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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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桜安

今月のクオータは三人目だった。

月額処理枠の三人目。部屋には消毒液の匂いと、微かに甘い、生体組織が静かに崩壊していくような気配が漂っていた。

ベッドの上の患者——もはや「人」とは呼べないかもしれない——の顔は、融けた蝋人形のようだった。鼻の形はかすかに残っているが、口元は誰かのものかわからない緩やかな曲線へと解け、目尻から頬にかけては、幾人もの老人の皺が重なったような、不自然な襞が刻まれている。医学記録では「面容混沌度87%」と判定された。安全基準の75%を超えている。だから私はここにいる。

「氏名を確認します」

私は声を出さず、心の中で呟く。左手に持つタブレットの画面に、患者の情報が表示されている。鈴木 春子、82歳。面容失窃症、末期。進行度:87%。処置許可:あり。

ベッドの腕にはプラスチックのリストバンドが嵌められている。そこに刻まれたバーコードをスキャナーが読み取る。ピッ、という小さな音。画面に「対象確認完了」の文字。

私は白衣の内ポケットから、銀色のキットを取り出す。中には使い捨ての注射器と、小さなアンプルが一つ。アンプルには桜の花びらが封入された透明な液体が揺れている。商品名は「桜安」。終末期の面容失窃症患者に対する、国家公認の尊厳死薬だ。

手順は決まっている。

1.

アンプルを注射器に取り付ける。

2.

3.

患者の腕に消毒綿をあて、静脈を探す。

4.

5.

針を刺し、ゆっくりと押し込む。

6.

7.

終了を待つ。

8.

すべてがマニュアル通り。呼吸は浅く、規則的。心拍は一分間に七十二。正常だ。これがプロフェッショナルというものだ。

「鈴木さん」

私は声をかける。彼女——いや、この物体——は反応しない。瞳は開いているが、焦点はどこにも合っていない。その目の中には、もはや「鈴木春子」という人格の痕跡はない。ただ、光を反射する二つのガラス玉があるだけだ。

それでも、私は言う。

「これから、苦痛から解放されます」

嘘だ。彼女はもう苦痛を感じていない。感じるための「自己」が、とっくに溶解している。これは私のための儀式だ。殺人者に免罪符を与える、ちっぽけな呪文。

注射器の先端が皮膚に触れる。冷たい。彼女の肌は、年齢のわりに驚くほど滑らかだ。まるで、顔から失われた個性が、すべて肌に逃げ込んだかのようだ。

その時だった。

「……めで……たい……」

声ではない。空気の振動のような、かすれた吐息が、崩れかけた口元から漏れた。

私は手を止める。

「……娘の……結婚式……笑って……いた……きれい……だった……」

言葉は断片的だが、意味は通じる。彼女の脳の、どこか深い場所に、最後の一片の記憶が残っていたのだ。娘の結婚式。花嫁の笑顔。その顔を、彼女は今、混沌の底から掬い上げようとしている。

注射器を持つ指先が、ほんのわずか、震えた。

0.3秒。たったそれだけの間、私は思考を停止させた。この声を、本物の「鈴木春子」の最期の言葉として記録すべきか。それとも、システムエラーとして無視すべきか。

0.4秒目、私は選択を下した。

針を静かに刺し込む。液体が静脈に流れ込む。彼女の体が、かすかに震える。まるで、遠い記憶の中の、花嫁の白無垢の裾が揺れたように。

そして、すべてが静かになった。

面容の混沌は止まり、それ以上に融けることもない。ただ、無表情の、誰でもない「顔」が、枕の上に残る。

私は注射器を廃棄ボックスに捨て、タブレットの報告書を開く。

処理対象:鈴木春子(82歳)

処理時刻:午前2時17分

面容混沌度:87%

処置方法:桜安、静脈注射

立会者:なし

備考:処置直前、対象は「娘の結婚式」について言及。記憶の一時的回帰と判断。処置に影響なし。

「影響なし」

私は声に出して言った。部屋に響く、冷たい自分の声。

遺品の整理は簡素だ。ナースコールのボタン。眼鏡(もう必要ない)。そして、ベッドサイドの引き出しから出てきた一枚の写真。色あせ、角が丸みを帯びている。若い女性が白無垢を着て、曇り空の下で慎ましく笑っている。顔の輪郭は、さっきまでこのベッドに横たわっていた物体の、数十年前の面影をわずかに留めている。

私は写真をビニール袋に入れ、口を密封する。ラベルに「鈴木春子、個人遺品、写真一枚」と記入する。これが、彼女がこの世に存在した、最後の物的証拠になる。

部屋を出る時、振り返る。看護師がすでにシーツを剥ぎ始めている。あの物体は、医療廃棄物として、速やかにこの世界から消されるだろう。

廊下の白い蛍光灯が、目に染みる。午前二時を回った病院は、深い眠りのような静けさに包まれている。CPDS(色彩認知剥離症)の末期患者専用フロアだからだ。ここには、回復の見込みのある患者はいない。ただ、灰色の世界で、自分が誰だかを忘れていく人々が、整然と死を待っている。

エレベーターで一階まで降りる。自動ドアを抜け、外の空気を吸う。

東京の夜は、いつも通り、灰色だ。

いや、正確に言えば、私の目に映る世界は、常に高度なモノクロフィルムを通して見ているようなものだ。コントラストはくっきりしている。ビルの窓の明かり、街路樹のシルエット、濡れたアスファルトに反射するネオンの輪郭——すべてが精密に、冷たく、美しい。ただ、色がない。

色のない世界。それでいい。色があれば、あの日、妻が飛び立った東京タイルの先端の空が、どんなに残酷な茜色に染まっていたかを、また思い出さなければならない。

駅まで十分ほどの道のりを、私はいつもの速さで歩く。呼吸は乱れない。心拍も平常だ。三人目。今月のノルマは達成した。これで、あと一ヶ月、誰も殺さなくて済む——いや、正確には、国が認めた「尊厳ある終焉」を提供しなくて済む。

私のアパートは、環状七号線沿いの、十年ほど前に建った無機質なタワーマンションの十三階にある。一室あたりの面積は広くはないが、独身者には十分すぎる。家具は最小限。白い壁、灰色の床、無垢材のテーブルと椅子一台。そして、唯一、この部屋に「人間」の気配を留めているもの——壁一面にびっしりと貼られた、無数の写真だ。

玄関を開け、まずは洗面所へ直行する。手を洗う。石鹸を泡立て、指の股から手首まで、丁寧に、しかし力強く。一回。二回。三回。マニュアルには「十分な洗浄を」としか書かれていないが、私は七回と決めている。四回目で泡が切れる。五回目で皮膚がヒリつく。六回目で、さっき触れたあの冷たい肌の感覚が、少し薄れる。七回目。水を止め、清潔なタオルで拭く。

次に、上着を脱ぐ。今日着ていたスーツは、すべてクリーニングに出さなければならない。シューズもだ。新しいスーツ、新しい靴下、新しいシューズ。すべて、会社支給のユニフォームだ。私個人のものは、このアパートの中にほとんどない。

身軽になった私は、リビングのスピーカーの前に立つ。スマートフォンを接続し、プレイリストを一つ選ぶ。ビル・エヴァンスの『Peace Piece』。妻が最も愛した曲だ。ピアノの音色が、静かに、しかし確実に、部屋の隅々に染み渡る。

そうして初めて、私はあの壁の前に立つことができる。

壁一面の写真。すべてモノクロだ。いや、正確に言えば、私の目にはすべてがモノクロに映るので、プリントした時にわざわざカラーにしなかっただけだ。一枚一枚、私が「桜安」を扱った人々の、最後の「顔」だ。正確には、「面容混沌度」が75%を超える直前、本人か家族が提出した「最後の清晰な写真」をコピーしたものだ。

鈴木春子の写真は、まだ壁に加えられていない。明日、事務所でプリントしてこよう。彼女の娘の結婚式の笑顔を、この壁のどこかに留める。

壁の中央。ちょうど私の目の高さに、一枚だけ、枠に入れられた写真がある。

早織 (Satori)

それだけの名前が、シンプルなフォントで下に記されている。写真の中の女性は、二十五歳くらいだろうか。髪は肩までストレートで、額が広く、目がくりっとしている。口元が緩く、優しそうな、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべている。

私の妻だ。正確には、元妻。私たちが離婚したのは、彼女が「面容失窃症」の初期症状を示し始めてから、三ヶ月後のことだ。彼女は、私に彼女の「崩壊する顔」を見せたくなかった。私は、彼女の「消えゆく目」を見続ける勇気がなかった。

そして、離婚から一年後。彼女は東京タイルの展望台から、灰色の東京の街に、華奢な体を預けた。

その時、彼女は振り返って、最後の一言を残した。

「羅夢、私の顔、覚えていてくれる?」

覚えている。この写真のように、美しく、壊れやすそうで、愛おしい顔を。でも、彼女が飛び立つ瞬間、風になびく髪の間から見えた彼女の顔は、もうこの写真とは似ても似つかないものだった。右目の形が歪み、左の頬が不自然に引きつり、口元だけが、必死に笑おうとしている——そんな、崩壊の途上にある、恐ろしいまでに「人間的」な顔だった。

私はその顔を、この壁には貼らなかった。ここにあるのは、すべて「プロフェッショナルな仕事」の記録だ。早織は、私の仕事ではない。私の、取り返しのつかない失敗だ。

『Peace Piece』が終わり、静寂が訪れる。部屋には、スピーカーの微かな電流音と、私自身の呼吸の音だけが残る。

ベッドに倒れ込む。天井を見つめる。疲れているはずなのに、目は冴えている。

そして、必ずやってくるあの映像が、瞼の裏に浮かび上がる。

東京タイルの展望台。ガラスの向こう、灰色の雲が低く垂れこめる。早織が柵にもたれかかり、振り返る。風が彼女の髪を乱す。その髪の隙間から——

彼女の顔が、ゆっくりと、ゆっくりと、融け始める。

鼻からだ。先端がとろりと垂れ、頬に流れ落ちる。次に唇。形を保てず、不定形の肉の塊へと変わる。目だけが、ぽっかりと二つの穴として残り、その奥で、何かが光っている——

「羅夢、私の顔、覚えていてくれる?」

その声は、早織の声ではない。幾人もの、老いも若きも、男性も女性も入り混じった、不気味なコーラスのようだ。

私は目を開ける。天井。白い。灰色にしか見えない白い天井。

心臓が、やっと、激しい鼓動を打ち始めている。手の平には冷や汗がにじんでいる。プロフェッショナルだと言い聞かせても、体は正直だ。毎回、この夢を見るたび、こうなる。

枕元のスマートフォンが、低い振動音を立てた。時刻は午前四時。睡眠時間は、せいぜい一時間半だ。

画面には、厚生労働省の内部システムから届いた、重要度MAXの通知が表示されている。

新規監視対象指定

対象コード名:赫映もんろ

種別:国家戦略級感情資源 / 潜在的高危険度面容失窃者

貴殿の任務:対象の安定性評価、及び「最終処理」適格性判断

初回面接:本日15:00、対象楽屋にて

備考:対象は現時点で唯一確認されたCPDS症状緩和能力保持者。取り扱い注意。

私は通知を読み、再び読み、三度目に読み終えて、スマートフォンを置いた。

赫映もんろ。

名前は知っている。いや、今の日本で、その名前を知らない者はいまい。灰色の世界に唯一の「色」をもたらすとされる、覆面の歌姫。その正体については、AIだの、政府の実験体だの、様々な噂が流れている。

国家戦略級感情資源。つまり、国宝だ。しかし、「潜在的高危険度面容失窃者」——彼女自身も、いずれ私が「処理」しなければならない対象かもしれない、ということか。

「最終処理」適格性判断。

私はその言葉を、ゆっくりと噛みしめた。今月三人目を終えたばかりの、私の手が、また誰かの——しかも、国中が拠り所とする「歌姫」の——命のボタンを押す資格があるかどうかを、判断しろ、と。

窓の外、夜明け前の東京の空が、濃い灰色から薄い灰色へと、ゆっくりと色を変え始めていた。色、と言っても、私の目には、ただ明度が変わっているようにしか見えない。

早織の写真が、薄明かりの中、ぼんやりと浮かび上がっている。

「私の顔、覚えていてくれる?」

覚えている。だからこそ、私はこの仕事を続けている。次に、あのような顔で死にたいと言う者を、一人でも減らすために。

私はベッドから起き上がり、再び洗面所へ向かった。今日は特別な「対象」に会う。プロフェッショナルとして、万全の状態で臨まなければならない。

冷水で顔を洗う。鏡の中の男は、どこにでもいそうな、しかしどこか空虚な目をした三十歳前後の顔をしていた。睡眠不足の跡が、目の下に薄く刻まれている。

国家戦略級感情資源、赫映もんろ、か。

彼女の顔は、いったい、どんな風に「失窃」していくのだろう。早織のように、ゆっくりと融けていくのか。それとも、また別の、もっと恐ろしい形で。

15:00。

それまでに、すべての準備を整えなければならない。

私はタオルで顔を拭い、鏡の中の自分に、ごくわずか、口元を吊り上げてみせた。

笑顔の練習だ。今日の「対象」は、普通の患者ではない。歌姫だ。国民的人気者だ。初対面の印象は、重要かもしれない。

しかし、鏡に映った表情は、どこかぎこちなく、不自然だ。まるで、顔のパーツが、どう動けば「笑顔」になるのかを忘れてしまったかのようだった。

私はタオルを置き、鏡から目を逸らした。

準備を始めよう。まずは、新しいスーツに着替えることから。



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