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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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記憶の珠

九州の山道は、本州よりもさらに深く、静かだった。

キャンピングカーは、舗装もまばらな細い道を、呻るように登っていく。周囲は、杉と広葉樹の深い緑(もんろの目には濃淡の灰色)に覆われ、所々に、苔むした巨石が転がっている。人気はほとんどない。地図によれば、この先の集落は、数十年前に過疎化で消滅したという。

「ここで止めよう」 結衣が、地図と照らし合わせながら言った。「祠は、ここから山道を三十分ほど登った所にある。車では行けない」

私たちは車を、道脇の木陰にできるだけ目立たないように停めた。装備を最小限にし、山道に入る。もんろは、相変わらず薄いベールを顔に巻いている。彼女の歩みは、前日よりも確かになっているように見えた。左頬の「魚のそばかす」は、ごく薄いが、確かに刻まれている。

道は、すぐに獣道のようになった。倒木を跨ぎ、谷川を飛び石で渡る。結衣が先導し、私がもんろの後ろから見守る。彼女の息遣いは荒いが、足を止めようとはしない。

「あれです」 結衣が、前方の杉林の合間を指さした。

鬱蒼とした木立の奥に、石の鳥居が、かすかに見える。苔と蔦に覆われ、何本ものつる草が鳥居の貫を絡め取り、地面にまで垂れ下がっている。その向こうに、小さな、荒れ果てた祠の屋根が見えた。

しかし、鳥居の手前数メートルで、結衣が手を上げて止まった。

「…結界が、まだ生きている」

私には何も見えない。だが、空気の質が、確かに違う。鳥居の向こう側が、かすかに歪んで見えるような、そんな錯覚を覚える。静かすぎる。虫の声さえない。

「この結界は、物理的なものではない。情感の『流れ』を遮断するものだ。普通の人間なら、無意識にここを避けて通る。だが、私たちのように、強い情感を帯びた者、あるいは…」

結衣は、もんろを見た。

「…巫女の血を引く者、あるいは、その『器』である者は、感じ取れる。そして、突破する方法も、ある」

もんろは、結衣の言葉を理解したように、ゆっくりとうなずいた。彼女は、一歩前に出る。鳥居の前に立つ。深く息を吸い込み、目を閉じる。

そして、口を開いた。

歌ではない。言葉だ。古い、日本語とは思えない、どこか呪文のような、しかしどこか哀切を帯びた祝詞が、もんろの口から、ゆっくりと、確かな調べで流れ出る。

『ゆりかごの なみだを あつめ ははの かおを かりし われ』

『せんそうの おにを やしない ちちの てを かりし われ』

『すべての かりし もの すべての かお すべての こえ』

『この つづきに つたえ この やくそく は はてず』

彼女の声は、澄んでいて、しかしどこか重たい。千年の時を超えて、無数の巫女たちが口ずさんできた、受け継がれてきた祈りの言葉。それは、もんろに最初から「教え込まれ」ていたものなのか、それとも、能面との共鳴で「目覚め」たものなのか。

祝詞が終わる。

一瞬、静寂。

そして、鳥居の両脇に立つ、苔に覆われた石灯篭が、一つ、また一つと、ほのかな青白い炎を灯し始めた。炎は、風に揺らがない。静かに、冷たく燃えている。

同時に、鳥居の向こう側の「歪み」が、かすかに揺らめき、消える。結界が開かれた。

「行きましょう」 結衣が、深く息を吐き出した。

私たちは鳥居をくぐる。中に入ると、空気がさらに冷たく、重く感じられる。祠は、小さな岩屋を利用した、自然の洞窟を簡素に整えたものだった。扉はない。中は薄暗い。

結衣が懐中電灯で中を照らす。奥の壁に、小さな神龕がある。その中に、絹布に包まれた、何かが置かれている。

結衣が、そっとそれを取り出す。布を開く。

中には、掌に収まるほどの、透明な水晶の珠が現れた。しかし、その内部には、かすかな、乳白色の霞のようなものが、ゆっくりと、絶え間なく渦巻いている。時折、その霞の中に、かすかな顔の輪郭や、一瞬の情景の断片が浮かび上がっては消える。

「第33代巫女、梅…いや、こちらの記録では、『楓』という名で伝わっています」 結衣が、珠をそっともんろに差し出した。「戦国時代、異国で能面となった巫女です。これが、彼女の『記憶の珠』。彼女が、能面になる直前に、最も大切にしていた記憶、そして…彼女が『借り』、しかし決して返すことのできなかったある『約束』を、封じたものです」

もんろは、その珠を、両手でそっと受け取った。珠は、冷たい。しかし、その内部の霞の動きに合わせて、微かに、かすかな温もりを放っているようにも感じる。

「触れるだけで、いいのですか?」 もんろが尋ねる。

「ええ。ただし、覚悟を。中に入っているのは、単なる『記録』ではありません。彼女の情感そのものです。強く共鳴するでしょう」

もんろは、私と結衣を見た。その目には、迷いがない。彼女は、深くうなずき、珠を握りしめる。そして、目を閉じた。


視界が、一気に暗転する。

熱い。乾いた風。見慣れない風景。荒涼とした山肌。遠くに、異国の言葉が飛び交う。戦場の臭いだ。

私は――いや、楓は、粗末な布きれで顔を覆い、崩れかけた廃屋の陰に身をひそめている。周囲では、甲冑をまとった男たち(様式が日本のものとも、この土地のものとも違う)が、傷つき、倒れている。多くは、もう動かない。

ここは、朝鮮だ。楓は、他の多くの女性たちと共に、海を渡り、この地に連れて来られた。しかし、彼女の目的は、略奪や奉公ではない。彼女は、巫女だ。この戦乱の地で、故郷に帰れぬかもしれない兵士たちの、最期の「顔」を預かるために、自ら志願して来た。

一つのうめき声。楓が振り向く。壁にもたれ、腹に深い傷を負った若い武士がいる。二十歳前後か。顔は血と泥で汚れているが、その目は、まだかすかな光を宿している。故郷の方角を見つめている。

楓は、そっと彼に近づく。跪く。水筒から、わずかな水を彼の唇に含ませる。

「…あり…がとう…」 武士の声はかすれる。「…お前…は…」

「私は、顔を借りに来た者です」 楓の声は、優しいが、どこか冷たい。感情を殺している。「あなたの顔を、故郷の母上や、恋人に、確かに伝えるために」

武士の目が、かすかに見開かれる。理解する。巫女の噂は、兵士たちの間でも、かすかに知られていた。死に際に、巫女に「顔」を預ければ、その記憶は日本へ持ち帰られ、能面となって永遠に残る――そう信じられていた。

「…母…上…に…」 武士の唇が震える。「…会え…なくて…ごめん…」

彼の目から、涙がこぼれる。その瞬間、彼の顔から、かすかな光の粒が浮かび上がる。それは、幼い頃の無邪気な笑顔、元服の日の誇らしい面差し、恋人と別れた時の悲しみの表情…彼の人生の、様々な「顔」の記憶の断片だ。

それらが、楓の方へ、ゆっくりと流れ込む。楓は、目を閉じ、それを受け止める。頬に、武士の面影が、ほんの一瞬、重なる。痛い。重たい。でも、彼女は、その重みを、しっかりと抱きしめる。

「約束します」 楓が、囁くように言う。「あなたの顔を、必ず、母上にお届けします。あなたが、ここで戦ったことも、最後まで故郷を思ったことも、忘れさせません」

武士は、かすかに、ほんのわずかに微笑んだ。そして、息を引き取る。

楓は、立ち上がる。次へ。また次へ。

傷つき、瀕死の兵士たちを訪ね歩く。皆、日本人だ。ある者は、楓を死神のように恐れる。ある者は、救いを求める。ある者は、無言で顔を預ける。

彼女は、一人一人に、同じことを言う。

「あなたの顔を、借ります。故郷の、あなたを待つ者のもとへ、確かに届けるために」

彼女が「借りる」のは、顔だけではない。その背後にある、切ない望郷の念、恋人への未練、戦いへの後悔、無念…それら全ての情感だ。彼女の顔は、日増しに「重く」なり、無数の他人の苦悩で、ぐちゃぐちゃに歪んでいく。

ある夜、楓は、壊れた鏡の欠片に映る自分の顔を見つめる。そこには、もう、彼女自身の面影はほとんどない。無数の兵士たちの表情が、層のように重なり、時折、そのどれかが表面に浮かび上がっては消える。恐ろしい相貌だ。

彼女は、吐き気を覚える。でも、手を止めない。これが、彼女の「役目」だから。彼女がここに来た「理由」だから。

そして、決断の日が来る。

日本からの使者が、生き残った者たちの帰還を告げに来る。楓も、帰るよう命じられる。

しかし、楓は、首を振る。

「私は、帰れません」

使者は驚く。「なぜだ? お前の任務は終わった。多くの者の顔を預かったではないか。それを持って帰り、能面となればよい」

楓は、静かに、しかし確かに言う。

「私が日本へ帰ったら、この地に預けたままの顔たちは、どうなりますか? この戦場で散った、無名の兵士たちの記憶は、誰が守りますか?」

彼女は、この異国の地を見渡す。

「彼らの顔は、この土地の空気、土、そして、彼らが流した血と共にあります。ここを離れたら、私は、彼らの記憶を、完全には持ち帰れない。だから、私は、ここに残ります。この地で、能面となります」

使者は、言葉を失う。巫女が、異国で能面化するなど、前代未聞だ。

「でも、それでは、お前の魂は――」

「この地に還ります」 楓は、かすかに微笑んだ。その笑みは、無数の兵士たちの面影を帯びて、深く、哀しい。「私が借りた73の顔と共に。これが、私の…『約束』の果たし方です」

能面化の儀式は、日本のそれとは違う、簡素なものだった。現地の材料で作られた、素朴な能面。楓は、その前で跪く。

彼女の内側で、73の兵士の記憶が、最後の「整理」を始める。彼女は、一つ一つの顔を、心の中で呼びかける。

『佐藤様、あなたの母上は、きっと、毎朝、東の空を見て、あなたの帰りを待っています』

『鈴木様、あなたの恋人がくれた守り袋、私は肌身離さず持っています』

『伊藤様、あなたの故郷の桜、私の記憶の中で、今、満開です…』

一つ一つ、丁寧に。彼女が借りた全ての「顔」と「記憶」に、別れを告げ、そして、能面の中へと、自らと共に封じ込めていく。

最後に、彼女自身の記憶。故郷の小さな村。優しかった両親。巫女として選ばれた日。海を渡る船の上で見た、水平線。

そして、ある決意。彼女は、能面となることを、選んだ。犠牲としてではなく、約束を果たすための、最終的な選択として。

鏡(儀式用の磨かれた金属板)に、彼女の最後の顔が映る。無数の他人の表情が、奇妙な調和を保ち、一つの、深い慈愛と悲しみに満ちた相貌を形成している。その中心に、かすかながら、楓自身の、穏やかで強い意志の光が灯っている。

彼女は、その鏡の中の自分(いや、彼女たち)に向かって、そっと言う。

「お母さん…あなたの息子の顔…私が覚えています」

「みんなの顔を…ずっと…忘れません」

能面が、彼女の顔に、ゆっくりと近づく。意識が、遠のいていく。

その最後の瞬間、楓の心に去来したのは、深い安堵だった。

約束を、果たせた。


「――っ! はっ…!」

もんろの体が、大きくのけぞり、珠から手を離した。水晶の珠は、床に落ち、コロコロと転がった。中に渦巻く霞は、少し薄くなっているように見えた。

もんろは、激しく息をしていた。涙が、とめどなく彼女の頬を伝う。彼女の顔は、激しい「蠢き」を見せていたが、その表情には、楓の記憶に共鳴した、深い哀しみと、どこか清らかな決意が浮かんでいる。一瞬、彼女の眉間に、楓の持っていた、静かながらも揺るぎない強さの影が、かすかに重なった。

「…もんろ!」 私は、彼女の肩を支えた。

「…だいじょう…ぶ…」 もんろは、かすれた声で言い、涙をぬぐおうとするが、また新しい涙があふれてくる。「…楓…先輩…」

彼女は、床に転がった記憶の珠を、そっと拾い上げ、胸に抱きしめた。珠は、まだ微かに温かい。

「…全部…わかった…」 もんろの声が震える。「先輩たちは…能面になることを…選んだんだ」

彼女は、私と結衣を、涙に曇った目で見つめる。

「犠牲じゃない…それは…『約束』なんだ。借りたものを、決して忘れない。そして、その人たちの記憶を、永遠に守り続けるという…約束…」

彼女の言葉に、祠の中が、深い静寂に包まれた。今まで、能面化は、呪われた運命、悲劇の終焉だと思っていた。しかし、楓の記憶は、違った。能面化とは、契約の履行だった。預かった大切なものを、自分という器に封じ、未来永劫、保管するという、重く、しかし確かな「責任」の受け入れ。

「…彼女は、73人の兵士の顔を預かった」 もんろが、珠を見つめながら呟く。「一人一人の名前も、故郷も、思い出も…全部、丁寧に、整理して、能面の中に納めた。だから…彼女の混沌は、『整理された混沌』だった。乱雑じゃない。秩序がある」

もんろが、自分の顔に、そっと手を当てる。彼女の顔の「蠢き」は、相変わらず激しい。しかし、彼女の目は、はっきりと焦点を合わせている。

「…私の顔の中の『借り』は、バラバラだ。無秩序に押し寄せ、混ざり合っている。でも、楓先輩の記憶の珠に触れて…少しだけ、『整理』できた気がする」

結衣が、もんろの様子を注意深く観察していた。彼女が、突然、もんろの生体データ(私のグラスが表示する)を指さした。

「見てください」

混沌度:87.8% → 87.3%

0.5%の下降。明らかな、安定化の傾向。

「これは…」 結衣の目が輝く。「楓の記憶の珠が、もんろさんの中の、ある種の『借り』のパターンと共鳴し、それを一時的に『整理』したからです。珠の中の記憶は、完全に『封じ込められ、整理された』状態です。それに触れることで、もんろさんの中の無秩序な記憶の渦が、少しだけ、秩序立った方向に流れを変えた…」

結衣は、もんろを見つめ、ゆっくりと言った。

「もんろさん…もし、あなたが、全国に散らばっている、全ての巫女の『記憶の珠』を集め、その全てと共鳴することができたら…」

彼女は、言葉を選ぶ。

「…一時的にではあっても、あなたの中の無数の『借り』が、一つの『秩序』のもとに統合され、あなた自身の…『完全な顔』…いや、少なくとも、『安定した容貌』を取り戻せるかもしれません」

その言葉に、私たちは息をのんだ。

完全な顔。もんろが、最初から持っていなかったはずの、彼女自身の「顔」。

だが、記憶の珠は、あくまで「借り」の整理にすぎない。彼女を形作る根本的な「何もない」という事実は変わらない。それでも、もし、無数のパーツが調和し、一つの「まとまり」として機能するなら――。

もんろは、深く考え込んでいる。彼女の手に握られた記憶の珠が、微かに光る。

「…全ての、珠…」 彼女が、かすかに呟く。「それを集めれば…私は、一日でも…『普通』の顔で、尚さんと、空の色を見られるかもしれない…」

その言葉は、あまりにも切ない願いだった。

結衣は、うなずいた。

「道のりは長い。そして危険だ。珠は七つ。全国に点在している。政府も、純心会の過激派も、私たちを追っている。だが…もし、あなたがそれを望むなら、私たちは付き合う」

私は、もんろの手を握った。彼女の手は、記憶の珠のせいか、少し温かくなっている。

「決めるのは、お前だ、もんろ」

もんろは、目を閉じた。長い沈黙。祠の中には、遠くの谷川のせせらぎがかすかに聞こえるだけだ。

そして、彼女が目を開ける。その目には、楓から受け継いだような、穏やかだが確かな決意の光が灯っていた。

「…行きましょう」 彼女の声は、小さく、しかし確かだった。「次の珠を探しに。私が…『私』でいられる、ほんの少しの時間を、手に入れに」

私たちは、祠を後にした。鳥居をくぐり、振り返る。石灯篭の青白い炎が、一つ、また一つと消えていく。結界が、再び閉じられる。

もんろは、首から下げた小さな袋に、楓の記憶の珠をしまい込んだ。彼女の左頬の「魚のそばかす」の隣に、ほんのり、かすかな、楓の優しげな口元の形が、一瞬、かすんだ影のように浮かび、すぐに消えた。

彼女は、新しい「借り」を得た。しかし、それは、無秩序に押し寄せる波ではなく、一つ、確かな、礎となって、彼女という器の底に沈んでいくようだった。

山道を下りながら、もんろが、空を見上げた。曇り空の雲の切れ間から、ほんの一筋、鈍い光が差し込んでいる。

「…青い空…見られる日が、来るかな…」

その呟きは、願いであり、決意でもあった。

旅は、まだ始まったばかりだ。


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