墨画が掛けられ、置かれている。風景、花鳥、そして、女性の肖像。
それは、確かに全て同じ女性を描いているのだろう。しかし、一枚一枚、違う。ある絵では切れ長の優しい目、ある絵では丸くて無邪気な瞳。口元も、微笑んでいるもの、真剣なもの、少し怒っているもの。髪型も、服装も、背景も、全てが日によって異なる。
部屋の中央で、瘦せた老人が、大きな硯に向かい、静かに墨をすっていた。白髪はぼさぼさで、作業着には墨の染みが無数についている。彼の目は、虚空を見つめている。色を失った世界で、彼は今、何を見ているのだろう。
「風間先生」 結衣が、声をかけた。
老人は、ゆっくりと顔を上げた。目はかすんでいたが、鋭い観察眼の名残を感じさせる。
「…どなたですか?」
「以前、手紙を差し上げた者です。あなたの絵に、とても興味があります」
老人は、私たち三人をじろりと見た。もんろのベールに、目が少し止まった。
「…ベールの女性。何か、隠していますね」
その直感に、私たちは息をのんだ。
もんろは、一歩前に出る。そして、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。私の顔は…人前では見せられないものです。だから、ベールをしています」
「ふむ…」 老人は、もんろをじっと見つめた。「…あなたの声、どこかで聞いたような…」
もんろは、答えなかった。代わりに、壁の肖像画を見つめながら言った。
「…これらの絵、全部、奥様ですか?」
老人の目が、わずかに見開かれた。そして、深くうなずく。
「ああ。うちの女房だ。…いた、だな。もう、十年も前に、病気で逝ってしまった」
彼の声には、悲痛な響きはない。ただ、深い、枯れたような哀しみがあった。
「彼女がいた頃、この世は色に満ちていた。彼女の唇は桜色、頬はほんのり桃色、瞳は深い褐色…彼女と描いた絵は、すべてが鮮やかだった。でも、彼女が逝き、私がこの病(CPDS)にかかって…全てが灰色になった。彼女の顔さえ、正確には思い出せない」
老人は、無造作に置かれたスケッチブックをめくる。そこには、鉛筆で描かれた、無数の妻の顔のラフスケッチ。
「だから、毎日、描く。記憶の欠片を拾い集め、想像で補い、『今日の彼女』を描く。これが、私にできる、彼女へのせめてもの…弔いだ」
もんろは、その言葉に、深くうなずいた。彼女の目は、一枚の絵——微笑む妻の肖像——に釘付けになっている。その絵は、墨の濃淡だけで、驚くほど豊かな表情をたたえている。しかし、色はない。
「…色を、取り戻したいですか?」 もんろが、静かに尋ねた。
老人は、一瞬、驚いたようにもんろを見た。そして、かすかに、自嘲気味に笑った。
「取り戻したい? もちろんだ。でも、できるものか。この病は、不治だと言うではないか」
「…治すことは、できません」 もんろは、かすかに首を振った。「でも、記憶の中の色を、呼び覚ますお手伝いなら…できるかもしれません」
老人の目が、鋭く光る。
「…あなたは、何者だ?」
「私は…顔を借り、借りを返すことを役目とする者です」 もんろの声は、澄んでいた。「あなたの奥様の、記憶の中の色を、ほんの少し、呼び覚ましてみせます。代わりに…」
彼女は、言葉を切った。代償を口にすることが、ためらわれたのだろう。
老人は、もんろをじっと見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「…構わん。この十年、色のない世界で、墨だけを友として生きてきた。もし、ほんの一瞬でも、あの頃の色がよみがえるなら…どんな代償でも、払おう」
もんろは、深く息を吸い込んだ。そして、ベールの端を、そっと持ち上げた。顔は完全には見せない。口元だけがかすかに見える程度に。
彼女は、目を閉じた。そして、口を開いた。
歌う。『心做し』。彼女の代表曲の一つ。しかし、今、彼女が歌うそれは、ステージでの「癒し」の歌とは全く違った。
声は、かすかで、震えている。しかし、一つ一つの音符に、深い共鳴が込められている。それは、老画家の墨の世界、色を失った哀しみ、それでも描き続ける執着——それら全てに寄り添い、共振しようとする、優しくも痛々しい調べだった。
歌いながら、もんろは、ゆっくりと老人に近づく。そして、その前に跪き、そっと老人の手を、自分の両手で包んだ。
老人の体が、震えた。彼の目が、見開かれる。虚空を見つめていた瞳に、かすかな、しかし確かな揺らぎが生まれる。
「…これは…」 老人の声が、かすれる。
もんろの歌声が、少しずつ、変わる。旋律はそのままに、声の質が、老画家の記憶の奥深くにしまわれた、ある色彩の響きに同調していく。
老人の目から、涙がこぼれた。彼は、もんろに握られた手を震わせながら、もう一方の手で、傍らの筆を取る。硯にたっぷりと墨を含ませ、しかし、ふと手を止める。
彼は、墨ではなく、筆洗の水に筆を浸し、わずかに朱の顔料が残っていた小皿に、その水を含んだ筆先をそっと触れさせた。ほんのわずか、かすかに朱色がにじむ。
そして、彼は、床に広げられた、今日の妻の肖像(まだ墨の線画だけ)に向かい、筆を振るう。
手は震えている。しかし、その動きには、十年ぶりの確信が宿っていた。
筆先が、肖像の唇の部分に、そっと触れる。
ぽたり。
一滴の、かすかな朱が、白い紙の上に、鮮やかな花のように咲いた。
「…くちびる…」 老人の声は、泣き声になっている。「…さくらの…いろ…」
彼は、筆を走らせる。水を含ませ、藍、黄、緑…ほんのわずかに残っていた顔料を、次々と筆に取り、記憶の中の色を、紙の上に呼び覚ましていく。
頬のほんのりとした桃色。髪の深い黒髪(墨だけど、今は「色」として感じている)。着物の藤色の柄。背景の屏風の金箔。
全てが、ほんのわずかな色調。しかし、その絵は、見る見るうちに、死んだはずの生命を取り戻していく。灰色の世界で、十年ぶりに、色が動き、息づく。
老人は、狂ったように描き続けた。涙が頬を伝い、絵の上に落ちることも気にしない。もんろは、その傍らで、歌い続けていた。今はもう、『心做し』の旋律ではなく、老画家の情感の流れに沿った、即興の、優しいハミングのようだった。
夜が明け、朝日がアトリエの障子をほのかに照らす頃、老人は筆を置いた。
彼の前に、一枚の完成した絵があった。『記憶の中の妻』。
墨と、かすかな色彩で描かれた、微笑む女性。それは、これまでの数百枚の肖像のどれとも似ており、どれとも違う。全ての「可能性」が、一つの「真実」へと収束したような、深い愛おしさに満ちた容貌だった。
老人は、その絵を見つめ、深く、深く息を吸い込んだ。そして、もんろの方を振り返る。
その時、彼の目が、見開かれた。
もんろは、ベールを外していた。顔を上げ、静かに老人を見つめている。彼女の顔は、相変わらず無数の「蠢き」に満ちていた。しかし、その中に、明らかな変化が二つあった。
まず、瞳。もんろの瞳の色が、以前の暗い茶色から、深く豊かなこげ茶色——老人の絵の中の妻の瞳の色——に変わっている。
そして、彼女の右手の人差し指と親指。そこに、ごく薄い、しかし確かな、筆だこのような硬さと黄色みが帯びている。老人が六十年かけて培った、職業的な痕跡だ。
老人は、その変化を理解するのに、時間はかからなかった。彼の目に、深い悲しみと罪悪感が浮かぶ。
「…すまない…」 老人の声は、かすれている。「私の…記憶が…あなたを…汚してしまった…」
もんろは、かすかに首を振った。そして、そっと自分の胸——心臓のあたり——に手を当てる。
「違います」 彼女の声は、驚くほど穏やかだった。「これは…『美しいもの』を、分けてもらったのです」
彼女は、自分の新しい瞳の色を見るように、目を細めた。
「初めて…『色』を感じました。暖かい色…優しい色…」
彼女の目には、涙が光っている。しかし、それは悲しみの涙ではない。深い感動に満ちた、温かい涙だ。
「風間先生の奥様は、きっと、とても温かい方だったんですね。この瞳の色は、優しさそのものの色です」
老人は、言葉を失った。ただ、もんろの変わり果てた顔と、その優しい言葉を見つめるしかない。
もんろは、絵の具のついた自分の指を見つめ、かすかに微笑んだ。
「この手の硬さも…先生が、どれだけ真剣に、奥様のことを思い、絵を描き続けてこられたかの証です。重たいものじゃない…尊いものです」
老人は、うつむいた。肩を震わせる。長い沈黙の後、彼は立ち上がり、アトリエの奥の箪笥から、小さな巻紙を取り出した。
「…これを受け取ってくれ」 老人は、もんろにそれを差し出した。「礼などではない…せめてもの、気持ちだ」
もんろがそっと開く。それは、小さな、しかし極めて精緻な日本画だった。
描かれているのは、もんろだ。
ベールはない。顔は、今のもんろそのまま——無数の他人の特徴が蠢き、混ざり合う、混沌とした相貌。しかし、老人は、その混沌の中に、かすかな秩序と調和を見出しているようだった。墨の線で、優しく、しかし確かに輪郭が描かれている。
そして、驚くべきは、その彩色だ。
老人は、自分の記憶の中の色——妻の瞳のこげ茶、桜色の唇、桃色の頬、着物の藤や藍——を、もんろの顔の各部分に、想像で「配分」している。混沌とした顔のパーツの一つ一つに、異なる色が、しかし調和を保って施されている。それは、現実の彼女の顔にはない色だ。しかし、老人の目には、もんろという存在が「本来持つべきだったかもしれない色彩」として、そのように映ったのだろう。
それは、恐ろしくも美しい、幻想の肖像だった。現実の怪物性と、芸術家の優しいまなざしが交錯する、矛盾に満ちた作品。
もんろは、その絵を、息をのんで見つめていた。彼女の目(今はこげ茶色)に、再び涙がにじむ。
「…これが…私…?」
「今の、あなただ」 老人は、かすかに微笑んだ。「私の目に映った、あなたの『可能性』の一つさ。色は、私の記憶から借りたものだ。だから、本当の色じゃない。でも…」
彼は、もんろの新しい瞳の色を見つめる。
「…少なくとも、あなたが今、感じている『温かい色』は、本物だろう?」
もんろは、大きくうなずいた。彼女は、絵をそっと巻き直し、胸に抱きしめた。
「…ありがとうございます。宝物にします」
私たちがアトリエを出ようとする時、老人がもんろを呼び止めた。
「…君は、これからも、人を癒やし続けるのか?」
もんろは、振り返り、深くうなずいた。
「…気をつけろ」 老人の声は、厳しい。「このやり方では、いずれ、君自身が、誰の顔でもない、ただの『色のついた器』に成り下がってしまう。癒やしとは、与えるだけじゃない。受け取るものと、切り離すものの境界を、しっかり見極めなければ」
その言葉は、重く、もんろの胸に響いた。彼女は、もう一度深く礼をし、アトリエを後にした。
キャンピングカーに戻ると、もんろは、老人からもらった絵を、そっと広げて見つめていた。
「…これが、私…」 彼女が、かすかに呟く。
結衣が運転席から振り返る。
「彼の想像の産物よ。現実のあなたではない」
「わかっています」 もんろは、絵の中の「自分の顔」を、指でそっとなぞる。「でも…これが、私の『可能性』の一つだとしたら…悪くないと思いませんか?」
彼女の目は、深いこげ茶色で、老人の妻の優しさを宿している。その目で、彼女は私を見た。
「尚さん、これ…私ですか?」
その問いに、私は少し考え込んだ。絵の中のもんろは、現実の彼女よりも、はるかに「整っている」。色づけされ、調和している。しかし、それゆえに、どこか虚構の匂いがする。
「…今のところは、な」 私は、正直に答えた。「お前の中にあるパーツを、あの老爺が解釈し、色を付けた。それが、今の『赫映もんろ』という存在の、一つの見え方だ」
もんろは、その答えに、満足したようにほほえんだ。
「ええ、そうですよね。今のところは…私です」
彼女は、絵を丁寧に巻き直し、楓の記憶の珠と共に、小さな袋にしまった。彼女の右手の人差し指には、ごく薄い筆だこができている。彼女は、その指をじっと見つめ、そっと握りしめた。
キャンピングカーのエンジンがかかる。次の目的地へ。
もんろは、窓の外の、灰色の京都の町並みを見つめながら、そっと自分の新しい瞳(温かいこげ茶色)に触れた。
「暖かい色…」
その呟きは、幸せでも、悲しみでもない、ただ、深い実感に満ちていた。
彼女は、一つ、また一つと、「借り」を重ねていく。しかし、それらは今、単なる負債ではなく、彼女という存在を構成する、かけがえのない断片へと変わり始めているのかもしれない。
旅は、まだ続く。




