第九十二話 それぞれの道へ
「私は王都へ帰ろうと思うの。アリス殿はどうするの?」
エピニアの町での滞在が十日に近づいたある日、ミーモさんは俺にそう尋ねてきた。
俺は自分の部屋で暇にしていたから、話しに来てくれること自体はありがたいのだが、いきなりそう訊かれても困ってしまう。
「どうするって言われても……」
俺には行くあてなんてない。
この世界のことが何も分からないまま、流されるように神殿から王都へ連れて行かれ、王様からの指示に従って勇者であるリールさんと、クリィマさんの下を訪れたのだ。
そして、その後は二人の提案で魔人の滅んだ地を訪ねてきただけだ。
この世界の人が言うように、それがあの女神の思惑なのかもしれないと思ったこともあったが、今となってはそれもどうなのか分からない。
「もし良ければ一緒に神殿に帰りましょうか? ポリィ大司祭もきっとアリスさんを受け入れてくださると思いますよ」
俺の横で聖書を読んでいたプレセイラさんは俺に優しく勧めてくれる。
その様子はリールさんやクリィマさんに詰め寄った時と同じ人とは思えないくらいだ。
「いえ。でも……」
俺は神に仕える適性を持っていないし、そんな神託も受けてはいない。
彼女がそう言ってくれても、神殿にいるほかの人たちが俺を受け入れてくれるかは分からないなと思った。
「いっそ私たちの森に隠れる? って無理よね。エフォスカザン様が昏倒しちゃうものね」
俺たちの会話が聞こえたのか、ロフィさんも姿を見せる。
彼女も俺との旅がかなり長くなったから、俺のことを心配してくれているようだ。
エルフの彼女に人間である俺が心配してもらえるなんて、旅を始めた当初には考えられないことだったろう。
「俺が神殿に行ったら、ロフィさんは森に帰れるのですか?」
彼女はそれを望んでいるだろうから、俺はおとなしく神殿でお世話になるべきなのかもしれない。
そうも思ったが、俺はリールさんが心配だった。
「でも、皆さんがいなくなって、リールさんは大丈夫でしょうか? これまでの勇者は無抵抗な魔人を倒すことに耐え切れなくなったとリールさんは言っていましたよね。そして自分も一緒だと。そうなるとリールさんもって心配ではありませんか?」
彼女の心の傷は深く、五十年が経っても癒されることはなかったようだ。
もう魔人を倒す気力がないと言うくらいに。
「まさか神がお与えになった責務を果たすことができないとは。それでは生きている意味がありません。勇者はどうしようと考えているのでしょうか?」
プレセイラさんの言い種は随分と酷いなって気がした。
勇者は魔人を倒すことが神から与えられた責務なのだから、それを果たせなければ生きている意味がないってのが、この世界の常識なのだろう。
俺にとっては常識であろうはずもないが。
「でも、人を殺したら魔人になってしまうのでしょう。そのくらい人を手に掛けることは大変なことなのですから、リールさんの気持ちも……」
「魔人は人ではありませんから」
俺の言葉にプレセイラさんはあっさりと答える。
彼女の考えがぶれることがないのは、やはり信仰の力に依るのだろう。
「でも、姿形は人間と同じなのですよね」
それどころか魔人は皆、とても美しい容姿を持っているらしい。
俺やクリィマさんと同じように。
「やっぱりここに残ります。あのエルフの族長が言ったことも気になりますし」
俺がそう言うと、ロフィさんは嬉しそうだった。
「アリスはやっぱり分かってるわね。エフォスカザン様のご助言に従ったおかげで、私たちは何とか間に合ったけれど、この先も大丈夫かは分からない。本当はもう一度、お言葉をいただきたいくらいだわ」
今回、俺たちが道を急がなかったら、どうなっていたのかは分からない。
リールさんはこのエピニアの町で落ち着いて過ごしているみたいだから、何も起きなかったんじゃないかと思えなくもない。
でも、それは俺たちがここまで急いで来たからこそなのかもしれないのだ。
「宿代のことなら気にする必要はありませんよ。リールからしたら、このくらいのことなど」
いつの間にかクリィマさんも部屋に入ってきていて、そんな気楽なことを言ってきた。
「魔人を倒すことで、王から褒賞が授けられます。それで次の魔人が現れるまでの三十年を過ごすのですが、歴代の勇者で贅沢三昧をして暮らした人はいませんからね」
リールさんはかなりの資産を受け継いでいるようだった。
まあ、勇者が露頭に迷ったりしたら洒落にもならないから、十分な褒美が与えられるのだろう。
「そうするとリールが初めてそうする勇者ってこと?」
ロフィさんは酷いことを言うなって思ったが、俺たちの宿代まで持ってくれるって、散財と言えばそうかもしれない。
別にバカンスに来ているわけではないのだが。
「とにかくここに残ろうと思います。リールさんさえ許してくれればですが」
結局、俺とクリィマさんだけが残り、ほかの皆は一旦、それぞれの在るべき場所へ戻ることになった。
「リール殿とクリィマ殿がいれば問題なかろうの。また会う日もあろうから、それまで達者での」
「私も一度、森に帰ってエフォスカザン様の指示を仰ぐことにするわ。またアリスと一緒にいろって言われる気もするけどね」
そう言った二人は馬車でジョスタンの港に向かうことになったが、プレセイラさんは歩いて行くと言い出していた。
「次の町まではご一緒させていただきますが、せっかくここまで来たのです。この大陸の教会も巡ってみたいですから」
彼女は「アリスさんも行きませんか?」と俺を誘ってくれたのだが、俺はリールさんが心配だった。
いや、本当はリールさんがいなくなってしまったら、俺は次の勇者が成人するまでの十数年の間、この世界にとどめ置かれてしまうのではって、そちらを心配したのかもしれなかった。
「仕方ありませんね。リールさん。アリスさんをよろしくお願いします。荷物はクリィマさんに預けてありますからね」
俺はちょっと意外な気がしたが、プレセイラさんは本当に馬車に乗って行ってしまった。
彼女だけは何があっても最後まで俺と一緒にいてくれるんじゃないかと、漠然と思っていたのだが、その期待は裏切られてしまった。
「行ってしまいましたね」
リールさんも同じ気持ちだったのか、馬車を見送った後、俺に向かって言った。
「俺がここに残って良かったのですか?」
改めてそう尋ねると、彼女はほんの少しだが笑顔を見せてくれた。
俺はこの世界では子どもだから、迷惑じゃないかって考えたのだ。
リールさんはこの世界では資産家らしいが、それでも何の収入もない俺を養う義理なんてないはずだ。
「もちろん構いませんよ。一人増えるくらい、なんてこともありませんから」
彼女はそう言ってクリィマさんを見る。
クリィマさんだって、元宰相でそれなりに資産を持っているはずだ。
だから俺とは事情が違うと思うのだが。
「そうです。まさか彼女がいなくなるとは思いませんでした。これでゆっくりアリスさんと語り合えるというものです」
クリィマさんもリールさんに頷きを返していた。
彼女の言った「彼女」というのはプレセイラさんのことだと俺は理解した。
以前、クリィマさんはプレセイラさんは、俺とクリィマさんが話すことを許さないと言っていたことがある。
でも、こうなってみると、それは思い過ごしだったのではないかと思える。
「そうですね。これまでそんな機会はあまりありませんでしたから」
俺はクリィマさんと出会って、彼女が俺と同じ転生者だと知ってから、ずっとゆっくり話したいと思っていた。
それなのにこれまで、その機会を持つことができなかったのだ。
「ええ。あの方がしっかりとアリスさんをガードしていましたから。まったく隙はありませんでしたからね」
クリィマさんはそんなことを言うが、俺たちは七人ものメンバーで旅を続けていたのだ。
しかも俺は子どもだから、いつも誰かの庇護の下にいた。
その中でクリィマさんには任せられないなって思われていたのは、彼女のせいもあると思うのだ。
「そうですか? でも、こんなに簡単にその機会が訪れたのは、別にプレセイラさんがガードしていたわけではなくて……」
俺が思っていたことを口にすると、クリィマさんはゆっくりと首を振った。
「もう大丈夫だと考えたのでしょう。私とアリスさんが話しても、もう何も選択肢は残っていないと」
クリィマさんの言っていることは、俺にはさっぱり理解できない。
以前からそうだが、彼女はプレセイラさんを誤解しているんじゃないだろうか?
彼女は本当に信仰心の篤い、善意の塊みたいな人なのだ。
「それは私への当てつけですか。確かにたとえクリィマの言葉であっても、私の決意は変わりませんよ」
クリィマさんはそう言ったリールさんに顔を向けた。
「それは困りました。私がずっとこうしてあなたの側から離れないでいる理由を、あなたは知っていますよね」
彼女は今度は俺に顔を向け、
「それはきっとアリスさんも同じだと思うのです。いえ。きっとアリスさんの方がずっとその思いは強いでしょう。なにしろこの世界へ来たばかりなのですから」
俺は彼女の話しぶりに正直、衝撃を受けていた。
どうも彼女だけでなく、リールさんも俺が転生者であることを知っているようなのだ。
それなら勇者である彼女はどうして俺やクリィマさんを滅ぼしてくれないのだろうと、改めて思った。




