第五話 神殿での暮らし
次の日から、俺は当面、オルデンの町の神殿で修道女みたいな生活を送ることになった。
「アリスちゃんは私たちの手伝いをしてくれるかな?」
プレセイラさんと同室のマイさんという女性が、俺をそう導いてくれた。
彼女にはプレセイラさんが俺が記憶喪失だってことを話しておいてくれていた。
「はい。お願いします」
「いいお返事ね。期待してるわ」
彼女はそう言って笑顔を見せる。
プレセイラさんと同じ髪を覆う神官の衣装を着ているし、敬虔なモントリフィトの神官らしいから悪い人ではないのだと思う。
でも、元いた日本での俺と同じ年くらいに見える彼女から、子ども扱いされるのは屈辱的な気がした。
手伝いだから軽い作業なのだろうと思っていた俺の期待は見事に裏切られ、掃除をしたり薪を運んだりと結構な重労働だ。
「この薪は何に使うんですか?」
今は気候も良い時期らしく、夜もそれほど寒くはなかった。
これから冬に向かう準備かなって思ったのだが、彼女の答えは違っていた。
「教会でパンやクッキーを焼いているの。そのために使うのよ。焼いたパンやクッキーは信者の方々にお配りするの」
どうやら食事をする必要がないとは言っても、食べることは楽しみらしい。
俺は自分は食事もしていないのにと何となく恨めしい気がした。
「本当はいけないのだけれど、あとでクッキーを一枚あげるわね。欠けてしまったものなら大丈夫。それにアリスちゃんは私たちとは違うから」
どうやら俺は神官ではないからってことらしい。
そして彼女は約束どおり、休憩に入るとクッキーを一枚持って来てくれた。
「はいどうぞ」
そう言ってクッキーを手渡してくれた彼女もやはり整った顔をしている。
頭巾の内からこぼれる髪は白いが絹のように光沢があり、赤い瞳が印象的だ。
肌の色は真っ白だから、全体的に色素の薄い体質なのかもしれなかった。
「ありがとうございます」
ちょっとどきどきしながらクッキーを受け取ると、俺はそれをひと息に頬張った。
「あら。ひと口で?」
そう口にして彼女は嬉しそうに笑う。
俺は自分が小さくなっていることを甘く見ていて、口の中がクッキーでいっぱいになってしまったが、何とか嚙み砕いて飲み込んだ。
「おいしい……」
勿体ないことをしたと思ったくらい、クッキーは美味しかった。
最初はサクサクしていたが、途中からとろけるような甘さが口の中いっぱいに広がる。
そんなに甘いのに後味は爽やかだった。
「そりゃあそうよ。モントリフィト様への愛がいっぱい詰まっているんですもの」
マイさんはそんな解説をしてくれる。
神殿の神官たちが丹精込めて作るパンやクッキーは信者の方々に大人気なのだと教えてくれた。
「クッキーをいただいて、疲れが取れたような気がします」
俺はお世辞ではなくそう言ったのだが、マイさんはきょとんとした顔をした。
「疲れたって。あなたマナを使っていないの?」
そう言って不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「えっと。マナを使うと疲れないんですか?」
そんなこと聞いたこともないし、俺はマナの存在自体、昨日知ったばかりなのだ。
「そうよ。それも忘れてしまったのね。じゃあ、今朝は悪かったわ。きっと疲れたわよね」
どうやらマナを取り込むことで、疲労を回復することができるようだった。
「マナは感じられるのよね。それをこう、胸を大きく開いて深呼吸するみたいに取り込むの。やってみて」
彼女は両腕を広げ、深呼吸をするような動作を見せてくれた。
俺もそれに倣って、同じ動作を繰り返す。
「あっ……」
最初はただの深呼吸だったが、昨日感じたマナを意識すると、それが身体に流れ込んでくるような感覚があった。
一度その感じを覚えると、次からは同じことが容易にできるようになる。
「どう? 疲れが取れたでしょう?」
彼女の言うとおりだった。
労働で溜まっていた疲れが一気に消し飛んだ気がして。俺はマナの力を認識することができた。
「マナってすごいんですね」
俺の言葉に彼女は自慢げに答えてくれる。
「そりゃあそうよ。モントリフィト様はありとあらゆる物をマナからお作りになられたのだから。私たち人間だって、モントリフィト様がご自分の姿に似せて、マナからお造りになったのよ」
だからマナを取り込めば、悪いところはすべて治るし、疲れだって取れるのだと彼女は教えてくれた。
(そうか。この世界の人間は、女神が自分の姿に似せて作ったって神話があるんだな)
俺はそう理解したが、ここは異世界なのだ。
本当に女神がそうしたんじゃないかと思えるほど、この世界の女性たちは美しかった。
「それにしてもマナで疲れが取れるとはいえ、女性だけでこの作業は大変ですね」
俺は休憩中の雑談って感じでそう言ったのだが、彼女は急に不審だって顔を見せた。
「女性って何?」
それは一瞬、禅問答だろうかって思うような質問だった。
いきなり女性とは何かって聞かれると、答えるのは難しい。
「あの。マイさんやプレセイラさんのことです。女性ですよね。お二人とも」
本当は今の俺もそうなのかもしれないが、さすがに抵抗感があって自分は除いた。
でも当然と思われた俺の答えに、彼女は納得していないようだった。
「私やプレセイラのことって。私たちは人間よ。女性って何? 人間のことかしら?」
彼女はそんな言葉は聞いたことがないと言って、俺を慌てさせた。
昨日はポリィ大司祭とプレセイラさんが「飲まず食わず」って言葉を聞いたことがないって言っていたから、それと同じかもって思ったが、それにしたって不自然だ。
「あの。人間には女性と男性がいて……」
そう言いながら俺は最近はもっと多様な性的指向とか性同一性とかを認めるべきなんだよなって思ったが、彼女が言い出したのはそれとも違う気がしていた。
それに宗教的な問題も絡むかもしれないから、軽々にこういった問題に触れるべきではなかったのかもしれない。
でも、話を始めてしまった以上、ある程度は続けるしかない。
「男性?」
マイさんはますます怪訝そうな顔をした。
以前だったら、俺のことだって言えたのにと思ったが、今の俺は少女の姿だからそうすることもできない。
「男性って何のこと? 人間は人間で、それ以外の何ものでもないわ」
俺はやっぱりこの世界では、性別のことは気軽に話していい話題ではなかったのかもと思ったが、彼女は俺を責めていると言うよりも、本当に理解できないって様子であることに気がついた。
「あの。まさか男性を知らないなんてことはないですよね? そうだ! この神殿には男性がいないとか?」
俺はこの神殿に来てから女性しか見ていない。
もしかしたらこの神殿は女神を祀っていることもあって、やはり男子禁制なのかもと考えたのだ。
それにしたって、ここへ来て二日目の俺は別にして、マイさんが男性を見たことがないどころか、男性という概念を知らないことはあまりに不自然だ。
俺はこういうことを口にしていいのかなって考えながら、思い切って聞いてみることにした。
「あの。子どもはどうやって作るんですか? それには男性と女性が必要ですよね?」
こんな敬虔な神の信徒で、しかも若く美しい女性にこんなことを聞くのって、まるっきりセクハラじゃないのかって思ったが、今の俺の姿は可愛らしい女の子だから、何とか許容されるんじゃないかとも思った。
それでも顔に血が上り、言葉が上ずってしまいそうになったが、何とか聞くことができた。
だが、彼女の答えは俺が思ってもみないものだった。
「子どもはモントリフィト様のお使いのコウノトリが運んで来てくださるのよ。何を言っているの?」
今は俺が子どもの姿で、彼女は若いとはいえ高校生だった俺の同級生くらいに見える。
そんな彼女が「子どもはコウノトリが運んで来る」って真顔で言うのは、どうなんだって思う。
俺をからかっているなら、もう十分だろうとも思った。
「ええと。あなたはそうじゃないの? 私は親の元へコウノトリに運んでもらったわ。あの人は私のことをとても可愛がってくれて。私が神殿に入ったことで、頻繁には会えなくなってしまったけれど、今でも良い関係が続いているわ」
だが、彼女は同じように真面目な顔で、俺にそう聞いてきた。
彼女がそう信じているのか、その言葉には俺をからかう様子など微塵も感じられず、俺は戸惑うばかりだった。
「あ。ごめんなさい。あなたは過去のことは忘れてしまっているのだったわね。でも、子どもを作るだなんて。それはモントリフィト様だけが成せる業。それをまるで人間がするみたいに言うのは良くないわ」
俺を窘めるように言う彼女に、俺は彼女が本当に男性と女性について知らないのだと確信できた。
そして子どものことも。
彼女がこの神殿で生まれ育ち、男子禁制のここ以外の場所へ出たことがなく、それで男性の存在を知らないってことがあり得るのだろうかとも考えたが、さすがにそれはなさそうだった。
「すみません。俺、本当に覚えていなくて」
俺はとりあえず謝って、この話題をここで打ち切ることにした。
(まさかとは思うが、本当のところはどうなのか。調べてみる必要があるな)
俺はそう思っていた。