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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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記憶の回廊

指先が、最初の能面——朽ちかけた木片のような、『桜』に触れた。

その瞬間、世界が砕けた。


承平五年。京の都は、飢えに泣いていた。

視界はぼやけ、色は褪せている。懐かしい、遠い時代の空気。煙と土と、かすかな腐敗の匂い。私は——いや、『桜』は、荒れ果てた屋敷の片隅に座っている。膝の上に、軽すぎる小さな体。息がかすかに触れる。それは、我が子だ。三歳になるかならないかの、娘。

娘の顔は、やつれている。頬はこけ、目だけが不自然に大きく見開かれている。しかし、その口元が、ゆっくりと、無理矢理に引きつらせて、微笑みを作る。

「…かあ…さま…」

声は、かすかで、ひび割れている。

「…おなか、すいた…」

『桜』の胸が、鋭く締め付けられる。何もない。与えるものは何もない。この三日、水さえろくに与えられなかった。路傍に転がる草の根をかみ、土をすすり、それでも娘は生きようとした。

「すぐ…すぐ、何か…見つけてくるから…」

嘘だ。外には、屍体と、同じように飢えた人々がいるだけだ。『桜』は、娘をぎゅっと抱きしめる。冷たい。小さな体から、温もりが急速に失われていく。

「…にっ…こ…」

娘の唇が、かすかに動く。目が、『桜』の顔を、一生懸命に見つめている。焦点が合っているかどうかもわからない。だが、その瞳に、最後の一点の光が灯っている。

「…かあさま…わらって…」

わらって。笑って。

『桜』は、必死に顔の筋肉を動かそうとする。頬を上げ、口角を引く。しかし、それは笑顔ではなく、苦痛の歪みにしかならない。涙が、とめどなく流れる。

娘の小さな手が、ゆっくりと上がり、『桜』の涙に触れる。

「…あたた…かい…」

その手が、ぱたりと落ちる。

視界が、ゆらぐ。娘の顔が、ぼやける。しかし、その最後の、無理矢理の、愛おしいほどの微笑みが、『桜』の網膜に、魂に、深く、深く焼き付けられる。

痛い。胸が、裂ける。でも、それ以上に、その微笑みを、絶対に忘れたくない。この世の全てを失っても、この一瞬の、この歪な、愛しい笑顔だけは——

『桜』は、歌い始める。子守唄でも、経文でもない。ただ、喉の奥から滲み出る、音にもならない、苦しみそのものの響き。それが、空間を震わせる。

すると、奇妙なことが起こる。

娘の顔——あの最後の微笑みが、ゆらめき、かすかな光の粒となって、娘の体から浮かび上がり、ゆっくりと『桜』の顔に向かって漂ってくる。そして、『桜』の頬、口元、目尻に、そっと染み込んでいく。

温かい。そして、重たい。

その瞬間から、『桜』の顔が、ほんのわずか、娘の微笑みの形を帯び始める。同時に、路傍に倒れる他の飢えた者たちの、失われゆく表情の欠片が、無数の微光となって『桜』に吸い寄せられ、彼女の肌に刻み込まれていく。

私は、彼女たちの『器』となる。

それが、私に与えられた『役目』。

そう『桜』は悟った。彼女は立ち上がり、飢えと病に倒れる人々の間を歩き始める。彼らの最期の表情、最期の思いを、歌(もはや歌ではなく、情感を吸い込む『呪』)と共に『借り受け』ていく。彼らは、表情を『預ける』ことで、わずかに安らぎ、息を引き取る。

『桜』の顔は、日増しに『重く』なる。無数の他人の苦しみが、層のように積み重なる。時折、鏡を見ると、そこには老夫婦の皺、若い兵士の悔恨、幼子の無邪気さが、一つの顔の中で押し合いへし合いしている。

苦しい。自分が誰だか、わからなくなる。

でも、ふと、頬に手をやると、そこに、娘のあの微笑みの、かすかな『形』を感じられる。それだけでいい。

最後の日。小さな祠の前。『桜』の顔は、もはや『顔』と呼べる代物ではなくなっていた。動く、生きる、表情の寄せ集め。

彼女は、白無垢をまとう。目の前に、木彫りの、無表情の能面が置かれている。これが、私の『終わり』であり、『永遠』だ。

術者たちが、低く詠唱を始める。『桜』は、能面を見つめる。そして、心の中で、最後に、娘に語りかける。

『あの子の笑顔さえあれば……』

儀式の光が、彼女を包む。意識が、ゆっくりと、能面の中へと吸い込まれていく。重い。でも、あの微笑みの温もりだけが、最後まで、かすかな灯のように、彼女の中に残った。

『……それでいい。』


引き剥がされるような感覚。私は、もんろの意識に戻る。

指先はまだ、『桜』の能面に触れている。涙が、私の頬を伝っている。あの微笑みの温もりと、底知れない喪失感が、私の胸の中に、渦を巻いている。

混沌度が急降下する。65% → 48%。深い悲しみは、『借り』を一時的に沈黙させるのか?

しかし、時間はない。次の能面が、私を呼んでいる。


戦場の臭い。鉄と血と焼け焦げた肉。

私は、『楓』だ。足元には、鎧をまとった若い武者が倒れている。腹に槍が貫き、瀕死だ。彼の目は、虚空を見つめている。唇が動く。

「…はは…うえ…ゆり…の…はな…が…」

母上…百合の花が…

彼の瞳に、最期の瞬間、ふるさとの庭の、白い百合が咲き乱れる光景が浮かぶ。母の優しい笑顔。その記憶が、かすかな金色の光となって、彼の体から立ち上り、私(楓)に流れ込む。

私は、無数の戦死者の、ふるさとへの未練、恋人への思い、無念を、次々と『借り受ける』。顔は、兵士たちのたくましい面影や、若き日の面影に変じていく。私は誰? かつては、ただの村の巫女だった。今は、戦場をさまよう『借面の鬼女』と呼ばれる。

最後に、私は、幼い頃に恋い慕った、同じ村の少年——この戦場で出会い、敵同士として斬り合い、お互いに致命傷を負わせた彼の、最期の憎悪と、その奥にある、かすかな懐かしさを『借りる』。それが、私を押しつぶす。

能面化の間際、私は思う。

『誰かでいられるなら……』

彼の記憶の中の、幼い私でいられるなら。

『……それでいい。』


記憶が切り替わる。花街のざわめき。三味線の音。

『梅』だ。遊郭の一室。客は、威張った商人。しかし、その目には、商いで失った信用、家庭の不和による深い孤独がにじんでいる。彼は、私の体を買うが、本当に欲しかったのは、ただ、誰かに、その孤独を『預ける』ことだった。

彼の孤独の色——鈍い灰色の影——が、私に流れ込む。顔の一部が、年老いた男の、疲れた目元になる。

私は、数多の客の、表に出せぬ悲しみ、恥辱、寂しさを『借り受ける』。遊女として、最高の『器』だった。美しく、従順で、何でも受け入れる。

でも、時折、鏡を見て、吐き気を覚える。この顔は、いったい誰の顔か? 借り物ばかり。私の、もともとの顔なんて、もう覚えていない。

大火の夜。遊郭が炎に包まれる。逃げ惑う人々。私は、最も深く『借り』のあった、貧しい書生の部屋へ駆け寄る。彼は、肺を病み、動けない。天井が焼け落ちる。

彼の手を握る。冷たい。彼は、震える声で言う。

「…ご…めん…れい…お前…に…会え…て…」

良かった、と言い切れない。炎が彼を呑む。その瞬間、彼の、わずかな後悔と、私の手のひらに感じた、かすかな温もりの記憶が、私に流れ込む。

能面になる時、私は、その温もりの記憶を、必死に抱きしめていた。

『誰か(彼)の温もりを覚えていられるなら……それでいい。』


記憶は、次々と流れ込む。洪水だ。

明治の女学生。国家の激動に翻弄され、自分たちの『顔』(アイデンティティ)を見失う人々の困惑を吸収する。

戦中の看護婦。戦場から帰還し、心を病んだ兵士たちのトラウマを、自らの夢の中に閉じ込める。

平成のOL。経済的な焦燥、人間関係の虚しさ、SNSに蔓延する無表情の仮面の下の孤独を、静かに集め続ける。

どの時代の巫女も、同じ問いを抱く。

『私は誰?』

そして、ほぼ同じ結論に至る。

『誰か(大切な人、あるいは、ただの“誰か”)の記憶を、引き受けて生きられるなら。』

『それでいい。』

能面化とは、自らの『私』を放棄し、『誰か』の記憶の保管庫となること。永遠の、自己犠牲。それが、この国の情感の均衡を保つ『装置』としての、巫女の役目だった。

悲しい。哀れだ。そして、どこか、清らかですらある。この無私の犠牲の連鎖に。

私は、その連鎖の、108番目だ。


最後に残ったのは、空白の能面。『百合』。

触れる。ここには、はっきりとした『記憶の情景』はない。ただ、無音の絶叫と、制御不能な逆流の、感覚だけが渦巻いている。


真っ白な部屋。機械の音。現代だ。

『百合』は、ベッドに拘束されている。周りには、白衣の人間たち。彼らは、『研究者』だ。古代の術者ではなく、科学者だ。

「最終段階です。情感負荷を最大にし、能面化への耐性を確認します」

『百合』の体に、無理やり、強烈な情感刺激が流し込まれる。戦場の映像、災害の記録、人々の悲鳴——人工的に増幅された苦痛のデータだ。

「うああああっ——!」

『百合』が叫ぶ。顔が、激しく歪む。無数の『借り』が、沸騰する。でも、彼女の心には、ある一つの思いが強くある。

『嫌だ。』

これまでとは違う。能面になることを、『役目』として受け入れられない。彼女は、自分が『百合』という、一人の女の子だったことを、ほんの少し、強く覚えている。美術部に入り、空を描くのが好きだった。母が作るカレーが、少し甘すぎるのが不満だった。そんな、取るに足らない、自分だけの記憶を、ほんのわずか、抱えている。

『返す。全部返す。この苦しみ、誰にも預けたくない。みんな、自分で抱えてろ。私だって、私の苦しみを抱えているんだから!』

それは、わがままな、幼稚な反抗だったかもしれない。だが、彼女の内に蓄積された膨大な『借り』が、その『自我』の叫びに共鳴し、暴走を始める。

制御不能。情感の津波が、実験室を、そして、それを超えて外部へと逆流していく。センサーが破裂。研究者たちが悲鳴を上げる。

『百合』の視界が、真っ白になる。顔から、『借り』た全ての表情が、剥がれ落ちていく。剥ぎ取られる。痛い。苦しい。でも、それと同時に、軽くもなる。

全てを返している。これで、私は——

視界の端に、実験室の奥、ガラス越しの別室が見える。そこには、整然と並んだ、円筒形の培養槽。一つ一つに、番号が振られている。

107

その隣。108

108番の培養槽の中には、透明な液体に浮かぶ、一人の少女がいる。髪は長く、目を閉じている。顔は——

つるりとしている。

目も鼻も口もない。卵の殻のような、なめらかな曲面。

それは、『何もない』状態の、もんろだった。

『百合』の意識が、遠のく。最後の瞬間、彼女は、空白の能面(自分の『終わり』)を見つめながら、心で叫ぶ。

『返す……全部返す……』

『私じゃない……』

『私が……』

私が、どうしたかった?

言葉は、続かない。意識は、空白の中に消える。


「はっ……! ぐっ……!」

私は、もんろの意識に、激しく引き戻された。空白の能面から手を離し、のけぞる。息ができない。胸が、押し潰されそうだ。目から、鼻から、耳から、ありとあらゆる感覚から、107人分の記憶の残響が、洪水のようにあふれ出る。

私は、床に崩れ落ちる。背中を打ちつける痛みも感じない。

頭の中で、声が渦巻く。

『あの子の笑顔さえあれば…』

『誰かでいられるなら…』

『彼の温もりを覚えていられるなら…』

『返す…全部返す…』

『私じゃない…』

『私が…』

無数の声。無数の願い。無数の無念。そして、全てを飲み込む、巨大な諦念と、ほんのわずかな反抗。

私の顔が、焼けつくように熱い。皮膚の下で、107人分の『借り』の断片が、一斉に目覚め、暴れ出す。『桜』の娘への愛おしさ。『楓』の戦友への未練。『梅』の書生への切なさ。そして『百合』の、全てを否定したいほどの苦痛と怒り。

それらが、私という器の中で、ぶつかり合い、押し合い、泣き叫ぶ。

「ああ…うう…」

声が出ない。唸り声だけが漏れる。私は、床の上で、エビのように体を折り曲げる。両手で顔を覆う。でも、手のひらを通して、顔の形が、激しく、恐ろしい速さで変化していくのを感じる。老人の皺、幼子の柔らかさ、兵士の傷痕、遊女の厚化粧、学生の眼鏡の跡——それらが、一秒間に何度も、皮膚の上を駆け巡る。

混沌度の数値(私の意識の片隅で、かすかにグラスが表示している)が、狂ったように振れる。50% → 85% → 40% → 90%。限界を超えている。私は、砕ける。

「…わ…たし…は…」

歯の間から、言葉を絞り出す。

「108…にん…め…」

108人目。最後の巫女。全ての『借り』と『無念』の、最終的な行き先。

「ぜんぶ…おな…じ…」

どの巫女も、同じ道を歩んだ。問い、苦しみ、諦め、能面になる。

「お…わ…り…」

終わり。私にも、同じ終わりが待っている。いや、もう、終わりが来ている。このまま、ここで、107人の亡霊たちに引き裂かれ、何も残らずに消える。

「もんろ!」

遠くで、誰かが叫ぶ声。尚さんの声だ。でも、届かない。声も、光も、全てが、記憶の渦に飲み込まれていく。

顔を覆う手のひらが熱い。いや、熱いのは、首の後ろだ。貼り付けたままだった、故障した『面容干渉器』が、過剰な情感エネルギー(私と107枚の能面からの)に耐えきれず、ジューッ という音と共に過熱し、焼ける臭いがする。

パチン、という小さな破裂音。

干渉器が、完全に焼き切れた。

その瞬間、私の顔の暴走が、さらに激しくなる。制御するものが、何もなくなった。107人分の表情が、自由に、狂ったように、私の顔の上を駆け抜け、混ざり合い、意味のないグロテスクなコラージュを形成しては崩れる。

「うあああああ——っ!」

最後の、理性の糸が切れる。私は、叫び声を上げる。それは、私の声でも、107人の誰の声でもない、この世のものとは思えない、絶望の混声だった。

視界が暗くなる。倒れこむ。

最後に感じたのは、床の冷たさではなく、誰かが、必死に私の体を抱きしめる、腕の力だった。

暖かい。その抱擁だけが、沸騰する記憶の海で、唯一の、沈むことのない浮き輪のように感じられた。

そして、闇。


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