第六十三話 黒い森へ
ヴェロールの町へ向かうには、まずは王都から南に向かい、神殿のあるオルデンから南西へ伸びる街道を使って行くのが一般的なルートだった。
俺たちも当然、そのルートを馬車で進む。
「オルデンの町は王都からこんなに近かったんですね」
初めて王都へ向かった時、俺はもっと長い距離があったように感じていたから、思った以上に近いのに驚いた。
あの時はどうなることかと本当に不安で、しかもこの世界のことも今ほど分かっていなかったから、かなり必死だった。
プレセイラさんだけが頼りで、彼女が優しくて信頼できる人だってことはすぐに分かったが、まだ出会って数日だったってこともあり、心細いことこの上なかった。
「そうね。アリスさんはあの時、不安だったのでしょうね。ごめんなさいね」
やっぱり俺の気持ちが伝わってしまったようで、プレセイラさんはそう言って謝ってさえくれた。
「いいえ。プレセイラさんは悪くないですし、プレセイラさんのおかげで、今はこうして安心して旅ができているんです。感謝しています」
俺がそう返すと、彼女の顔に笑みが浮かんだ。
「そう言ってくれると嬉しいわ。私にとってはアリスさんとの旅は、いつも目的地まですぐに着いてしまう気がしているのですよ。アリスさんを見ているだけで退屈しないし、心が安らぎますからね」
俺なんかのことをそんな風に言ってくれるなんてと照れてしまう気がしたが、この世界の俺は、ちょっと見ないくらいの美少女なのだ。
キセノパレスでは『青い服の天使』って呼ばれていたらしいし、国王陛下からは『春の妖精』って呼ばれるくらい可愛らしい。
自分で言っててどうかと思うが、それ以外にも多くの人たちが俺を褒め称えてくれていたから間違いないはずだ。
神殿では偶然、マイさんが門の近くにいて、俺たちの馬車の到着に気づいてくれた。
彼女は俺の姿を認めると、いきなり抱きついてきた。
「あれからどうしているのかなって、これでも心配してたのよ。プレセイラからの便りもないし、たまに王都から無事らしいって消息が聞こえるくらいで」
俺なんてほんの数日しか、この神殿にはいなかったのに、そうまで言ってくれるのは、やはりここにいるのが善良な神の信徒だからだろうか?
「神に感謝と奉仕を。大司祭ポリィ様。お久しぶりです。ですが私はもう少し、アリスさんと旅を続けようと思っています」
神殿の奥からはポリィ大司祭も姿を見せて、プレセイラさんと挨拶を交わしていた。
「神に感謝と奉仕を。プレセイラ。まだ結論は出ないということですか?」
大司祭はそう言って憂い顔だった。
「はい。でも彼女はモントリフィト様のご意思を実現するために大きな力となりました。きっと神も彼女の存在を祝福してくれるはずです」
プレセイラさんはそんなことを言ってくれたが、それはおそらくステリリット大陸での出来事を言っているのだろう。
あの時は魔法で皇宮を破壊してしまい、プレセイラさんを悲しませることになった。
でも結果として、セデューカ王は心を入れ替え、プレセイラさんの言葉に従って南部を含めた大陸の一括統治を諦めたのだ。
俺はそれによって王に魔人扱いされることになってしまったが。
「そう……ですか。勇者様がご一緒なら安心ですね。王宮に相談して良かったです」
ポリィ大司祭の言葉は、まだ俺が魔人なんじゃないかと疑っているように聞こえたが、プレセイラさんは素直に受け取ったようだった。
「今は勇者様とともに、魔人の事跡をたどっているのです。アリスさんは記憶を失くしていますし、それを知ることは、この世界の理を知ることにもつながりますから」
プレセイラさんの説明に、大司祭はすでに王宮から連絡を受けていたのか、曖昧に頷いたが、その目は俺への警戒を緩めていないように見えた。
「今夜はここにお泊りなさい。部屋を用意させますから」
大司祭はそう言ってくれて、俺たちはその晩はオルデンの神殿で宿泊することになった。
それぞれに個室を用意してくれたが、布団はやっぱりぺらぺらだった。
あの女神にこの地に飛ばされてから、何年も経ったわけではないのに、その寝苦しさも今は何となく懐かしい気がしていた。
「なんだか急に寂しくなりましたね。巡礼の方たちはここを通らないのですか?」
オルデンの町を出て西へ向かう道は、俺たちがやって来た北の王都へ向かう街道だけでなく、東へ向かう街道と比べても随分と人が少なかった。
そもそも道幅も狭く、何となく整備もおざなりって感じで、馬車も揺れる気がする。
「そんなことはありませんよ。神殿は大陸各地はもとより、世界中から巡礼の方がいらっしゃいますから」
プレセイラさんはそう答えてきたが、どう見たってこの道は寂れてるって様子だ。
「この先には大きな町はないからの。北へ向かえばピッツベルゲン山脈に当たるし、西の海は冷たくて、そのせいか大陸西岸は寒冷な土地なのじゃ。わざわざそんな土地に住もうとする者は少ないからの。そして南は黒い森なの」
ミーモさんが苦笑しながら教えてくれる。
「本当に黒い森に向かうのね。でもリールには勝算があるってことよね?」
ロフィさんは珍しく不安そうだ。
黒い森にはエルフも近づかないなんて言っていたし、馬車がそこへ向かっているからだろう。
「黒い森って、そんなに危険な森なのですか?」
俺も何となく不安になって聞いてみた。
俺はこの世界で命を落とすわけにはいかないのだ。
そうなったら前の世界に戻してもらえるってことなら、それでもいいのかもしれないが、あの女神はそんなことは言ってはいなかった。
もしそうであっても命を落とすなんて怖いことに変わりはないし。
「まあ。危険ではあるの。と言っても私も人から聞いただけではあるのだがの。何しろ滅多に人の寄りつかぬ森ゆえ、知る者は少ないのだ。噂では熊や狼が大量に生息しておると聞いているがの」
この世界の動物がどんな生態を持っているのかよく分からないが、やっぱり熊や狼は人を襲うことがあるらしい。
ほとんど亡くなることのないこの世界の人にとっては、野生動物に襲われるって、数少ない死因の一つって気がするから、俺の想像以上に恐れられているのかもしれない。
「神殿に仕える者として、私は本当は行くべきではないのかもしれないと思っています。神殿には『黒い森』はモントリフィト様のお力があまり及ばぬ場所だとの言い伝えがあるのです。もしそれが本当なら、そのような場所で良いことが起こるはずがありません」
プレセイラさんはそう言ってリールさんを見るが、彼女の意思は固そうだった。
「大丈夫ですよ。リールに私、それにアリスさんもいますから」
クリィマさんは気楽な感じだったが、リールさんはドラゴンやフェニックスも退治しているのだ。
野生動物に後れを取るとは思えない。
勇者が熊に襲われて亡くなったなんて、洒落にもならないし、もしそうなったらこの世界の一大事だろう。
だが、プレセイラさんは、クリィマさんの答えにゆっくりと頭を振った。
「ですが、私は以前から『黒い森』を訪れるべきだとも考えていました。神の栄光は遍く大地を覆うべきで、その光が当たらぬ場所があったはならない。そう思えるからです」
強い決意をその目に宿し、プレセイラさんはそう告げた。
それに慌ててカロラインさんが応ずる。
「そうです。私も全力で皆さんをお守りしますから」
彼女はさっきクリィマさんに戦力から除外されたみたいになって、それを訂正する機会を待っていたようだ。
俺なんかを入れずに、彼女を入れてあげれば丸く収まるのにと俺もちょっと不満だったが、クリィマさんは分かっていてわざとやっているのだろうか?
「ここからは歩いて行きましょう」
王宮が用立ててくれた馬車は森の側まで来たところで帰ってもらい、俺たちは黒い森の入り口に立っていた。
馭者は俺たちが森へ向かうと知って驚いていた。
「王宮にお伺いを立てますので、しばらくお待ち願えませんか?」
困惑した表情でそこまで言っていたから、想定外ってやつだったらしい。
途中で何度か「こちらでよろしいのですか?」って確認していたから疑問には思っていても、まさかってことだったのだろう。
「いいえ。陛下からはヴェロールの町の反乱について調査して、できれば収めるようご指示をいただいただけですから。ご心配は無用です」
確かに途中の道筋までは指定はなかったろうが、それは当然、黒い森へなんて入らないよねってことだろう。
馭者が迷うのも無理はなかった。
「この先は馬車では進めませんから。ご苦労様でした」
リールさんがそう言って、半ば強引に引き取って、俺たちは森へ足を踏み入れた。
「町までどのくらい掛かるんですか?」
ここから先は徒歩の旅になる。
覚悟していたとはいえ憂鬱だ。
「さあ? 森を抜けるのに三日。その後、山越えで三日といったところでしょうか? 正確には分かりませんが」
リールさんの口ぶりはあまり申し訳ないって感じがしない。
モルティ湖に近寄るのが相当に嫌なのだろう。妥協の余地はないって様子だ。
俺は「南から回ったらどのくらいなのでしょうね」って聞きたい気がしたが、諦めた。
皆もそう思っているに違いないのに黙っているのが分かるからだ。
子どもの姿であることを利用して、無邪気に聞いてみたら、何とかなるかもと一瞬、思ったが、やめておいた。
「ここが『黒い森』なのね。暗くて薄気味悪いわ」
少し進んだだけで、辺りはすぐに木々が生い茂った深い森になる。
鬱蒼とした森の中は太陽の光が届かないからか、ロフィさんの言うとおり薄暗いが、そのおかげか下草もまばらで足を取られることはない。
彼女はそれでも森の中ってことで、先頭に立ってくれていた。
「なにやら邪悪な気配がします。やはりこの森はただの森ではないようですね」
突然、プレセイラさんが森の奥を睨むように見て、そんなことを口にした。
俺にも何となくではあるが、この森が普通の森とは違うのではないかという違和感のようなものがあった。




