監視官の朝
午前七時、厚生労働省 面容管理課。
廊下の床は、消毒液と研磨剤で磨き上げられたような、無機質な光を反射していた。足音が吸い込まれるほど深い静寂。ここは、表向きは「特殊心理ケア推進室」という曖昧な名称だが、内部では「顔面管理課」と呼ばれている。いや、正確には、互いの顔をまともに見ることさえ憚られるこの部署では、ほとんど口にされることはない。
私は、課長室のドアの前で一呼吸置いた。ノックは三回。間隔は均等に。
「どうぞ」
中から、枯れたような声がした。
部屋は、驚くほど質素だった。鉄製のデスクと椅子。壁にはモニターが三面。窓の外は、同じビル群の灰色の壁面。課長・伊達宗一郎(58歳)は、背筋をぴんと伸ばし、モニターに映るデータ列を見つめていた。かつて自衛隊の衛生兵だったというその横顔は、常にどこか戦場の緊張感をまとっている。
「おはようございます、伊達課長」
「ああ、尚か。座れ」
私は指定された椅子に腰掛けた。革張りだが、硬く、体形に全く沿わない。わざとだろう。
「昨夜の処置、報告は受理した」
伊達課長は、モニターから目を離さずに言った。
「鈴木春子、82歳。混沌度87%。特に異状なく、と。ふむ」
彼はようやくこちらの方を向いた。目尻の深い皺が、笑っているのか、険しい表情なのか、判別しにくい。
「今月のノルマ達成、お疲れ。だが、残念ながら休む暇はない。新しい案件だ。重大案件だ」
モニターの一つが切り替わり、一枚の写真が表示された。
赫映 もんろ
Kagiya Monro
年齢:24 (推定)
身分:芸能活動者(歌手)
指定区分:国家戦略級感情資源 / 潜在的高危険度面容失窃者
写真は、彼女がステージに立っているものだ。白塗りの能面を装着し、絢爛な打掛のような衣装をまとっている。能面の目孔の奥は深い闇で、何が映っているのかわからない。
「彼女のことは、知っているな」
「国民的歌手です」
「歌手、か」伊達課長は鼻で笑った。「彼女は、我が国が現在保有する、唯一の『CPDS緩和装置』だ。いや、『装置』というより、『現象』に近い」
次のスライド。脳波図と、色彩知覚反応を示すカラフルなファンクショナルMRI画像。
「通常の面容失窃症は、他者の記憶や存在に『侵食』され、自己の面容記憶が希薄化する。受動的だ」
「しかし、彼女は違う」
画像が切り替わり、もんろが無面具で——いや、正確には、素顔に極めて近い状態で——マイクに向かうスナップショット。ただ、その顔はぼやけており、詳細が判別できない。写真の解像度の問題ではない。彼女の顔そのものが、撮影の瞬間、微妙に変動しているように見える。
「能動的借取型、と我々は呼んでいる」伊達課長の声に、わずかな興奮の色が滲む。「彼女は歌唱行為を通じて、聴衆——特にCPDS患者——の深層心理にアクセスする。そこで、患者が『失っている、あるいは潜在的に保持している情感的色彩の記憶』を、一時的に、しかし強力に『借り受ける』。そして、彼女の歌声という媒体を通じて、それを増幅し、他の聴衆に『共有』する。これが、CPDS症状の一時的緩和をもたらす」
「借り受ける、とは?」
「比喩ではない」伊達課長は真剣な目で私を見た。「物理的に、だ。彼女は、聴衆から極微量の『面容記憶の断片』を収奪する。その証拠に、彼女の『面容混沌度』は、公演のたびに上昇する。現在、42%だ」
私は胸の奥で、冷たい塊が固まるのを感じた。75%が安全基準。42%は、まだ余裕があるように聞こえる。だが、能動的借取型。つまり、彼女は自らの意思で——あるいは、少なくとも自らの能力行使の結果として——自らを危機に陥れている。
「なぜそんなことを?」
「なぜ、か?」伊達課長は、私が愚かな質問をしたような顔をした。「彼女は『歌姫』だ。人を癒すことが存在意義だ。そして、我々の分析では、彼女自身、その能力の本質と代償を完全には理解していない。あるいは、理解していても、やむを得ないと判断している」
次のスライド。もんろのスケジュール表と、数値予測グラフ。
「現在の活動頻度と混沌度上昇率から計算すると、あと約1年2ヶ月で、混沌度75%の閾値に達する」
1年2ヶ月。そう遠くない未来だ。
「貴様の任務は二つだ」伊達課長の声が低くなる。「第一に、継続的監視。彼女の混沌度、精神状態、能力行使の影響を詳細に記録・分析する。第二に——」
彼はためらった。ごくわずか、だが確かに。
「第二に、『最終処理』の適格性判断だ。混沌度が70%を超えた時点で、彼女を通常の面容失窃症末期患者と同様に『桜安』処置するべきか否か。あるいは、国家資源として、別の形で…維持する道はないか。その判断材料を揃えろ」
私の喉が渇いた。彼女を、殺せ、と?
「彼女は国宝です」
「故に、判断は慎重に、だ」伊達課長の目が冷たい。「国宝が暴走し、公衆の面前で『崩壊』する事態ほど、社会秩序を乱すものはない。特に、彼女の『顔』は、絶対に公衆の前にさらされてはならない。仮面は、あくまで外れないように。それが、絶対原則だ」
モニターが暗くなる。説明は終わった。
「用意したものを渡す。装備課に行け」
装備課は、本庁舎の地下三階にあった。
エレベーターを降りると、金属の扉と、生体認証装置がある。掌紋、虹彩、声紋。三つの認証を経て、重い扉が開いた。
中は、研究所のような無菌室だ。棚には、様々な計器が並ぶ。
担当の技術官・田辺(30歳前後、いつも実験着の上に白衣を羽織っている)が、にこりともせず、三つのケースをカウンターに並べた。
「まず、これ」
一つ目のケースを開ける。中には、一見普通の眼鏡のようなものが収められている。だが、フレームがやや太く、テンプル(つる)の部分に微小なレンズとセンサーが埋め込まれている。
「高感度微表情分析グラス。対象の面部筋肉の微細な動き、皮膚の血流変化、瞳孔の拡張・収縮をリアルタイムで計測・分析する。感情の動きを、数値として可視化する。装着感は普通の眼鏡とほぼ同じだが、バッテリーは72時間持続。充電式だ」
私はそれを手に取った。軽い。普段かけている眼鏡と、さほど重さは変わらない。
「次」
二つ目のケース。中には、スマートフォンよりも一回り小さい、薄い板状のデバイスと、極細のワイヤー数本。
「皮下生体センサーリモートリーダー。対象から最大50メートル離れていても、心拍、体温、発汗、血中成分の微細な変化を捉える。非接触で、対象の装着物などに極小センサーを仕込む必要がある。今回は、対象の楽屋の備品などに予め設置済みだ。このデバイスで受信する」
最後のケース。田辺は、少し間を置いてから開けた。
中にあったのは、拳銃だった。
しかし、通常の拳銃とは明らかに違う。全体が鈍い黒色で、光沢がない。銃身が極端に短く、代わりに、薬莢のような部分が透明なカートリッジで占められている。中には、薄桃色の液体が揺れている。
「特殊モデル『桜安・静粛型』」田辺の声は、棒読みのようだ。「9ミリパラベラム弾を使用する通常型と異なり、圧縮空気により、極細の薬液キャピラリーを発射する。有効射程は5メートル。命中時、キャピラリー先端から『桜安』薬液を対象の体内に注入する。痛みは蜂に刺された程度。作用時間は、通常静脈注射よりやや遅いが、30秒以内に確実に中枢神経を遮断する」
彼は、そっと拳銃をケースから取り出し、私に手渡した。思ったより軽い。プラスチックと、何か軽い合金でできているのだろう。
「安全装置はここ。通常はロックされている。解除には、課長の生体認証と、本部からの遠隔許可が同時に必要だ」
彼は、ためらいがちに付け加えた。
「…使うことがないよう、願っています」
私は拳銃を、腰の内ポケットに収まる専用ホルスターに納めた。重さは軽いが、その存在感は、胴体に冷たい鉛を埋め込まれたかのように沈んでくる。
「では」
私は三つの装備を携え、装備課を後にした。エレベーターが上昇する間、微表情分析グラスのフレームが、こめかみをわずかに締め付ける。もう、外せない。
公用車は、黒色のセダンだった。運転手は無言。
車内で、私はタブレットを開き、もんろの今日のスケジュールを確認する。
午後1時~3時:リハーサル(関係者のみ)
午後4時~6時:慈善公演『色のない子供たちへ』
会場:東京ホール(小)
対象観客:CPDS重症認定児童 100名(及び保護者)
主催:厚生労働省・子ども支援基金
『色のない子供たちへ』。
タイトルが、胸に突き刺さる。子供たち。CPDSが子供に与える影響は、大人よりも残酷だと言われる。喜怒哀楽の色を知らないまま成長する。笑顔も、泣き顔も、すべて灰色の濃淡でしかない世界。
もんろは、彼らに何を見せるというのか。借りてきた、偽りの色彩をか?
車窓の外、東京の街並みが流れていく。看板、信号、人々の服——すべてが、高度なモノクロ写真のようだ。これが、正常な人々の見る世界なら、CPDS患者のそれは、さらにコントラストが低く、ぼんやりとしているのだろう。まるで、常に深い霧の中にいるように。
妻・早織の症状が進んだ時、彼女はそう言っていた。
「羅夢、あなたの顔の輪郭が…ぼやけてる。昨日より、もっと」
その言葉を聞いた時、私は彼女の目をまともに見られなかった。彼女が見失っているのは、私の顔の輪郭だけではない。彼女自身の、そして、私への愛の「色」までも。
東京ホールに到着した。公演までまだ時間があるが、既に何人かの関係者が行き来している。私は「厚生省監察官」の名札を胸につけ、関係者通用口から中に入る。
後台は、意外に狭く、殺風景だった。通路の壁には公演のポスター。もんろの能面の顔が、無機質に並んでいる。スタッフらしき人たちが、器材を運び、小声で打ち合わせをしている。しかし、その空気に、どこか張り詰めたものがある。
私の微表情分析グラスが、さっそくデータを表示し始める。スタッフA:心拍上昇、眉間の皺(緊張)。スタッフB:頻繁なまばたき、口元の引きつり(不安)。
彼らは、何を緊張し、不安がっているのか。
私の任務を、知っているのだろうか。それとも——
案内係の女性に促され、私は楽屋ゾーンへと進む。一番奥の、一番大きなドアの前に来た。ドアには「赫映もんろ 様」とだけ書かれたシンプルな札。
そのドアの横には、小さな覗き窓のようなもの——おそらくは、外部から様子を確認するための、一方通行のガラス窓——が設けられていた。
「こちらで、お待ちください」案内の女性は、そう言うと、さっさとその場を離れた。
私はガラス窓に近づいた。
室内は、広くはないが、きれいに整えられていた。大きな鏡、衣装掛け、そして、部屋の中央に、一人の女性が立っていた。
赫映もんろ。
彼女は、能面をつけていた。写真で見るより、もっと白く、もっと無表情な能面だ。目と口の切れ目は、能面としては標準的なのだろうが、その奥の暗がりが、不気味なほど深い。衣装はまだ簡易的な練習着のようなものだが、その佇まいは、既に「舞台の上」のそれだった。
彼女の前に、演出家らしき男性が立ち、熱心に話しかけている。手振りを交え、時折書類を指さす。
もんろは、微かにうなずく。その動きは、優雅で、洗練されている。
しかし、私の微表情分析グラスには、異様なデータが表示されていた。
対象:面部筋電図 — 全般的に低活性。特定の感情パターンを検出せず。
シミュレーションモード:有効
自然反応:0%
自然反応、0%。
つまり、彼女は、演出家の話に合わせて、能面の下で「うなずく」という動作をしているが、それは顔の筋肉を意図的に動かしているだけで、内心の同意や理解といった「自然な感情の動き」に伴う表情変化は、一切ない、ということだ。
まるで、高度なアンドロイドが、プログラムに従って動作しているようだ。
演出家が話し終え、書類を置いて去ろうとした。その時、もんろが軽く一礼した。角度も深さも、完璧に計算された、舞台上の礼だ。
演出家は、もんろの能面を見つめた。一瞬、口元が歪んだ——グラスは「嫌悪に近い緊張」と分析した——が、すぐに無表情に戻り、頷き返してドアの方へ歩き出した。
彼は、私が立っているガラス窓の前を通り過ぎた。その時、彼の目が、一瞬、ガラス窓——そして、その向こうにいるはずの私——に意識を向けた。そして、まるで忌まわしいものを見たかのように、素早く目を逸らし、加速するように歩き去った。
楽屋の中では、もんろが一人残された。彼女は鏡の前にゆっくりと歩み寄り、能面の角度を微調整している。長い黒髪の一部を、能面の耳の横に整える。その動作は、流れるように滑らかだ。
しかし、彼女は、鏡に映る自分の姿——能面をつけた姿——を、ほとんど見ていない。視線は、能面の目の切れ目から虚空を見つめるように、どこか遠くに向かっている。
彼女は、今、何を考えているのか。それとも、何も考えていない「モード」なのか。
データは、相変わらず「自然反応0%」を表示したまま、静かに点滅している。
私のポケットの中で、皮下センサーリーダーが微かに震えた。もんろの生体データを受信し始めたようだ。心拍:毎分58。安定しすぎている。体温:36.2度。平常。発汗:検出されず。
完璧すぎる平静。これが、彼女の「普通」なのか。
それとも、これが、能動的借取型面容失窃症の、初期の姿なのか。
私は、楽屋のドアから手を離し、深呼吸した。冷たい空気が肺に入る。
課長の言葉が蘇る。
『彼女の『顔』は、絶対に公衆の前にさらされてはならない』
この能面の下に、いったい何があるのか。42%の混沌度が進行した、「顔」とは。
私は、もう一度、ドアの取手に手をかけた。
微表情分析グラスのレンズが、私の視界の隅に、冷静な数値を表示し続ける。
任務開始。
対象:赫映もんろ。
目的:監視、及び、評価。
取手を押し下げ、ドアを開けた。




