第九十話 勇者の苦悩
いよいよ俺たちが追いつくと、先を行く人は馬車の音に気がついて振り返った。
その姿は間違いなく勇者のリールさんだ。
「リール! 待ってください! 何処へ行くのです?」
クリィマさんがいきなり呼び掛けると、リールさんはさすがに驚き、一瞬どうしようかと考えているようだった。
そしてそのまま俺たちに背を向け、二、三歩、俺たちと反対の方へ駆け出そうとした。
「リール! 待って! 行かないでください!」
静かな林に再びクリィマさんの声が響き、リールさんは立ち止まった。
こちらは馬事だし人数も多い。
逃げてどうなるものでもなかった。
「どうしてここに……。まさか私を追って……」
クリィマさんが魔法の袋から出してくれた椅子に座り、皆でテーブルを囲むと、リールさんはそう尋ねてきた。
こうして話すのも久しぶりだ。
カロラインさんはいないけど。
「もちろんです。エルフの族長があなたが海を渡ると教えてくれましたし、アリスさんと私は、あなたはきっとこの大陸に行くはずだと思ったのです」
クリィマさんがそう説明すると、リールさんの緑色の瞳と俺の目が合った。
俺には彼女の瞳がいつにも増して深い色を湛えているように見えた。
「リールさん。ごめんなさい。モルティ湖に行って、イリアさんの遺した物を確認しました。でも、その後にヴェロールの町でまた反乱が起きて……」
俺がそう謝ると、リールさんはさすがに驚いたようだった。
「ヴェロールでまた反乱が。あの森の中にあった穴が原因ではなかったのですか?」
やはり彼女もそう考えていたようだった。
俺たちはあの深い穴にマナとともに、きらきらと輝く粉のようなものが吸い込まれていくのを見た。
そしてそれは魔人の遺物で間違いないはずだったのだ。
「今はそれを考えている場合ではありません。国王陛下は勇者様に魔人イリアが復活していない保証を求めておられます。私たちと一緒にモルティ湖までまいりましょう」
プレセイラさんが誘うと、リールさんの顔が歪んだ。
「何度も言いますが、イリアは復活していません。復活させられるものならと、私は何度も願っているくらいなのですから」
「なんてことを……」
リールさんの言葉に、プレセイラさんはそれだけを発すると絶句した。
さすがに魔人に復活してほしいと思う人なんて、この世界にはいないだろう。
しかもそれが勇者のリールさんだというのだ。
「プレセイラさん。イリアは復活していません。それは俺たちも確認しましたし、国王陛下も信じてくれたじゃないですか」
俺は話がまずい方向へ進みそうだと思って、何とか食い止めようとしたのだが無理だった。
「ええ。ですが国王陛下は民衆を安心させるためには勇者の、リールさんの保証が必要だとおっしゃったではありませんか。まさかモルティ湖を訪れず、確認することもなく復活していないなどと証言することはできないでしょう?」
俺たちが見て来たんだからもう良いじゃないかと俺は思ったが、王宮ではきっと「勇者自ら確認したのですな」って訊かれるのだろう。
その時、適当なことを言って誤魔化すって考えは、誠実なこの世界の人たちにはないようだった。
リールさんの表情が、また苦しそうなものになった。
「あなた方は魔人と戦ったことがない。だから、そんなことが言えるのです。いえ、私だって偉そうなことは言えない。私も魔人と戦ったことなどないのですから」
彼女はそう絞り出すように言った。
だが、その言葉は俺にも理解できないものだった。
「勇者殿が魔人と戦ったことがないなどと。では誰が魔人と戦うと言うのかの?」
ミーモさんにもリールさんの言葉は理解できなかったようで、俺は自分の聞き間違いではなかったことが分かったくらいだった。
「魔人と戦う必要などないのです。特にイリアは、あの人は初めから自分が滅ぼされねばならないことを理解していましたから」
皆がリールさんの言葉を理解できず、一様に口を噤んでいた。
いや、言葉の意味は理解できるのだが、そんなことはあり得ないはずだとこの世界の常識が理解することを拒んでいるってのが実状だろう。
「自分が滅ぼされねばならないことを理解している? 魔人がですか?」
やはりそれはプレセイラさんには受け入れ難い事実のようだった。
魔人は邪悪で自らの生に執着する醜い存在でなければならないのだから。
「そうです。少なくともイリアはそうでした。ほかの魔人も自らを襲った理不尽な運命を呪ってはいましたが、私に滅ぼされることを受け入れていたのです」
言葉を紡ぐうちに感情が昂ってきたのか、静かだったリールさんの声が徐々に大きくなっていた。
だが、プレセイラさんも負けじと大きな声で応じる。
「そのようなことはあり得ません!」
毅然と言い放つ彼女は自信に満ちているように見える。
だが、リールさんは今度は冷ややかに彼女に対した。
「どうしてそのようなことが分かるのです。あなたは魔人に会ったことさえないでしょう。私は何度も魔人と出会い、滅ぼしてきたのです」
確かにこの世界にリールさん以上に魔人に詳しい人などいるはずがない。
そのリールさんが魔人は勇者に滅ぼされることを受け入れていたと言っているのだ。
だが、その言葉はこの世界でこれまで信じられていたものとあまりに違い、皆は容易に受け入れることはできないようだった。
「ではリール殿は魔人イリアと戦ってはいないと、イリアは自ら滅ぼされることを選んだというのかの?」
リールさんが語ったことをその言葉のまま受け取れば、そういうことになるだろう。
でも、さすがにそれを信じることができず、ミーモさんは確認を求めていた。
「そうです。あの人は私に自分を滅ぼしてほしいと告げて、背を向けました。私はそんな無抵抗なあの人に向かって剣を……」
そう言ってリールさんはそのまま顔を伏せた。
肩を震わせた彼女の目から大粒の涙がテーブルに落ちる。
「あの時の辛さは筆舌に尽くし難いものです。私は愛する人をこの手に掛けた。たとえそれをあの人が望んでいたとしても」
その声は震え、明らかに湿ったものを含んでいた。
そして彼女は顔を上げると、流れる涙を拭うこともせず、俺たちに問い掛けた。
「どうして勇者だけが、ほかの人たちと比べてあまりに短命なのか。考えたことはありますか? 千年前に現れた魔人シシを倒したのは、私の三代も前の勇者なのです。このようなことが、ほかの職業でありますか?」
リールさんは三百歳くらいだったはずだ。
そうすると七百年の間に三人の勇者が存在したことになる。
世界に勇者はたった一人。そうすると、長く見積もっても一代が三百年くらいにしかならない計算になる。
「確かにそのような職業はほかにないの」
ミーモさんがそう言うくらいだから、それは間違いなさそうだった。
剣士なんてかなり危険な職業だと思えるのに、ミーモさんは相当長く生きているようなのだ。
この世界の人たちは、不慮の死を避けるために細心の注意を払っているように思えるから、三百年くらいで亡くなるなんて人はまずいなさそうだ。
「まさか勇者は……。そんな、まさか……」
クリィマさんが慄くような様子を見せているのは、俺もちらと考えたひとつの可能性に行きあたったからだろう。
普通に考えれば魔人との戦いで傷ついてってことが理由に挙がりそうだが、魔法の効かない勇者は魔人に滅ぼされることはないはずだ。
そしてリールさんも勇者は魔人と戦わないと言っていた。
「そうです。歴代の勇者は皆、人をその手に掛け続けることに耐え切れず、自死を選んだのです」
それは衝撃的な告白だった。
この世界で魔人を葬ることのできる唯一の存在。最強であるはずの勇者が皆、自ら生命を絶っていると言うのだ。
「そのようなこと。聞いたこともないの」
ミーモさんがやっと口を開き、どうにかといった様子で、それだけを口にした。
「当然です。このことは秘密にされていますからね。知っているのは各地の王たちだけでしょう」
さすがにプレセイラさんも呆然としていた。
教会が教義でどう教えているかは知らないが、自死を推奨なんてしないだろう。
それを勇者がしていると言うのだから、彼女の受けた衝撃は、俺たち以上のものがあるのかもしれなかった。
「それで、リール殿はまさか……」
俺たちが抱いた怖れを、ミーモさんが口にしていた。
リールさんもほかの勇者と同じように、自死するためにこの地へやって来たのではないかと思ったのだ。
「私ですか? 一つはイリアが魔人となった時に訪れていた町を再訪しよう思ったのです。あの時のあの町を訪れるという選択があの人を魔人に変えたのなら、何か人が魔人化することに関する手掛かりがあるのではないかと思ったからです」
どうやら俺たちが怖れていたような事態は避けられそうではあるが、安心はできないなと俺は思っていた。
「ですが、本当のところは私の心の弱さです。私はあの場所を訪れたくはありません。それこそ歴代の勇者たちと同様に耐えられないと思うのです。あの人がどうなっているのか、それは分かっていますから」
リールさんはこれまで何人もの魔人を滅ぼしてきたのだろう。
イリアがそれらの魔人と同じ、輝く石の像のようになっていることは彼女にとって考えるまでもないことなのだ。
そして生前の姿をとどめるそれを目にすることは、彼女には耐えられないことなのだった。




