第七十九話 モルティ湖を離れて
「いったいあれは何だったのだ?」
正気を取り戻したカロラインさんは、不安そうに誰にともなく問い掛けた。
「分からないの。急に気分が高揚して、これまでの自分ではないって、そんな気がしたの」
俺にはミーモさんが陥った状態はよく分からなかったが、どうやら気分が悪くなって倒れたってわけではなさそうだった。
「私もそうだ。これまでの行いに疑問を感じていた気がする。そんな気持ちになったのは初めてだったが、自分には何かできる。そう思ったのだ」
カロラインさんもミーモさんに似たことを口にした。
彼女の瞳はいつにもない輝きを放っているようだったから、そんな気分だったのかもしれない。
あの石には何か精神に作用して、高揚させる効果があるようだった。
「恐ろしい魔人の呪いです。何かを為されるのはモントリフィト様。それを人間である自分がなどと。不遜な心の持ちようです」
プレセイラさんは顔をしかめ、そう断言していた。
二人がおかしくなったのは、あの光る石の像に近づいてからだから、呪いかどうかは別として、あの石の影響だって考えるのが妥当だろう。
「もしかしたらヴェロールの町で反乱が起きたのも、同じ理由ではないですか?」
クリィマさんにそう言われてみると、そんな気がする。
マナの流れによってあの石が放つ精神に作用する何らかのものが町に流れ込むことによって、住民がおかしくなると考えれば辻褄が合うと思うのだ。
(でも、俺は何ともなかったな)
俺だって倒れた二人と同様に、あの石の側まで行ったのだ。
普通に考えれば俺も倒れていてもおかしくはないだろう。
プレセイラさんだってそうだ。
彼女は俺の声に応え、駆け寄って来てくれた。
「あれほど離れた町でも人がおかしくなるのなら、近づいたら危険なのも道理だわ。さっさと離れて正解ね」
ロフィさんは薄気味悪いって顔をして、彼女もやはりあの石が原因だって考えているようだった。
まあ、誰が見たってそんな結論になるのだろう。
「あの石が魔人イリアの成れの果てだと言うのなら、リール殿の言っていたとおり、イリアは復活などしておらぬのだろう。王宮にはそう報告するしかないの」
ミーモさんももうあの光る石に関わるのは御免だとばかりにそんなことを言い出した。
「王宮への報告はそれで良いのかもしれません。でも、クリィマさんはそれで良いのですか?」
俺がそう尋ねると、彼女は怪訝な顔をした。
「クリィマさんは魔人のことを深く知ろうとしていたのではないのですか? 魔人にならない方法を探るために」
彼女の本当の目的がそうなのかは分からないが、俺たちを魔人の事績をたどるように誘った時、彼女はそう言っていたはずだ。
少なくとも俺は逆で、人を手に掛けることなく魔人になる方法がないか探っているというのが正しい。
皆にはとても言えないが。
「それはそうですが……」
彼女はそう言ってカロラインさんやミーモさんを見遣った。
この二人を説得して、さらにあの光る石の調査をするのは難しいって言いたいのだろう。
「王命は果たしたのだから、報告のために王都へ帰るべきだろう。魔人が復活していなかったと知れば、群臣たちも民衆も安堵するはずだからな」
カロラインさんが押し切るようにそう言ってきて、ミーモさんもロフィさんも頷いている。
ロフィさんはエルフなんだから王命なんて関係ないはずなのに、率先してカロラインさんの意見に賛成って様子だった。
こうなると確かに、もう一度モルティ湖の畔に行こうって言っても皆の賛同を得ることは無理そうだ。
「分かりました。一人で行くわけにもいきませんし、王都へ戻りましょう」
俺がそんな意見を出すまでもなく、王都帰還でまとまっていたが、モルティ湖へ行こうって言い出したのは俺なのだ。
王都へ帰るって判断もすべきだろうと思って、俺はそう言った。
そうして王都へ向かい走り始めた俺たちの馬車だったが、ヴェロールの町からの街道と合流し、いよいよ峠へ向かうってところで足止めを喰らうことになった。
「見てください。車軸が折れそうです」
街道の脇で休憩を取ったところで、プレセイラさんが馬車の故障に気がついて教えてくれたのだ。
「どうも変わった揺れ方をするなと思っていたのです」
俺はこの世界に来てからは馬車に乗ってばかりいる気がするが、もともと馬車に乗ったことなんてなかったから、どんな揺れ方をするのかなんて分かるはずもない。
酷い揺れだったことは確かなのだが。
「本当ね。これならおかしな音だってしてたはずなのに、まったく気がつかなかったわ」
ロフィさんは残念そうにそんなことを言っていた。
確かにいつもエルフの優位を主張する彼女なら、異常な音に気がついて「人間は鈍感ね」なんて言っても良さそうだ。
「これも魔人イリアの遺物のせいかもしれません」
プレセイラさんに言わせれば、何でも悪いことは魔人のせいにさせられてしまいそうだ。
でも、鉄も錆びないこの世界で、車軸が壊れてしまうなんて、そうとでも考えないと理解できないのかもしれなかった。
「少しでも軽くして、ヴェロールの町へ行くしかないな。そこで修理をお願いしよう」
カロラインさんの判断が正しそうだった。
「荷物は私が持ちますよ」
クリィマさんが魔法の袋で荷物を運ぶことを提案してくれた。
皆はちょっと躊躇していたが、持って歩くよりはマシだろう。
結局、荷物はクリィマさんに預け、カロラインさんが馬を引いて、俺たちはヴェロールの町へ向かうことになった。
「町が近かったのは不幸中の幸いだったな」
カロラインさんが言うには、もう少しヴェロールの町が遠かったら、馬車を置いて行くしかなかったかもしれなかったようだ。
何とか馬車とともに町の門をくぐった俺たちは、とりあえず宿に落ち着いた。
「銀狼亭だなんて、趣味が悪いわね」
ロフィさんは宿の名前にまで文句を言っていた。
まあ、フェンリルと戦ったのはついこの間のことだから、気持ちは分からないでもない。
でも、あれは俺が簡単に吹き飛ばしてしまったから、そこまで悪い印象を持っているとは思えないのだが。
荷物と解くと、すぐに領主のラーナさんを訪ね、馬車の修繕をお願いする。
「それは災難でしたね。鍛治の者をご紹介しましょう」
ラーナさんは同情に堪えないって顔を見せ、すぐに町の鍛治師を紹介してくれた。
「こんなことが起こるとは、魔人の影響でないと良いのですが」
彼女もそんな心配をして、やっぱりこの世界では何か悪いことが起きると魔人せいだと思うのは、ひとりプレセイラさんだけではないようだった。
そうして紹介してもらった鍛冶屋では、主人が馬車の状態を見て、顔を曇らせた。
「これは酷い。どうしたらこんな風になるのかお聞きしたいくらいですね。車体はそうでもないのに、車軸だけがこんなことになるなんて、見たこともないですよ」
鍛治師らしく大柄な彼女が言うには、あのまま気がつかずに馬車に乗り続けていたら、大事故に遭ったかもしれないとのことだった。
「直すのにどのくらい掛かりますか?」
カロラインさんが聞いても、彼女は難しい顔をしたままだ。
「ご領主の紹介だし、こんな可愛らしい子の乗る馬車だ。最優先で修理させてもらうが、十日くらいいただきたいね。車軸は交換するしかなさそうだから」
俺の方を見た時だけはほんの少し笑顔を見せた彼女だが、慎重な姿勢を崩さなかった。
「万が一、車軸が折れたりしたら、この子も大ケガをするかもしれない。そう思うとね」
何となく俺のせいで余計に時間が掛かる気がするが、安全のためだから仕方がないのだろう。
馬車を鍛冶屋に預け、宿に戻った俺たちだが、特にすることもない。
「十日間なんて微妙ね。別の馬車で引き上げたいくらいだわ」
ロフィさんはさっさとこんな町からはおさらばしたいって顔だった。
「私も気味が悪いの。でも、馬車を置いて行くのもちょっと気が引けるの」
この世界の人はあまり待つのを気にしないのかと思っていたが、ミーモさんもそう言っていた。
彼女ほどの人でも、やはりモルティ湖で起きた異変に怯えているようだ。
「いや。全員で直るのを待っている必要などないのではないか? 王への報告も急いだ方が良いだろう」
カロラインさんも早くここを立ち去りたいようで、彼女は決して認めないだろうが王様をだしに使っているように俺には感じられた。
「そうなのですか? 私はせっかくですから周辺の町や村の教会を訪ねようと思っていたのですが」
プレセイラさんだけは、修理完了までの十日間を有意義に使うことを考えていたようだ。
「そうですね。十日もあれば謁見も叶うでしょうし、先に国王陛下への報告をしていただけるのなら助かります。私とアリスさんはここに残って、預けた馬車を受け取ってから追い掛けます」
彼女は続けてそんなことを言って、どうして俺もって思ったが、プレセイラさんが残るなら、付属品の俺も一緒に残らざるを得ないだろう。
「ちょっと待って! そうなると私もここにいなきゃならないじゃない」
ロフィさんが悲鳴のような声を上げたが、彼女はエルフの族長に命ぜられているから、俺から離れるわけにはいかないのだ。
「ロフィさんがいるのなら、馭者役は必要ないな。お言葉に甘えて私は領主から馬車を借りて先に王都へ戻っているよ。同行する人はいるか?」
カロラインさんは、あのイリアの遺物の影響を受けたからか、一刻も早くここから立ち去りたいようだった。
国王からの命令は俺たちの護衛じゃなかったのかって気がするが、もう危険もなさそうだからいいってことなのだろう。
「どうしようかの? 帰りたいのはやまやまじゃがの」
ミーモさんは迷っているようで、彼女の方が王の命令を尊重しているように思える。
「では私が同行しましょう」
クリィマさんがそう申し出たのは、俺には意外だった。




