第九十一話 エピニアの町
リールさんは以前、式典に招かれたことのあるエピニアの町を訪れたいと言った。
「どうしてイリアが魔人になったのか。その時と同じ状況を作れば、何かが分かるかもしれない。そう思ったのです」
「まさか魔人を復活させようと言うのではあるまいの?」
皆は先ほどのリールさんの発言にショックを受けていたようだから、ミーモさんがそう聞くのは無理もないことだった。
イリアはリールさんにとっては愛すべき幼馴染なのかもしれないが、彼女以外のこの世界に暮らす人にとっては邪悪な魔人に過ぎないのだ。
「それができるのなら、とうにしています。神に命を召された者は、それが魔人であろうとも戻っては来ないのです」
リールさんの返事に皆はまたぎょっとしたようだった。
彼女は魔人イリアを復活させたいと思っていると明言したのだから。
「神が魔人を召されるものですか! 魔人は滅んでなお、周囲に呪いを振り撒いて魔物を呼び寄せ、千載まで悪名を遺す者なのです」
プレセイラさんが感情的にも聞こえる声でリールさんに返していた。
俺の感覚だともうイリアは亡くなっているのだから、そこまで言わなくてもって思える。
でも、神に仕える彼女からしたら、神が魔人と関わりを持つっていうだけで、神への冒涜だって思えるのかもしれない。
「そうですね。千年もあれを人々から隔離するために魔物を配置する。神はそこまであれを恐れているのでしょう」
リールさんの言葉に、プレセイラさんも一瞬、言葉を失った。
だが、すぐにまたリールさんの言葉を否定する。
「神は魔人を恐れたりしません。魔人のあまりの邪悪さが、滅びの地の周囲に呪いを遺し、魔物を呼び寄せるのです!」
リールさんはそれでも怯むことなく、もう一度、同じ主張を繰り返した。
「この世のすべては神の御業なのではないのですか? あなたたちはいつもそう主張される。それが何故、魔人に関してだけは異なるのですか?」
俺が何となくそう思っていたことを、リールさんははっきりと言葉にしてくれた。
この世界は完全なもののはずなのに、こと魔人に関することだけは別としか思えない。
魔人はこの完全な世界についた唯一の傷なのではないかって気がする。
「神を疑ってはなりません! あなたの言っていることは神に対する冒涜です。モントリフィト様のお考えは深すぎて、私たちはすべてを知ることはできませんが、必ず正しいものなのです」
こうなるともう議論にはなりようもない。
後はあの女神を信じるかどうかってことに懸かってくるのだろう。
プレセイラさんには申し訳ないが、俺がどちらに与するかなんて言うまでもない。
「とにかく私はエピニアの町に向かいます。別にそのくらいなら神を冒涜することにはならないでしょう?」
プレセイラさんを挑発するようにリールさんはそう述べた。
プレセイラさんはまだ憤懣やる方ないって様子だったが、反対する術もない。
ただエピニアの町を訪れるだけなら、それこそリールさんの言ったとおり神を冒涜することになろうはずもないのだ。
「それでは私はここで」
ジョスタンの町で雇った馭者は、俺たちをエピニアの町に送り届けると、元来た道を引き返して行った。
「帰りは別の馬車を雇うのですか?」
それを見たクリィマさんは不満そうだ。
ここまでの代金は彼女が払ってくれたから、帰りはどうするんだってことだろう。
「この人数なら馬車を雇うべきでしょうね。でも、私は当分、この町に滞在するつもりです。宿代と帰りの費用は私が持ちますから」
リールさんがそう言ってくれたが、皆は一様に顔を見合わせていた。
彼女が勇者だって名乗れば、公用として宿や馬車が使えるのかもしれないが、そうする気はないらしい。
「教会に宿泊をお願いしましょうか?」
プレセイラさんがそう言ってくれたが、リールさんは首を振った。
「いいえ。あまり教会のお世話にはなりたくありませんから」
リールさんの返事はまた不穏なものだ。
それを聞いたプレセイラさんの眉が動いたが、リールさんは平気な顔をしている。
見ている俺の方がはらはらしてしまうくらいだ。
だが、俺は相変わらず無一文だから、お金の掛かる話になるとどうしようもない。
「リールはいったいこの町で何をしようというのですか?」
その日の晩、宿のひと部屋に集まると、クリィマさんがそう尋ねた。
「別に何も。私がここにいれば、何かが起こるのではないかと思っているのです」
彼女の返事に質問をしたクリィマさんだけでなく、俺も驚いた。
ほかの皆も同じだろう。
「そんなに長くここに留まることはできませんよ。王のご命令もありますし」
プレセイラさんの声は相変わらず厳しいものだった。
だが、リールさんはそれを聞いてもどこ吹く風だ。
「私は神に与えられた使命は果たすつもりです。それ以外の命令に従う必要なんてないでしょう」
そう答えられてプレセイラさんは黙ってしまう。
それこそ彼女が言いそうな答えなのだ。
「勇者殿はそう言うが、それでは王の方は使命が果たせないであろう。人の使命にも力を貸してこそ、神のご意思に叶うのではないかの?」
ミーモさんの言うことが一番まともな気がする。
リールさんは意固地になっているのだ。
そのくらいモルティ湖へ行きたくないってことなのだろうが。
「人にできないことを無理強いしておいて、協力しないと言われても。私はこれまでずっと、自分の使命は果たしてきたのです。それがどれほど辛いことであっても」
だからって王命に従わなくて良いのかって疑問は残るが、リールさんは世界にたった一人しかいない勇者なのだ。
彼女を罰するなんて、たとえ王といえどもできないのかもしれなかった。
「勇者殿の心労は分からぬでもないが、それでも王は酔狂でお命じになられたわけではないの。王の使命を果たすためなの」
ミーモさんはさらに説得を試みていたが、リールさんは聞く気はなさそうだった。
(考えてみれば、王の命令に従うって、必須ではないんだな)
それは俺にとってかなり新鮮な驚きだった。
この世界では人を罪人として死刑に処すことなんてできない。
その瞬間、死刑を執行した人が魔人になってしまうだろう。
それどころか懲役として牢に繋ぐことでさえ長期間は無理そうだ。
神の命じた使命を果たす者がたった一人、魔人となって欠けただけで、その影響は甚大なのだ。
長期間、牢に入れていても、おそらく同様のことが起きてしまうに違いない。
「それなら王が直接、使命を果たされるがいい。私に神に命ぜられた使命以外のことをさせる必要はないはずだ」
俺にはリールさんの言ってることにも一理あるように思えた。
だって、あの女神はこの世界に暮らす人の一人一人にそれぞれ役割を与え、それでこの世界が完全な形になるようにデザインしたはずだ。
だから、自分の役割だけをしっかり果たして、余計なことをしなければ世界は完璧に保たれる。
世界はそうあるべきなんじゃないかって気さえする。
「人間は面倒ね。私たちエルフはそんなこと考えもしない。自然に任せて、気の赴くまま暮らせば、それですべては上手く行く。私たちはそうなのに、人間はどうしてそう余計なことばかり考えるの?」
ロフィさんも業を煮やしたようにリールさんと、おそらくはプレセイラさんやミーモさんにも向かって言ったのだろう。
彼女はそもそも俺の監視役として来ているのだから、リールさんの動向になんて関心はないはずだ。
俺がどこかに落ち着いたら、彼女はさっさと森に帰って彼女たちの長への報告を済ませるつもりなのだろう。
「私たちもあなたたちと同じです。神の御心のままに静かに務めを果たして暮らすことで、すべては上手く行くのです。ですが、それはあくまで平時のことです。そう! そうなのです!」
プレセイラさんはロフィさんに反論しているうちに、何かに気づいたようだった。
「今は普通の状態ではないのです。魔人はもう五十年以上も姿を見せず、クリィマさんやアリスさんのような魔法に特別な適性を持った方が現れている。そんな特殊な状況なのに、自分の役目さえ果たしていれば良いなどという考え方は間違っています」
どうやら俺やクリィマさんみたいな転生者は、これまで存在していなかったらしい。
あの神殿で俺が神託を受けた時のプレセイラさんとポリィ大司祭の驚きようを考えてみるに、それは間違いなさそうだ。
そして今が平時ではないと言うのは、それはそのとおりなのだろう。
ステリリット大陸ではオーヴェン王国による全土統一の動きがあったし、ヴェロールの町では何度も反乱が起こっている。
これらもいずれもこれまでには見られなかったことらしいのだ。
「じゃあ。どうしたらいいと思いますか?」
俺がプレセイラさんに尋ねると、皆の視線が俺に集まった。
今が非常時だと言うのなら、どうするのが正しいと彼女は言うのだろうか?
「それは……。王のご命令に従って……」
「違いますね」
プレセイラさんの言葉をリールさんが遮った。
「アリスさんの言ったとおり、どうしたら良いのか考えてみるべきです。あなたも言ったように魔人はもう五十年以上、出現していない。それは私にとってはとてもありがたいことです。今の私にはもう、魔人を倒す気力はありませんから。だからこそ、魔人が現れないのではないかとも私は思うのです」
プレセイラさんに向かってリールさんが告げたことは、さらに皆を驚愕させるものだった。




