第八十六話 勇者の出奔
「勇者様のお姿は最近、見ていないと言うのか?」
ラブリースの町の西門で、カロラインさんが門を守る衛兵に尋ねると、彼女は最敬礼して「さようです。見ておりません」と答えた。
彼女は王都の近衛騎士であるとカロラインさんが名乗ったので緊張したようだった。
わざわざ隊長にも問い合わせてくれたが、結果は変わらない。
ラブリースへ戻った俺たちは、まず市の立つ町の広場を訪ねたのだが、十日に一度の市は三日前に終わったばかりだった。
「それなら途中で家へ帰るリールと会いそうなものですがね」
クリィマさんも不審そうだった。
ラブリースへの帰り道では、町の方からやって来る人や馬車に気をつけていたから、見逃すはずもない。
「町に何か用事があったんじゃないですか? 古い友人を訪ねたとか?」
俺はそんな想像をしたのだが、クリィマさんは首を傾げていた。
「リールが旧友と会っていたなんて聞いたことがありませんね。その、イリアを思い出させることとは距離を取っていましたから」
彼女が言いにくそうに口にした理由に、俺は暗い気持ちになった。
そこまでして避けようとしているイリアの滅んだ地を訪れるように、俺はリールさんを説得しなければならないのだ。
「念の為、勇者様が訪れそうな場所を確認してみましょうか?」
プレセイラさんの提案に、俺は望み薄かなって気がしたが、ほかに良い案があるわけでもない。
俺たちはまず、教会を訪ねた。
「勇者様ですか? 最近はお姿をお見かけしていませんね」
司祭の女性は落ち着いた様子でプレセイラさんに答えてくれた。
俺は「本当ですか?」って聞きそうになって、何とかその言葉を呑み込んだ。
神に仕える司祭の彼女が、プレセイラさんに嘘なんてつくはずがない。
そもそも俺たちに嘘を教える理由もないし。
「以前、いらっしゃった時には勇者様をお訪ねになられなかったのですか?」
逆に不思議そうに彼女に聞かれてしまったから、ますますその可能性はなさそうだった。
「いえ。以前は会うことができたのですが今回、お訪ねしたところ、お留守だったものですから」
プレセイラさんの答えにも、司祭は「そうですか」と興味なさそうだった。
「勇者様のことでしたら、政庁でお尋ねになられたらいかがですか? あちらなら何か分かるかもしれません」
以前、ここを訪れた時と同様に、彼女は政庁へ向かうよう勧めてきた。
「そうしてみます。ありがとうございました」
プレセイラさんは丁寧にお礼を言っていたが、何となく厄介払いをされた気がしないでもない。
この世界の人は基本、善良で親切な人ばかりだから、そう感じてしまうのは、俺が気の進まない任務を抱えているからだろう。
「本当にどこへ行ったのかしらね?」
ロフィさんが面倒そうにそう口にしたが、俺はリールさんはこの町にいないんだろうなって思えてきていた。
ロフィさんのどこへってのも、実は同じ意味なのかもしれないが、彼女はカロラインさんに続いて政庁に向かっていたから、そこにいるんじゃないかって思っているのかもしれなかった。
そうして政庁を訪ねた俺たちを、領主のハント卿は覚えていてくれたらしく、面会を申し込むとすぐに執務室へ通してくれた。
「勇者様はあなた方とご一緒だったのではないのですか?」
俺たちが勇者の下を訪ねて後、勇者の姿を見掛けなくなったから、そうなのだろうと考えていたのだと彼女は言った。
「はい。おっしゃるとおり私たちは勇者様と行動を共にしていました。ですが先日、お別れしたのです。勇者様は家へ帰るとおっしゃっていたのですが……」
カロラインさんが答えると、ハント卿は思案顔だった。
「残念ですがあれ以来、勇者様のお姿を見たという話は聞きませんね。こんな町ですから勇者様がおいでになれば、噂くらいにはなるはずですが」
娯楽の少ないこの町では、すぐに噂になるのだと、彼女は説明してくれた。
「そうですか。では、もう一度、森のお住まいを訪ねてみます」
カロラインさんがそう告げると、ハント卿は配下の者に確認させると申し出てくれた。
「私どももできれば勇者様の動向を把握しておく必要がありますから。もし西の森にいらっしゃれば、町へおいでいただくか、皆さんが訪問されるまでお待ちいただくよう言付けておきましょう」
ハント卿はその場で兵に命じて、馬で急いで勇者の家を訪ねるよう取り計らってくれた。
俺たちはその結果がもたらされるまで、政庁で待つことにした。
「至れり尽くせりじゃの」
ミーモさんはお茶に口をつけながら、そんなことを言っていた。
ハント卿は森へ遣った兵たちが戻るまでの間、俺たちの休憩場所として政庁の応接を提供してくれたのだ。
お茶の準備もしてあって、基本、食事の要らないこの世界では、もてなしを受けたと言ってよいだろう。
「リールさんはいると思いますか?」
俺が尋ねるとプレセイラさんは曖昧な笑みを返してくれたが、ロフィさんは辛辣だった。
「いるわけないじゃない。最近は町で見掛けた人もいないみたいだし、ここまでそれらしい人の影さえないわ。きっと家には帰っていないのよ」
改めて事実を突きつけられると、俺はかなり堪えた。
俺の余計な動きが、リールさんを思った以上に傷つけたように思えたからだ。
「アリスさんは悪くありませんよ。アリスさんは勇者様のためを思ってモルティ湖を訪れたのですから」
プレセイラさんはそう言ってくれたが、やっぱり俺があんなことを言い出さなければって気持ちは拭い切れない。
リールさんはきっと誰にも、あの場所を訪れて欲しくなかったんだと思う。
「私も認識が甘かったです。まさかリールがいなくなるとは、そこまでとは思っていませんでしたから」
クリィマさんにも忸怩たる思いがあるようだ。
彼女はリールさんとは長い付き合いで、それなりに互いのことを知っていたはずなのに、イリアに対するリールさんの思いを理解していなかったのだと言った。
「理解できなくても仕方がありません。勇者が魔人と親しかったなどと、それだけでも大きな醜聞なのに、それを理解しろと言われても」
プレセイラさんは、ここでもリールさんを非難していた。
魔人と勇者は相容れぬもの。いや、彼女の使える神にとって魔人はこの世界に存在してはならず、勇者によって滅ぼされるべき者なのだから当然だろう。
「そうだ。それにこのまま捨て置くわけにはいかないぞ。勇者と言えど、国王陛下のご命令を蔑ろにされては、王国の権威に傷が付く。せめてモルティ湖でイリアの確認だけでもしてもらわないとな」
続けてカロラインさんがそんなことを言い出したのは、俺には意外だった。
だが、彼女は厳しい顔をして、
「そもそも勇者様は私たちに家を訪れてもらいたいと言ってくださったのだ。あれは嘘だったのか?」
そう続けたから、そのことについて彼女は許せないと思っているようだった。
「勇者ともあろう方が、人を騙すなど。本当にあの人は勇者なのか?」
ちょっと潔癖症なんじゃないかと思うが、プレセイラさんもいつも「偽りを述べてはなりません」って言っているから、あの女神の戒律には嘘をつかないってのがありそうだ。
それにもっとも忠実である必要がある人の中に、勇者であるリールさんも入っているのだろう。
「リールは勇者です。それは間違いありません。ですがリールは勇者である前に一人の人間なのです。不完全で悩み多き者。それが人間なのですから」
クリィマさんの言葉は俺には理解しやすいものだった。
もしろ常識と言って良いような内容だ。
ただしそれは、俺やおそらくはクリィマさんもいた、元の世界ではってことになるのだが。
「勇者である前に一人の人間だなどと。そのようなことをモントリフィト様の前で言えますか?」
プレセイラさんが厳しい顔でクリィマさんを問い詰めるような態度を見せた。
「神がお与えくださった責務が果たせないと言うのなら、その者に存在価値はありません。神は決してそのような者をお赦しにはならないでしょう」
俺は何だそれはって思ったが、この世界ではそれが常識なのかもしれなかった。
人は神に与えられた責務を果たして日々を送る。
それによってこの世界の完全性が保たれているのだから。
「もういい加減にするの。まずは勇者を探すことが先決なの。クリィマ殿も余計なことを言わないの」
ミーモさんがギズギスした状況に耐えられないって感じでそう言った。
彼女の言葉は図らずもリールさんが俺たちを置いてどこかへ行ってしまったってことが前提になっていたが、俺ももうそれを受け入れざるを得ないなと思っていた。
その日の夕、ラブリースへ戻って来た兵は、ハント卿と俺たちの前で、勇者の家がもぬけの殻になっていたことを報告した。
「勇者様のご自宅には誰もおりませんでした。それだけでなく最近、あの家で暮らしていたという痕跡さえ残ってはおりません。少なくともおそらくこの半年は帰っておられぬものと思われます」
報告を聞きながらロフィさんはやっぱりねって顔をしていた。
彼女も人の気配がないって言っていたから、そう思っていたのだろう。
「勇者が行方不明になるとは由々しき事態です。王宮に報告せねばなりませんね」
ハント卿もそう言って不安そうだった。
魔人が現れた時に勇者が行方知れずでは、対応することができない。
この世界では、それが常識なのだ。
「王宮へは私たちが伝えましょう」
カロラインさんが申し出ると、ハント卿は迷っているようだったが、最後は「お願いします」と言ってくれた。




