第七十七話 モルティ湖へ
「はい。勇者様はモルティ湖にとても辛い思い出があるようなのです。そんな方に無理強いするのは酷だと思います。私にはそんな思い入れはありませんから、そこまで行って、あの光る石があるか確認してきます」
リールさんの気持ちは、彼女がイリアとの思い出を語ってくれたことで、ある程度は理解することができた。
俺は幸いなことに、これまでそこまで辛い別れを経験していないし、しかも親しい相手を自らの手に掛けるなんて経験はありようもない。
だからすべて理解したなんてとても言えないが、リールさん抜きで俺が行って確認することで、彼女の負担を減らせるのではないかと思ったのだ。
「光る石?」
だが、廷臣たちの中には、俺のそんな気持ちより、俺の話した内容の方が気になる人たちがいた。
「どうしてモルティ湖の魔人の話が石の話に変わるのだ?」
そんな職業がこの世界にあるのか定かではないが、教育者か科学者のようにも見える白い長衣を着た黒髪の女性から、そんな問いが出る。
するとあの眼鏡の文官が慌てた様子で、即座に口を挟んできた。
「魔人に関することはすべて極秘です。今のアリスさんの話は聞かなかったことにして一切、口外してはなりません」
厳しい声でそう注意するように告げる彼女の様子に、俺は自分が不用意にも禁忌に触れてしまったことを理解した。
「そういうことだ。しかし、ここにいる者たちは、もうアリスの言ったことを知ってしまっているのだな。ならばアリスとともに行く者は、そなたらを措いてあるまい」
国王陛下はそうおっしゃって、プレセイラさんやミーモさん、カロラインさんは同行してくれることになりそうだった。
王宮を辞して宿に戻ると、まずはロフィさんが俺に声を掛けてきた。
「私もご一緒させてもらうわよ。自分が魔人だって言い出すようなことまであって、このまま森に帰ったら、エフォスカザン様に言い訳できないわ」
やっぱり彼女は俺の見張り役を逃れられないようだ。
気の毒な気もするが、俺にとっては心強いことは間違いない。
「私も一緒に行きますよ。リールには申し訳ないですがね」
クリィマさんはきっと来てくれないんだろうなと思っていたので、彼女の発言は意外だった。
「いいえ。クリィマが行ってくれるのなら安心です。本当は分かっているのです。私の心の弱さだと。ですがどうしても……」
そう言ったリールさんは本当に辛そうだった。
「そんなことはありません。リールさんはいつも勇敢に魔物を倒して俺たちを守ってくれましたし、さすがは勇者だと感じました。あなたの負担を少しでも軽くできるのなら、嬉しいんです」
俺は今まで基本、守られてばかりだったから、こんな俺でも役に立てると言うのなら、心が軽くなる気がした。
クリィマさんを見て、守られてばかりってこともないかと思い直したが。
「では、私は一度、家に帰ります。国王陛下のお考えにもよりますが、気が向いたら訪ねてもらって構いません。歓迎しますよ」
リールさんはそう言って王都から北へ向かって去って行った。
「行ってしまいましたね」
もしかしたら最後には一緒に行ってくれるんじゃないかって思っていなかったと言えば嘘になる。
でも、リールさんの決意は固く、彼女は俺たちに背を向けてラブリース郊外の森にある家へと帰ってしまった。
「私たちも行きましょう」
プレセイラさんは当然のように同行してくれて、俺は本当に心強かった。
「今回は直接、湖を目指すのだろう?」
馬車の中でカロラインさんが確認してきた。
「ええ。黒い森は懲り懲りですからね。東から峠を越えて、そのままモルティ湖を目指しましょう」
自分で言っていて、生意気な子どもだって気がするから、誰かに何か言われるかなと思った。
でも、皆は温かい目で俺を見て、特に異論はなさそうだった。
「そうよな。峠を越えて南へ進めば、すぐにモルティ湖じゃ。こんなことなら、あの時、無理をしてでも訪ねておくべきじゃったの」
ミーモさんはそんなことを言ったが、あの時はリールさんが絶対に行かないとがんばっていたから、無理だったのだ。
今回は神殿のあるオルデンの町では泊まらなかった。
「随分と街道を行き交う人と車が多いんですね」
俺が尋ねるとプレセイラさんは嬉しそうだった。
「間もなく新年ですから。敬虔なモントリフィト様の信徒たちは、神殿で新年を迎えようとオルデンに向かっているのです。ポリィ大司祭の有り難い説諭があるのですよ」
どうやら初詣みたいな風習が、この世界にもあるらしかった。
おかげでオルデンは大混雑で、俺たちは神殿で宿泊するどころか宿を取ることさえしなかったのだ。
「私から神殿にお願いしてみましょうか?」
それでもプレセイラさんはそう言ってくれたのだが、これ以上、彼女と神殿に迷惑を掛けたくないと思って遠慮した。
無論、近隣の町も同様で、俺たちは久しぶりに野営をすることになった。
オルデンを過ぎると、向こうからやって来る人や車が多くなった。
やはりプレセイラさんの言ったとおり、新年を神殿で迎えようとする人たちの波が続いているようだった。
「この方たちは間に合うかしら?」
プレセイラさんは道を急ぐ信徒たちが新年の説諭を聞けないのではと心配していた。
「いや。神殿に詣でるだけでも良いのではないか? 誰もが説諭を聞きたいわけではなかろう」
カロラインさんの言葉は現実的だが、プレセイラさんの心配を除く効果はなさそうだった。
「とても素晴らしいお話なのですよ。私も毎年、楽しみにしていたのです」
彼女はそう言って、気が気ではないって様子だった。
でも、俺はそれを聞いてまた、申し訳ない気分になる。
「プレセイラさんは毎年、神殿でポリィ大司祭のお話を聞いていたんですね。それなのに今年は……」
俺がそう言うと、彼女はすぐに頭を振ってそれを打ち消し、また、優しい笑顔を見せてくれる。
「大丈夫ですよ。モントリフィト様がこの世界をお作りになられた時のお話です。信徒の誰もが知っている話ですが、大司祭様が話されると、モントリフィト様の慈愛の心が身近に感じられる気がするのです」
どうらや毎年、新年にはポリィ大司祭が似たような話を信徒にするらしい。
そうなると彼女はもう三百回くらい聞いているだろうから、一回くらいパスしてもいい気もする。
いや、ずっと続いていたのなら、それを途絶えさせるって、とても罪深いことなのかもしれないが。
そんな話をしながらも、俺たちを乗せた馬車は順調に進んだ。
王宮の付けてくれた馭者はやはり手慣れているようで、何となく馬車の揺れさえ少ない気がしていた。
それでも結局、峠を越えて一旦、少し北上してヴェロールの町に寄り、俺たちは馬車を乗り換えることにした。
「馭者は私が務めよう。わざわざ戦えぬ者にモルティ湖まで同行してもらうこともあるまい」
そんなカロラインさんの意見に、俺たちも同調したからだ。
「守らねばならない人数は、一人でも少ない方が有り難いですから」
クリィマさんもそう言っていた。
俺はそうでもないのだが、俺だけですべてを処理することは難しいだろうから、黙っていた。
「王からはモルティ湖までお送りするよう命令をいただいたのですが」
馭者はそう言っていたが、カロラインさんが帰っていいと伝えると、明らかに安堵した様子だった。
魔人の滅ぼされた地、しかも魔物が守る場所になんて行きたい人はこの世界でも、俺やクリィマさんくらいだろう。
「何か来るわ。きっと町で聞いたあいつね」
馬車を湖に向けて進めると、ロフィさんがそう教えてくれた。
俺たちは抜かりなく町でモルティ湖を守る魔物について確認をしていた。
領主のラーナさんには初めて会ったが、彼女は俺たちが勇者に協力してこの町の反乱の収拾と調査を命ぜられていたことを知って、便宜を図ってくれたのだ。
「モルティ湖の魔物は巨大な銀色狼です。私は命からがら逃げたのですが、仲間の一人が……」
別に直接、襲われた本人に聞く必要もなかったのだが、領主が手配してくれた経験者を断ることもできなかった。
どうもモルティ湖の魔物はフェンリルであるように俺には思われた。
「来たわ!」
ロフィさんが指さす先に姿を見せたのは、銀灰色に輝く毛皮のトラックほどもありそうな巨大な狼だった。
「フェンリルよ! 気をつけて!」
やはり俺の予想は当たり、イリアの滅んだ地を守るのはフェンリルらしい。
「まずは魔法の障壁ですね」
クリィマさんの言葉に俺も頷いた。
毎回、変わり映えがしないが、この方法がもっとも確実なのだ。
すぐに魔法を展開したが、あまり余裕はなかったようだつた。
ドカーン! ガリガリガリガリ!
「うわっ!」
フェンリルが突進してきて、クリィマさんと俺が展開した魔法障壁にぶつかって大音を轟かせ、すぐにそれと気づいて鋭い爪で障壁を破りにかかる。
魔法の壁があると分かってはいても、その迫力は圧倒的で、カロラインさんは悲鳴のような声を上げていた。
「そんなにはもたないかもしれません。アリスさん! お願いしていいですか?」
やっぱり魔法を使う役は俺に回ってきたが、もともとモルティ湖を訪ねようと提案したのは俺なのだ。
ここはがんばるべきだろう。
「モントリフィト様。どうか力をお貸しください」
あの女神への祈りにも、だいぶ慣れてしまった。
プレセイラさんももう仕方ないと思っているのだろう。俺が魔法を使うのを黙って見てくれていた。
「コントロールを慎重にお願いします」
クリィマさんの指示が飛んできて、俺はそういうのが気が散るんだよなと思ったが、そう思うだけの余裕があるとも言えた。
ドッ!!
俺の前に浮かんだ銀色の魔法陣から凄まじい勢いで眩い光が放出され、フェンリルを包んだ。




