純心会
代々木公園の旧噴水跡は、夜になると、誰も寄り付かない場所だった。
かつては噴水が吹き上がり、子どもたちの笑い声が響いていたらしい。今は、コンクリートの枠だけが崩れかけ、底には枯れ葉とゴミがたまっている。周囲の街灯も少なく、深い木立の影が、さらに暗がりを濃くしている。夜の公園は、CPDSの影響で人通りが減ったこともあり、ほぼ無人に近い。
私は、23時ちょうどにその場に到着した。黒のコートに身を包み、手袋をはめた。寒さというより、緊張で体がこわばっている。ポケットの中には、小型の端末(早織のツールキットの一部で、盗聴・発信器探知機能付き)と、護身用のスタンガン。純心会が過激派とされている以上、用心に越したことはない。
噴水跡の縁に、一人の人影が立っていた。背は高くない。スレンダーな体形。黒いパーカーにジーンズ、顔は黒い布製のマスク(能面の文様がプリントされている)とフードで覆われている。性別はわからないが、佇まいからして若い女性のように見えた。
私が近づくと、その人物はゆっくりと振り向いた。マスクの目穴の奥から、鋭い視線が感じられる。
「時間通りですね、尚羅夢さん」
声は、若い女性のものだった。低く、落ち着いているが、どこか緊張を隠しきれていない。
「あなたが純心会の者か」
「はい。私は結衣と申します。純心会第73代当主です」
第73代当主。つまり、この組織は、少なくとも数百年の歴史を持つ。
「こんな危険な場所に呼び出すとは。私を罠にかける気か?」
結衣は、かすかに首を振った。
「罠ではありません。あなたに、真実を見ていただきたいだけです。そして、選択を」
彼女は、ポケットから薄いタブレット端末を取り出し、操作を始めた。そして、画面を私に向けた。
「まずは、これをお見せします」
画面には、古びた巻物の写真が表示されていた。和紙は変色し、所々に虫食い穴がある。しかし、墨で書かれた文字は、かすれながらも読むことができた。古文だ。私の古文の知識は乏しいが、ところどころに現代語訳が付記されていた。
『面容の巫女、代々現る。其の顔、衆生の面を借り、衆生の色を担う。然れども、借りしものは還すべく、担いしものは重し。遂には、面は混沌と化し、巫女は其の身を以て、能面と成りて鎮まる』
(面容の巫女は、代々現れる。その顔は、衆生の面を借り、衆生の色を担う。しかし、借りたものは還すべきであり、担ったものは重い。遂には、顔は混沌と化し、巫女はその身をもって、能面となりて鎮まる。)
次の画像。別の巻物。今度は、絵が描かれていた。白装束の女性が、無数の人々に囲まれ、その人々から、光る粒のようなものが女性の顔に吸い込まれていく。女性の顔は、ぼやけており、無数の顔が重なって見える。
『巫女の業、三百より五百歳の間に一度起こる。世に色衰の病蔓延する時、巫女現れ、其の病を肩代わる。是れ、天の摂理なり』
(巫女の業は、三百年から五百年の間に一度起こる。世に色衰の病(CPDS)が蔓延する時、巫女が現れ、その病を肩代わる。これは、天の摂理である。)
次々と、画像が切り替わる。能面の写真。古いものから新しいものまで。それぞれに、番号と年代が記されている。No.1(935年)、No.17(1348年)、No.33(1573年)…No.107(2019年)。
107枚。もんろの周りにあった能面の数と一致する。
「これが、我々純心会が千年来守り続けてきた記録です」
結衣の声が、静かに響く。
「面容巫女は、定期的に現れます。人々が『自分自身の顔』を見失い、色のない世界に閉じこもり始める時——それを『色衰病』、今で言うCPDSと呼びます——巫女は、人々から『顔の借り』を受け、その負担を一時的に軽減します。しかし、借りたものは、巫女の内面に蓄積され、やがて巫女自身の顔と自我を侵食していきます」
彼女の説明は、もんろのチップに記されていた内容と符合する。しかし、純心会の記録は、より古く、より体系化されている。
「巫女の面容が混沌の極みに達した時、『面封の儀』が執り行われます。巫女は、意識を保ったまま、能面へと転写される。その能面は、神社に封印され、次の巫女が現れるまで、情感の暴走を防ぐ『鎮めの器』として機能します」
結衣は、タブレットをしまい、私をまっすぐに見つめた。
「赫映もんろさんは、記録に残る108人目の巫女です。おそらく、最後の巫女でしょう」
「最後…だと?」
「ええ。この千年の負の連鎖を、彼女の代で終わらせるため、自然(あるいは、この世の理)が生み出した、最後の『器』だと考えています。彼女が能面となれば、次の巫女が現れることはない。あるいは、現れる必要がなくなるかもしれません」
風が木立を揺らし、枯れ葉がさらさらと音を立てる。闇が深い。
「なぜ、私にそんなことを?」
「あなたは、もんろさんの監視官です。そして、おそらく、彼女の『送り手』にもなるお方でしょう」
結衣の言葉に、私は息をのんだ。彼女は、30日後の計画を知っている?
「政府は、もんろさんを、生ける能面として永久に保存する計画です。ライブの最高潮で、あなたが『永久凝固剤』を注射する。それによって、彼女は、意識を保ったまま、動けない、しかし歌い続ける『装置』となる」
彼女は、私の驚きを尻目に、淡々と続ける。
「政府は、全てを知っています。能面の歴史も、巫女の宿命も。しかし、彼らはそれを『国家的資産』として利用することしか考えていない。もんろさんを、ただの『生贄』として飼い、最後には『器物』として陳列する」
結衣の声に、初めて、熱がこもる。
「でも、私たち純心会は、違います。私たちは、巫女を『守る』ために存在してきました。かつては、能面化の儀を補助し、封印を守護する役目でした。しかし、今は…違います」
彼女は、そっと自分のマスクの端に手をやった。マスクの下から、かすかに、赤黒い、不規則な瘢痕がのぞいている。火傷の跡のようだ。
「私は、子供の頃、一張の能面を壊そうとしました。能面の中に、私の先祖(第73代巫女)が閉じ込められていると思ったからです。でも、能面は壊れませんでした。代わりに、能面に触れたこの手に、『借り』の一部が『逆流』して…」
彼女は、手袋をはめた手を握りしめた。
「あの時、私は理解しました。能面は、巫女の『牢獄』であると同時に、巫女の『願い』が込められた場所でもある、と。彼女たちは、能面の中で、今も、『借り』を返す日を待ち続けている。解放される日を」
結衣の目が、闇の中できらりと光る。
「もんろさんは、違う。彼女は、最初から『何もない』状態で目覚めました。だからこそ、彼女には、『自分』を選ぶ可能性が、ほんの少しだけ残されている。能面になる前に、『借り』を全て返し、『自分』だけの顔を取り戻す可能性が」
それは、あまりに希望に満ちた言葉に聞こえた。もんろが自分自身の顔を取り戻す? あの、無数の顔の断片が蠢く、混沌そのもののような存在が?
「あなたは、なぜ私に?」 私は、繰り返し尋ねた。「私が監視官である以上、あなたたちの敵ではないか?」
「敵でも味方でもありません」 結衣は、そっと首をかしげた。「あなたは、監視官でありながら、彼女に情を移しています。妻を亡くした過去も、CPDS(というより、第107代巫女の事故)に深く関わっています。そして、あなたは、『約束』をしました。彼女に、本当の空の色を見せると」
私の背筋が凍る。なぜ、彼女はそんなことを知っている?
「私たちは、もんろさんの周囲を、細かく観察しています。楽屋の会話も、いくつか拾っています。特に、あの『約束』は、彼女の心に、小さな光を灯しました。今の彼女にとって、それこそが、唯一の『自分らしい希望』です」
結衣は、ポケットから、小さなUSBメモリを取り出し、私に差し出した。
「これが、私たちからの『信頼の証』です。中には、二つのファイルが入っています。一つは、もんろさんが最初に発見された、北海道の廃棄実験施設の詳細な座標と、内部の写真。もう一つは…あなたの奥様、早織さんの、真の医療記録です」
私は、そのメモリを見つめただけで、手を伸ばすことができなかった。
「なぜ…私の妻の?」
「彼女の病は、単なるCPDSではありませんでした。第107代巫女の事故により拡散した『借り』の一片を、なぜか彼女が強く引き受けてしまった。いわば、『債務の継承者』です。政府の公式記録は、それを『面容失窃症』と診断していますが、真実はもっと深い」
結衣は、メモリをさらに差し出した。
「見てください。そして、判断してください。このまま、政府の計画に従い、もんろさんを能面として『処理』する道を選ぶか。それとも…彼女と共に、この千年の呪いを、別の形で終わらせる道を探るか」
私は、ゆっくりと手を伸ばし、メモリを受け取った。冷たいプラスチックの感触。
「私たちは、あなたに選択を迫っているわけではありません。ただ、真実を知った上で、あなた自身の意志で動いてほしい。30日後のライブまで、時間は限られています。しかし、もしあなたが…彼女の側に立つなら、私たちは、全力でサポートします」
彼女は、そう言うと、深く一礼をした。
「では、これで。長居は危険です。あなたがここに来たことは、おそらく、政府も察知しているでしょう。気をつけて帰ってください」
結衣は、くるりと背を向け、木立の闇の中へと消えていった。足音も立てずに。
私は、メモリを握りしめ、その場に立ち尽くした。頭の中がぐちゃぐちゃだ。純心会。巫女の歴史。能面。そして、早織の真実。
深呼吸をして、私は公園を後にする。来た道を戻りながら、周囲に気を配る。誰かが見ているような、背後からつけられているような、嫌な感覚がある。
自宅のマンションに戻ると、玄関のドアの鍵穴の周りに、かすかな引っかき傷があった。ごく新しい。ピッキングの痕かもしれない。中を急いで確認するが、物色された形跡はない。監視カメラか、盗聴器を仕掛られたのか?
私は、メモリをパソコンに接続する前に、早織のツールでスキャンする。マルウェアや追跡プログラムは検出されない。中身は、彼女の言う通り、二つのファイルだけだ。
一つ目を開く。北海道、上磯郡。廃墟となった研究所の衛星写真。そして、内部の写真。もんろが発見されたという地下実験室。崩れた機器。散乱する能面。そして、中央のベッド。ベッドの上には、何も写っていない。いや、よく見ると、ぼんやりとした、人型の“ゆがみ”が写っている。まるで、そこに“何か”がいるのに、カメラが正確に捉えられていないかのようだ。
二つ目。早織の医療記録。これは、私が知っているものとは明らかに違う。表向きの診断書(面容失窃症)の下に、別の、極秘のカルテがスキャンされていた。
患者氏名:早織
生年月日:省略
診断:色衰病(CPDS)・第107代巫女関連症候群
症状:他者面容記憶の侵食、自我面容の希薄化、情感の色彩知覚喪失
原因:第107代巫女(2019年能面化)の情感逆流事故における、二次的・三次的情感債務の継承
予後:不可逆的。進行性。最終段階では、物理的面容の崩壊をきたす。
その下に、細かな経過観察の記録。早織の症状が、ある日を境に急激に悪化したこと。その日付は、第107代巫女の能面化の儀式が行われた日と一致する。
そして、最後の一行。
※対象は、第107代巫女と深い情感的共鳴(家族関係?)を有していた可能性が高い。事故による情感逆流の、最も強力な“受容器”の一人となった。
家族関係? 早織は、第107代巫女と、何らかの血縁か? それとも、ただの“共鳴”か?
私は、モニターを見つめ、思考が停止した。早織の苦しみは、偶然でも、病気でもなかった。千年の呪いの、ほんの一端が、たまたま彼女に降りかかっただけだ。彼女は、ただの巻き添えだった。
その時、スマートフォンが震えた。もんろからのメッセージだ。一日一回だけ許可されている、監視システムを通じた短いやり取り。
『今日の空、灰色が濃いですね。尚さん、空は本来、何色だと思いますか?』
私は、そのメッセージを何度も読み返した。窓の外を見る。相変わらず、灰色の、深い夜の空。
空は本来、何色か?
青だ。晴れていれば青く、夕焼けなら赤やオレンジに染まり、夜は黒に星がきらめく。早織と見た最後の夕焼けは、茜色に染まっていた。彼女は、その色を、「温かい色」と言った。
私は、もんろに返信を打った。
『青い。そして、時には、赤やオレンジに染まる。夜は黒で、星が光る。』
送信する。
すぐに、既読がつく。返信はない。
彼女は、そのメッセージを、どんな風に受け取るのだろう。借り物の知識として? それとも、ほんの少しの、本当の“希望”として?
私は、USBメモリを抜き、厳重に隠した。
純心会。結衣。彼女たちは、もんろを救いたいと思っている。少なくとも、能面という永遠の牢獄からは解放したい。
そして、私に選択を委ねた。
監視官として、国に従い、もんろを能面化するか。
それとも、監視官という立場を捨て、彼女と共に、別の道を探るか。
30日。時間は限られている。
窓の外、夜明け前の闇が、一番深い。
私は、壁の、早織の写真(新しいフレームに収め直したもの)を見つめた。
「早織…俺は、どうすべきだ?」
写真の中の彼女は、変わらず優しく微笑んでいる。彼女の苦しみの原因が、この“呪い”にあるなら、それを終わらせることは、彼女へのせめてもの供養にはならないか。
でも、そのために、もんろを犠牲にしていいのか? 彼女もまた、呪いの被害者ではないか。
答えは、出ない。
ただ、一つ言えることは、もう、彼女を“対象”と呼ぶことはできない、ということだ。
彼女の名は、赫映もんろ。
そして、彼女は、本当の空の色を見たことがない。




