第二十八話 山麓の温泉
「これはいいの」
大きな岩風呂の中、湯煙の向こうからミーモさんの声が響く。
俺たちの馬車は無事にファスタン山の麓に到着し、温泉のある町に馬車を預け、ここから先は徒歩で行くことになった。
もちろんその前に宿に泊まり、温泉を楽しむことは外せない。
「本当に良いお湯ですね。このような贅沢をして良いものかと思うほどです」
プレセイラさんは真面目だからか、そんなことを思うようだ。
まあ、いい湯であることは間違いない。
「もう皆、お湯につかっているのだな。出遅れたか」
そう言って湯気の先からカロラインさんが湯船に入ってきて、俺は慌てて彼女に背中を向けた。
「カロラインさんはさすがですね。よく鍛えているのですね」
リールさんの声が聞こえ、続けてミーモさんも、
「無駄な肉はなさそうじゃな。見習わねばな」
なんてことを言っている。
どうやらカロラインさんは鍛え上げられた身体を持っているらしい。
「ありがとうございます。戦いで遅れを取るわけにはいきませんから。でもそれを言うのなら勇者様こそ」
彼女はそう返していたが、リールさんはどちらかと言えば俺やミーモさんに近い体型だと思うのだが。
幸いにと言うべきか残念ながらと言うべきか、温泉のお湯は見事な乳白色でお湯につかった身体はほとんど見えない。
「アリスさんもこちらへいらっしゃい。並んで座りましょう」
とてもありがたいお誘いだが、それはさすがに元男子高校生に刺激が強すぎる。
変に思われないように俺はなるべく見ないようにしてるのだが、それでもちらちらと目に入る六人のプロポーションは、それは見事なものだった。
いや、一人だけ俺とほとんど変わらない体型の人もいたが。
「大丈夫です。こちらの方がお湯がぬるいみたいなので」
適当なことを言って誤魔化すが、ミーモさんに聞き咎められる。
「そうか。では私もそちらに行ってみようかの」
ミーモさんならって思わないでもなかったが、やっぱり無理だ。
俺は目のすぐ下までお湯につかり、少しでも湯気で周りが見通せないようにする。
こうなることは想像していて、さすがに一緒に温泉に入るのはまずいと思い「後で、一人で入りますっ!」って元気に言ってみたのだが、子どもを一人でなんて入らせられないって却下されてしまったのだ。
「アリス殿は小さいからそうなってしまうのか? 私の膝に乗るか?」
俺がほとんど目のあたりまでお湯に顔をつけていることに気づいたカロラインさんが、そう誘ってくる。
「いえ。大丈夫です。しっかり温まろうと思っているだけですから」
下手な言い訳をして彼女に背を向けると、反対側にいたロフィさんが立ち上がった。
「私はもういいわ。先に上がるわね」
そう言ってお湯から出た彼女を正視するわけにもいかず、俺は慌ててお湯に潜った。
お湯の白さと豊かな湯量によってもうもうと立つ湯気が視界をかなり遮ってくれていたとはいえ、俺には刺激が強すぎる光景だった。
「おい。大丈夫か? のぼせたのではあるまいな?」
俺が突然、お湯の中に姿を消したものだから、カロラインさんがザブザブとお湯をかき分け、慌ててやってきた。
その時には俺はもうお湯から頭を出していたのだが、彼女が近づいて来たものだから、慌ててまた逃げ出した。
「大丈夫でーす。でももう上がります!」
本当はもっとお湯につかっていたいのだが、もうこれ以上は限界だ。いや、精神的に。
「子どもにはお湯が熱かったかしら? では身体を拭いてあげましょうね」
プレセイラさんがそう言ってお湯から上がって来ようとしたので、俺はまた大慌てで、
「そのくらい自分でできますから! プレセイラさんはゆっくりしていてください!」
そう言って小走りに退散する。
いや、別に堂々としていればいいって頭では分かっているのだが、やっぱり無理だ。
大きな岩風呂の端にたどり着き、そこから上がろうとすると、そこにはクリィマさんがいて、お湯の中から俺を見上げてひと言、呟いた。
「エッチ!」
この人はやっぱり俺と同じ異世界人だ。
俺はそう確信した。
翌日から山登りかと思ったのだが、まずは準備が必要とのことだった。
宿のダイニングに皆で集まって話す中、俺の服装が問題になった。
「さすがにそのワンピースはちょっと。靴も歩きやすいものに変えましょうね」
プレセイラさんはそう言うが、俺にはこれとハムボルドの町で手に入れたコートくらいしか服がない。
確かにワンピースで山登りって、山を舐めてるって言われそうだが。
「でも、そうなると……」
また町で服を誂えてもらうのかと思うとちょっとうんざりする。
いや、ありがたいことだと分かってはいるのだが、ここで足止めとなると、俺は毎日、温泉に入って過ごすんだろうか?
「確かにそれでは山へは行けませんね」
俺たちの会話を聞いていたのだろう、クリィマさんが口を挟んできた。
「私の服をお貸ししましょう。他人の服を身につけるのは嫌ですか?」
突然そんなことを聞かれて、俺は彼女の子どもの頃のお古ってことかなと思ったのだが、
「これなんかどうかしら?」
例の袋の中から取り出したのは白い長袖のシャツに同じような白い麻のような素材のパンツだった。
「いえ。いいんですけど、サイズが」
それはどう見てもクリィマさんに合ったサイズの、大人用のシャツとパンツだった。
「いいから、着てみて」
クリィマさんに勧められ、俺だけでなく周りからも、
「クリィマ殿。それは……」
「さすがに大きすぎるでしょ」
なんて声が掛かる。
でも、彼女はまったく意に介さず、俺にその服を押しつけてきた。
「ここで着替えるんですか?」
俺はさすがにダイニングで下着だけになるのはちょっとと思ったのだが、彼女は仕方ないといった顔で、
「誰も気にしないのに。ダークネス!」
そう口にして、俺の前に真っ暗な空間を出現させた。
「えっと。これは?」
「この中に入れば外からは見えないわ。中でも見えないけれどね。だから手探りで着てね」
俺をさっさと服と一緒にその闇の中に押し込んだ。
(えっとまずはワンピースを脱いで、それからここに腕を通して。うわっ、やっぱりぶかぶかだ)
サイズがまったく合っていないので、本当にこれでいいのか、暗闇の中では判断がつかない。
俺は悪戦苦闘していたのだが、クリィマさんの冷静な声が聞こえてきた。
「もういいですか? 暗闇を消しますよ」
頭を入れるのがここでいいのか、今ひとつ分からず、思ったより時間が掛かっていたようで、彼女は俺の返事を待つことなく、魔法を消し去った。
「えっと。さすがに大きいです」
パンツの裾を引きずり、シャツの袖は腕の先まで伸びて垂れている。
まるでシーツをまとったような様子に、俺は言わんこっちゃないと思ったのだが。
「かわいい!」
「可愛いの!」
なぜか皆から絶賛を受けてしまった。
「もう、このままでも良いのではないか?」
カロラインさんまでそんなことを言い出して、俺は良いわけないだろうって思っていた。
でもリールさんまでにこやかな顔で俺を見てきて、俺以外の人にはとても好評なようだった。
「さすがにこのまま山へ登るわけにはいきませんね」
ただ一人冷静なクリィマさんがそう言って、俺に向かって魔法を放つ。
俺の周りでマナの流れが起こり、それが俺の身体を包んだかと思うと、シャツとパンツが輝きを放つ。
「えっ。うそ……」
ロフィさんが驚きの声を上げ、俺の着ていた服は、ぴったりのサイズになっていた。
「こんなことが可能なの?」
妖精とかが使いそうな魔法に思えるから、使うなら森の妖精たるエルフの彼女だと思うのだが、ロフィさんには心当たりはないようだった。
「すべてはマナからできているのですから、マナを操ることで、服のサイズを変えるなど造作もないことです」
クリィマさんは澄ました顔だが、こんなことができるなんて俺だって驚きだ。
魔法なんだからって言われればそれまでなんだが。
「これで彼女の問題は解決ですね。私たちも準備を進めましょう」
残りの皆はそれなりに服や靴を持ってきているし、いざとなれば購入することもできる。
六人の用意はすぐに済み、俺たちはファスタン山へ向かって歩き出した。
「魔人が倒されたのは山の東にある火口だと言われています。そこに近づけば、奴が襲って来るはずです。気をつけて行きましょう」
クリィマさんの言葉に皆が頷き、リールさんを先頭に山道へと進む。
緑はすぐに途絶え、黒い岩と火山灰に覆われた山肌の道なき道をゆっくりと歩いていく。
そこは遮るものもなく日が照りつけ、思っていたよりも暑く感じられた。
「大丈夫か? 私におぶさるか?」
カロラインさんがそう誘ってくれるが、俺は「大丈夫です」と答えて断った。
ファイモス島で使った風の魔法は、酷く火山灰を巻き上げそうで、使わない方が良さそうだ。
歩幅が小さく大変ではあるが、身体が軽いことだけは有利に働くようだった。
「しっかり歩いてくれて助かります」
プレセイラさんが優しい笑みで俺を見守ってくれていて、それも何だか俺に力を与えてくれるような気がしていた。
「静かに! 何か来るわ!」
その時、ロフィさんが皆に注意を促し、山の頂の方を厳しい目で見遣った。
耳のいい彼女には何かが近寄って来る音が聞こえたようだ。
それが何かなんて、聞くまでもなかった。




