第2話:商人の流儀、貴族の矜持
執務室の窓から差し込む朝日が、机の上に積み上げられた帳簿の山を照らし出している。私は深く息を吐き、手にした羽ペンをインク壺に浸した。夫のアレクセイ様から全権を委任されて三日目。この三日間、私はほとんど寝る間も惜しんで公爵家の「膿」を出し切る作業に没頭していた。
「……さて、ガストン執事長。これはいったいどういうことかしら?」
私は目の前に直立している中年の男、執事長のガストンに一枚の請求書を突きつけた。彼は長年この屋敷に仕える古株で、私のような平民出身の若奥様など、内心では小娘だと侮っている節がある。
「はて、何のことでしょうかな。それは厨房で使う小麦粉の請求書ですが」
「ええ、そうです。ですが、この単価、市価の三倍になっていますわ。取引先は『ドレイク商会』。聞いたことがありませんね」
「ああ、公爵家御用達の老舗ですよ。品質が良いものを仕入れるためには、多少の色はつくものです。奥様のような商売人の家とは違い、貴族の家というのは付き合いというものがありましてな」
ガストンは慇懃無礼な笑みを浮かべ、「素人は黙っていろ」と言わんばかりの態度を見せた。彼はずっとこうやって、浪費家の義母や無関心な義父の目を盗み、私腹を肥やしてきたのだろう。
「品質が良い、ですか。裏の倉庫を確認しましたが、納品されているのは下級品でしたわよ。虫食いもありました。それにドレイク商会について調べましたが、登記簿上の住所はあなたの実家のすぐ隣でしたわね」
私の言葉に、ガストンの表情が強張った。
「そ、それは偶然で……」
「ドレイク商会の代表者は、あなたの義理の弟ですね? 過去五年間の帳簿をすべて洗い直しました。食材、燃料、馬の飼料に至るまで、すべてこの商会を通し、不当な高値で請求させている。差額はあなたと義弟で山分け、といったところかしら」
私は机の引き出しから、彼が横領していた証拠となる裏帳簿の写しを取り出し、扇のように広げてみせた。
「横領額は、金貨にしてざっと千枚。公爵家の財政難の一端は、あなたが担っていたのですね」
「なっ、ぐ……っ! そ、それは……!」
「言い訳は結構です。衛兵を呼ぶか、それとも今すぐこの屋敷から出て行き、二度と貴族街に顔を出さないと誓うか。どちらか選びなさい。もちろん、横領した分は生涯かけて返済していただきますけれど」
ガストンは顔面蒼白になり、膝から崩れ落ちた。彼の背後で控えていた若い使用人たちが、驚きと、そして微かな称賛の色を目に宿して私を見ているのが分かった。彼らもまた、古参の執事長の横暴に耐えてきた側なのだ。
「連れて行きなさい」
私の指示で、衛兵たちがガストンを引きずっていく。
これで一つ、膿を出した。だが、これはほんの序の口に過ぎない。屋敷の中の害虫を駆除したところで、外から富を生まなければ、この家は沈むだけなのだから。
その日の午後、屋敷の玄関ホールが騒然となった。
騒ぎの中心にいるのは、予想通り義母のベアトリスと義姉のソフィア、そして困り果てた顔の御用商人の男だった。
「どういうことなの!? 私のツケが効かないなんて、ふざけたことを言うんじゃないわよ!」
「ですから、奥様……公爵家からの通達で、すべての掛け売りを停止すると……」
「通達!? そんなもの、私は聞いていないわ! このドレスは今度のサロンに必要なのよ! さっさと置いていきなさい!」
義母がヒステリックに叫び、商人の胸ぐらを掴まんばかりの勢いだ。私は階段をゆっくりと下りていく。コツ、コツ、というヒールの音が響くと、ホールが一瞬静まり返った。
「お困りのようですね」
「エレナ! 貴女ね、このふざけた真似をしたのは! 一体どういうつもり!?」
義姉が鬼の形相で私を指差した。その指には、まだ支払いの済んでいない高価なルビーの指輪が光っている。
「どういうつもりも何も、私が命じました。今日からラヴァン公爵家は、すべての商人とのツケ払いを凍結いたします。お支払いできる現金がない以上、商品を受け取ることはできません」
「なっ……!?」
「申し訳ありませんが、お引き取りください」
私が商人に目配せすると、彼は「助かった」という顔をして、逃げるように商品を抱えて屋敷を出て行った。残されたのは、怒りで顔を真っ赤にした義母と義姉だけだ。
「貴女……! 私たちに恥をかかせる気!? 馴染みの商人に門前払いなんて、ラヴァン公爵家の沽券に関わるわ!」
「沽券、ですか」
私は冷ややかな視線を義母に向けた。
「代金も払わずに商品を奪い取ることのほうが、よほど公爵家の品位を落としますわ。それとも、借金取りがこの屋敷の扉を叩き、家具や絵画を差し押さえていく姿を、ご友人たちに見せたいとおっしゃるのですか?」
「な……生意気な口を! たかが平民の分際で!」
義母の手が振り上げられたが、私は一歩も引かずに彼女を見据えた。その毅然とした態度に気圧されたのか、義母の手は空中で止まった。
「お義母様、義姉様。現実を見てください。金庫は空です。あなた方がサロンで優雅にお茶を飲み、新しいドレスを自慢し合っている間に、この家の土台は腐り落ちていたのです」
「だから、それを用意するのが貴女の役目でしょう!」
「いいえ。私の役目は、この家を存続させることです。そのためには、あなた方の浪費を止めるのが最優先事項です」
私は懐から、一枚の紙を取り出した。
「今日から、お二人の小遣いは停止します。必要なものがあれば申請書を提出してください。私が審査し、必要と判断したものにのみ予算を出します」
「申請書ですって!? 私たちが、貴女の許可を得ろというの!?」
「嫌なら、ご自身の宝石を売って現金を作ってください。ただし、公爵家の資産であるティアラや歴史的な装飾品は持ち出し禁止リストに入れてありますので、あしからず」
二人は絶句し、やがて言葉にならない叫び声を上げてその場を去っていった。おそらく父や夫に言いつけに行くのだろうが、無駄だ。すでに根回しは済んでいる。
私は深いため息をついた。
これで屋敷の中は敵だらけになったかもしれない。だが、これでいい。嫌われ役を買って出る覚悟はできている。
翌日、私は夜明けとともに起き出し、実用的な乗馬服に着替えた。
かつて父の商隊に同行した時に着ていた、動きやすく丈夫な服だ。華美な装飾は一切ないが、今の私にはドレスよりもこちらのほうが落ち着く。
「奥様、本当に行かれるのですか? 領地の視察など、代官に任せればよろしいのに」
「いいえ、自分の目で見なければ分からないことがあります。それに、代官からの報告書と実際の数字が合わないのです」
私は心配するメイドの制止を振り切り、馬車に乗り込んだ。目指すのは、領地の外れにある荒地だ。
ラヴァン公爵領は広大だが、その土壌は痩せており、主要な作物である小麦の収穫量は年々減少していた。義父たちは「天候が悪い」「農民が怠惰だ」と決めつけ、何の対策も講じてこなかったが、帳簿と地図を照らし合わせれば原因は明らかだった。
数時間の揺れの後、馬車は目的地に到着した。
そこは、石ころだらけの斜面が続く、見るからに貧しい土地だった。数人の農民が、力なく鍬を振るっている。
私は馬車を降り、彼らの元へ歩み寄った。
「ごきげんよう。少しお話を伺ってもよろしくて?」
突然現れた貴族の女性に、農民たちは驚き、恐縮して地面に頭を擦り付けた。
「こ、これは公爵夫人様! お、俺たちのような者が口を利いてよい相手では……」
「顔を上げてください。私はただ、この土地のことを知りたいだけなのです」
私は手袋を外し、自ら畑の土を手に取った。ざらざらとして乾燥しており、これでは小麦が育たないのも無理はない。だが、鼻を近づけると、独特の香りがする。酸味が強く、水はけが良い。
「……やはり」
私の予想は確信に変わった。
幼い頃、父が輸入していた東方の香辛料や、北方の薬草。それらが育つ土壌の条件に、この土地は合致している。
「あなた方、ここで小麦を作るのは大変でしょう?」
「は、はい……。いくら耕しても実が入らず、税を納めるのもやっとで……」
「では、作るものを変えましょう」
「えっ?」
農民たちはきょとんとしている。
「この土は、小麦には向きませんが、『ハーブ』の栽培には適しています。ラベンダー、カモミール、それに希少な薬用ミント。これらは今、王都で美容と健康のために需要が高まっていますが、輸入品ばかりで高価なのです」
私は懐から、昨夜徹夜で書き上げた事業計画書を取り出した。
「種苗と肥料は、公爵家が先行投資します。あなた方は栽培方法を学び、育ててください。収穫したハーブはすべて公爵家が適正価格で買い取ります。そして、それを加工し、ブランド化して王都で売るのです」
「そ、そんなことができるのですか? 俺たちは麦しか作ったことがなくて……」
「大丈夫です。専門の技師を私が連れてきます。成功すれば、あなた方の収入は今の三倍になりますわ」
「三倍……!」
彼らの目に、希望の光が宿るのが見えた。
私は一日中、畑を歩き回り、土壌を調査し、農民たちと話し合った。ブーツは泥だらけになり、髪は風で乱れ、頬にも土がついた。だが、サロンで退屈な世間話をしている時より、何倍も生きている実感が湧いた。
「これならいける」
夕暮れ時、私は確かな手応えを感じていた。
これは単なる金儲けではない。領民の生活を救い、公爵家の財政を立て直す、唯一の道だ。
屋敷に戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。
疲れ切った体を引きずりながら玄関ホールに入ると、ちょうど夕食を終えてサロンへ向かう義母と義姉に出くわしてしまった。
最悪のタイミングだ。
彼女たちは、泥にまみれた私の姿を見て、扇子で口元を覆いながら大げさに悲鳴を上げた。
「まあ! なんて汚らしい!」
「臭いわ! 馬小屋の臭いがする! ちょっと、窓を開けてちょうだい!」
義姉が金切り声を上げる。義母は、汚物を見るような目で私を一瞥した。
「信じられないわ。公爵夫人が、泥まみれになって帰ってくるなんて。平民の血は争えないということかしら? 下品なこと」
「本当に。こんな姿、誰にも見せられませんわ。ああ、恥ずかしい。これだから育ちの悪い商人の娘は困るのよ」
二人はクスクスと笑い、私を嘲笑する。
以前の私なら、恥ずかしさで俯いていただろう。けれど、今の私には、彼女たちの言葉がまるで中身のない騒音のようにしか聞こえなかった。
私は背筋を伸ばし、泥のついたブーツで床をしっかりと踏みしめた。
「お義母様、義姉様。この泥は、領民たちが汗水垂らして働いている証です。そして、この泥から生まれる作物が、あなた方のドレスや食事になっているのです」
「あら、説教? 泥遊びをしてきた分際で、偉そうな口を利くのね」
「泥遊びではありません。未来への種まきです」
私は真っ直ぐに二人を見据えた。
「どうぞ笑ってください。ですが、覚えておいてくださいませ。私がこの泥にまみれなければ、遠からずあなた方は、その綺麗なドレスを泥に捨てて逃げ出すことになっていたのですよ」
「なっ……!」
言い返そうとする義母を無視し、私は階段を上がった。
すれ違いざま、メイドの一人がそっと私に近づき、誰にも聞こえない声で囁いた。
「おかえりなさいませ、奥様。……お風呂の準備、できております。ハーブを浮かべておきました」
見ると、彼女は先日私がガストンの横暴から救った若いメイドだった。
彼女だけではない。廊下に控える使用人たちの視線が、以前のような冷たいものではなく、どこか敬意を含んだものに変わっているのを感じた。
彼らは見ているのだ。誰が口だけで、誰が本当に行動しているのかを。
部屋に戻り、夫のアレクセイが待っていた。
彼は私の泥だらけの姿を見て驚いたが、すぐに温かいタオルを持って駆け寄ってくれた。
「エレナ、お疲れ様。……すごいね、君は本当に、実行してしまうんだね」
「ええ。止まっている暇はありませんから」
アレクセイの手によって顔の泥を拭われながら、私は鏡に映る自分を見た。
疲れ切って、髪もボサボサで、決して美しいとは言えない姿。
けれど、その瞳は力強く光っていた。
「アレクセイ様、見ていてください。必ず、この公爵家を立て直してみせます。誰も馬鹿にできない、本当の意味で誇り高い家に」
種は撒いた。
あとは、芽が出るのを待ち、嵐から守り抜くだけだ。
義母たちが社交界であることないこと噂を広めようとしているのは知っている。「嫁が頭がおかしくなって畑を耕している」とでも言うつもりだろう。
構わない。結果が出れば、すべてが覆る。
商人の戦いは、結果がすべてなのだから。
私は泥のついた手袋を外し、机の上の帳簿を開いた。
戦いはまだ、始まったばかりだ。




