第九十六話 エピニア脱出
「聖スィナリウスの薬が使われたとすると、クリィマは教会に狙われているのかもしれません」
リールさんは深刻そうな顔で、俺たちにそう告げた。
「薬の作り方は教会の秘伝です。しかも人に気を失わせる薬など、そう滅多に手に入るものではありません」
この世界では、ほとんどがマナの力で回復できるし、大きなけがや病気でも、神聖魔法の力を借りることもできる。
そんな薬が必要になることなんて、それこそ暴虐な魔人でも現れた時くらいだろう。
「そうすると私を襲ったのはこの町の教会ということなのですか?」
クリィマさんは気味が悪いって顔をした。
どうして自分が狙われるのか理解できないのだろう。
「そうとでも考えないと、クリィマが町中で眠ってしまった説明がつきません。首筋にあった傷から聖スィナリウスの薬を注入したのでしょう」
「吹き矢か何かということですか?」
クリィマさんが確認するとリールさんは頷いて「おそらくは」と返していた。
俺もどうやってクリィマさんに薬を使うのだろうと思っていたが、確かに吹き矢なら薬を体内に入れ込むことができそうだ。
まさかいきなり近寄って、注射針を突き立てたとも思えないし。
「じゃあ、これからも襲われるかもしれないってことですか?」
俺が横から口を挟むと、二人と目が合った。
クリィマさんは俺の言葉に狼狽した様子を見せたが、リールさんはしっかりとした声で、
「そうです。ただの警告なら良いのですが、教会の方たちは諦めませんからね。逃げ切るのは困難でしょう」
何となくプレセイラさんのことを言われている気がするが、確かに彼女も一切、自説を曲げることがないから、神の信徒ってそういうものなのかもしれない。
「そうなるとここにいるのは危険ですね。私はこの大陸を離れた方がいいでしょう。ならばリールも一緒に来てくれませんか?」
クリィマさんがそう誘うと、リールさんは不思議そうな顔をした。
「以前のエピニア滞在はどのくらいの期間だったのですか? 式典のためだけに来たのなら、そんなに長期間ではないでしょう? 私たちはもうここに二十日以上滞在しているのですよ」
俺もクリィマさんの意見に賛成だ。
リールさんはモルティ湖に行きたくないばかりに、間違った考えに囚われているような気がする。
「二十日もいたのなら、何か起こるのならもうとっくに起こっているんじゃないですか? リールさんがこの場所にいたことではなくて、何か別の要因でイリアさんは魔人になったんじゃないかと思います」
俺がそう聞くと、リールさんは暫し考えに沈んでいた。
いや、きっと心の整理をしていたのだろう。
「アリスさんの言うとおりかもしれません。でも、私はイリアが魔人になった原因を知りたいと思ったのです。あの人は人を殺めるような人間ではなかった。そして幸いなことにその後、魔人は姿を見せていません。ですがそれも不思議なこと。その理由が私がこの町を再び訪ねることで明らかになるかもしれないと思ったのですが……」
リールさんはせっかく現れることがなくなった魔人を、再び生み出すかもしれない行為に手を出さざるを得ないほど、追い詰められていたということだろう。
でも、それは実際には魔人を生み出すことはなかった。
魔人が生まれる理由は別にあるのだ。
「それならば尚更、リールさんがイリアさんの下を訪ねるべきじゃないですか? 申し訳ないですが、生前のイリアさんを知りもしない俺たちなんて行ったところでイリアさんが喜ぶとは思えません」
俺にとっては墓参りなんて普通に行われることだが、この世界では魔人を弔う人なんているはずもない。
「イリアが喜ぶ?」
リールさんにとっては意外な言葉だったらしく、そう言ったきり言葉を失っていた。
「そうです。リールさんとイリアさんは親しかったのでしょう? リールさんがイリアさんの亡くなった場所を訪れて、イリアさんのことを思い出してあげたら、きっと喜ぶと思うんです」
この世界ではそもそも亡くなる人がほとんどいないから、死者を弔うって習慣自体があまりないのかもしれなかった。
「確かに私とイリアは親しかった。そしてあの人の下を訪れることのできるのは、私くらいしかいないでしょうね」
リールさんは少しの間、考えてそんな結論に至ったようだった。
あの場所を訪れることができる人、すなわちフェンリルを倒せる人自体がかなり限られるし、わざわざそんな危険を冒そうとする人なんてまずいないはずだ。
それでなくてもこの世界の人は生命に関わる危険には距離を置きたがるのだから。
「分かりました。クリィマとアリスさんとともにこの大陸を出ましょう。行く先は……イリアの下ですね」
どうやらリールさんは覚悟を決めたようだ。
俺たちは翌朝、ステリリット大陸への連絡船が出るジョスタンの港を目指して町を発つことにした。
「連絡船が出るのは三日後だよ。それまでこの町で待っていてもらうしかないね」
ジョスタンの町では港を警備する兵士たちが俺のことを覚えていて、そう教えてくれた。
彼女たちは親切に俺たちに宿も紹介してくれた。
「うちは軍の御用達だから、あんまり普通の旅人は泊めないんだけどね。それにしても、私も長いことここで宿をやらせてもらっているけれど、こんなに可愛い子に宿泊してもらうのは初めてだよ」
紹介してくれた宿は普段は警備兵が使っている宿らしく、宿の主人はそんなことを言っていた。
それでも俺たちは港が一望できる眺めの良い部屋へ案内してもらえた。
「海がきれいですね」
俺は窓から港を見ながら、そんな感想を口にする。
「アリスさんは暢気ですね。私は早くこの大陸を離れたいです。ここで襲われたりしたら後悔してもしきれません」
クリィマさんはさすがにナーバスになっているようだった。
教会はその気になれば彼女の命を奪うことだってできたのではって、一瞬でも考えたのは、俺がまだ前の世界の考え方が抜けないからだろう。
この世界では彼女の命を奪ったりしたら、その人は魔人になってしまうのだ。
「あれ? あれってまさか」
そんなことを考えながら俺が港を見ていると、一台の馬車が町の通りを走っていくのを見掛けた。
その馬車は宿の近くにあった教会の前に停まると、そこから一人の女性が降りてきた。
鄙びた感じのするこの町には馬車もそれほど走っておらず、馬の蹄や車輪の立てる音と相まって、その存在はかなり目立つのだ。
「あれは……プレセイラさんですか?」
リールさんも気づいたようで、俺の隣で外を見ながら、そう口にした。
「やっぱりそうですよね。あっ。教会に入って行ってしまう」
俺は大きな声で彼女を呼ぼうかと思ったが、さすがに宿にも迷惑だろうと思いとどまった。
「どうしましょう。教会に呼びに行きましょうか?」
俺が尋ねると、リールさんはクリィマさんに目を遣った。
「冗談ではありません! 教会を訪ねるなんて御免です」
さすがにクリィマさんはエピニアの町で彼女を襲った黒幕である可能性の高い教会へは行きたくないようだった。
「プレセイラさんがいるのだから大丈夫だと思いますけど……」
せっかく彼女に会えたのに、このまま声も掛けないなんてあり得ない。
でも、クリィマさんはできれば外出さえしたくないって様子だった。
この町までの道中も、ほとんど馬車の中で過ごしていたくらいだった。
「そう思うのならあなただけで行って来て下さい。私は教会へなんて行きませんから」
そう言われてしまうと、どうしたものかって考えてしまう。
俺が一人で外へ出るって大丈夫なのだろうか?
「不可知の魔法を使えば良いではありませんか?」
クリィマさんにそう言われて、これはもうそうでもするしかなさそうだ。
リールさんについて来てほしいところだが、クリィマさんを一人にするのは難しそうだし。
「そうですね。リールさん公認ですし」
今回は別に彼女に気づかれても構わないのだから、魔法を使うことをためらう理由はない。
「じゃあ、行ってきます」
俺は不可知の魔法を使って姿を消すと、そのまま宿を出て教会へと向かった。
(やっぱりプレセイラさんだ……)
教会へ向かった俺はすぐに彼女を見つけた。
話し掛けようと思ったのだが、彼女は誰かと話していて、その場で突然、姿を現すのは憚られた。
魔法を使うことのできる者は少ないのだ。
「この町までの後払い分、たしかに頂戴いたしました。それで私はここを立ち去るのですね?」
教会の門の側で彼女は誰かと話していた。
仕方なく俺はその場で二人が話し終わるのを待つことにした。
「ええ。私をここまで運んだことは他言無用です。誰にも会わず、早くエピニアに帰りなさい」
プレセイラさんを運んだってことは、彼女と話しているのは馬車の馭者か何かだろう。
でも、そうだとすると彼女はエピニアから馬車で来たってことのようだった。
「ありがとうございました。この先も道中、お気をつけて」
プレセイラさんの相手の女性は、そんな挨拶をすると教会から去って行った。
その姿が見えなくなったのを確認して、俺は不可知の魔法を解いて、姿を現す。
「プレセイラさん!」
「ア、アリスさん? どうしてここに?」
彼女は思った以上に驚いていた。
もう俺と出会ってからかなり経つし、魔法もこれまで散々見てきたから、そんなに驚かすことにはならないだろうって勝手に思っていたのだが、そうでもないらしかった。
「ええと。あの宿に泊まっているのです。窓から見ていたらプレセイラさんの姿が見えて」
俺は再会を喜んでくれると思っていたので、彼女の反応は意外だった。
いきなり理由の説明を求められるなんて思っていなかったのだ。
でも、いきなり姿を現したのは、やっぱりまずかったのかもしれなかった。




