第百五話 魔人の出現
「リールさん。俺は魔人ですか? 魔人になったのですか?」
俺がそう尋ねた彼女だけはその場から、いや、クリィマさんから離れずにいた。
彼女には俺の魔法は効かないから、恐れる必要もないのだろう。
「あっ。クリィマさんが……」
俺の見ている前で、クリィマさんの姿はこれまでに倒した魔物と同じように淡く光ると溶けるように消えていく。
そして彼女のいた場所にきらきらと輝く何かが現れ、それは俺に吸い寄せられるように向かって来た。
「あっ……」
一瞬のことで避けることもできなかった。
その輝くものはファイモス島で見た光る砂や、何よりイリアの遺物から放出される光る粉のように思われた。
それは何故か俺の身体に吸い込まれるように消えていった。
「アリスさん。残念ですが、あなたは魔人です。クリィマはあなたのために亡くなった。それは動かし難い事実ですから」
リールさんは俺に向かって立つと、静かな声でそう宣言するように言った。
「クリィマは魔人とならずに亡くなりました。ああしてマナに帰ったのがその証拠です。魔人以外は遺物を残しませんからね」
そう言われてみればそう見えるが、あの光る粉はやはり異質な気がした。
彼女はやはり、ただこの世界に生を受けただけの人とは違うのだろう。
「でも俺は『変化と進歩、促進と改革を司る破壊者』なんかではありません。それでも魔人だと言うのですか?」
これまでこの世界で魔人となった者は、何らかの変化の兆しをこの世界にもたらそうとした人のようだった。
シシやイリアがそうだろう。
そしてそういう意味では、クリィマさんはそれに該当するはずだ。
彼女はオーヴェン王国の宰相として、数多くの改革を成し遂げたはずなのだから。
「あなたは少なくとも私たちに変化をもたらしていますよ」
リールさんの返事は俺には意外だった。
この世界の俺は、皆に連れまわされているだけの子どもだと思っていたのだが。
「プレセイラさんも、カロラインさんもミーモさんも、これまで経験したことのない旅をしています。エルフたちの森を出たことのなかったロフィさんもそうです。そしてそれは私も同じです」
リールさんにそう指摘されて、俺は愕然とする思いだった。
俺自身にそんな気はまったくないのだが、皆の生活に大きな変化をもたらしたって言われればそのとおりだと気づかされたからだ。
クリィマさんだって、俺がこの世界に姿を現さなければ、ピッツベルゲン山脈の麓で静かに暮らしていたことだろう。
俺の存在がこの世界に影響を及ぼし、変化を強いたことは間違いなさそうだった。
「そして神はこの地で解決策を示されると約束された。きっとこれがその解決策なのでしょう。私にあなたを滅ぼせと、そうお命じになっているのです」
リールさんはあの、もう魔人を滅ぼしたくないと悩んでいた彼女とは別人のようだった。
まるで本来の責務に目覚めたかのように、魔人と化した俺を滅ぼしたくて仕方がないように見える。
「リールさんは、それで良いのですか? 俺を滅ぼして」
俺がそう問い掛けると、初めて彼女の顔が歪んだ。
やはり彼女の心の内にはまだ、葛藤が残っていたのだ。
「クリィマと出会って、私は自分が変われるのではないかと、あの人の運命を変えるべきだと思いました。でもそれは思い上がった考えだった。そんなことはできるはずもないのです」
魔人イリアを滅ぼしたことで苦悩していた彼女には、魔人に近い力を持ちながら魔人ではないクリィマさんの存在は、小さな希望の光に見えたのだろう。
もう魔人を滅ぼさなくても済むようになるかもしれないと。
「定期的に現れる恐ろしい変化への動きを止める。それが神が私に与えた役割だと気づかされたのです。プレセイラさんに降臨されたモントリフィト様がおっしゃったのは、そう言うことだと思うのです」
この世界は完全で変化など必要ない。
だが人間は不完全だから変化を、進歩を求める。
それを正すのが勇者と魔人のシステムらしい。
「そんな。変化はそんなに恐ろしいものなのですか?」
まったく変化のない世界なんて、俺にはとても耐えられないと思う。
そしてこれまでこの世界で過ごしてきて、この世界の人にもその傾向はあると俺は思っていた。
その証拠がシシやイリアによる変化への希求のはずだ。
「私には分かりません。ですが神がそれを望んでおられないことは分かります。そしてそのための役割を神は私にお与えになったのです」
彼女の声は涼やかに響く。
もう迷いはないとばかりに、その声は聞こえた。
「そしてアリスさん。あなたもそれを望んでいるのでしょう?」
リールさんの言葉に、俺は驚きを隠せなかった。
確かに俺は彼女に自分を滅ぼしてほしいと言ったことはある。
でもそれはプレセイラさんによって訂正されてしまったはずだ。
まさかここでリールさんが言い出すとは思ってもみなかったからだ。
「クリィマが言っていました。モントリフィト様の示される解決策は、自分かアリスさんに関わることなのだろうと。さすがに自分がアリスさんの手に掛かるとは思っていなかったと思いますが。……いえ、思っていたのかもしれません」
どうやらクリィマさんはあの女神の意図をある程度、見抜いていたようだった。
「じゃあ、リールさんは俺を滅ぼすんですね。いえ。滅ぼしてくれるのですね?」
俺の問い掛けに彼女はしっかりとした態度で頷きを返してきた。
「この『勇者の剣』は本来、魔人を滅ぼすためのもの。魔人に対してこそ、その真の力を発揮するのです。あなたは苦痛を感じる間もなく滅びることでしょう。そして後にはあなたの姿を模った光る石が残るのです」
魔人が滅びると残るそれは、俺にはどうもこの世界の人が変化を求める心や希望が結晶化したもののように思われた。
さっきクリィマさんから俺に流れ込んできたものもそうなのだろう。
そうして三十年に一度、変化を渇望する人の心を輝く石のような結晶として封じ込めることで、この世界の完全性に保っているのではないだろうか?
「分かりました。でもできれば最後にお別れの挨拶をさせてもらえませんか? せめてそのくらいは……」
俺はそう口にしながら、それも難しいかもなと思い始めていた。
あれほど優しかったプレセイラさんでさえ、俺を遠巻きに眺めているだけで、近寄っては来ないからだ。
この世界では魔人はそれほど恐れられているのだろうが、俺は寂しかった。
「やれやれと言ったところですね。もうお終いですから、そのくらいはさせてあげましょう」
だが、プレセイラさんはそう言いながら俺たちに近寄って来た。
その口調から、それはプレセイラさんではなく、モントリフィトのようだったが。
「危ないぞ! 引き返せ!」
後ろからカロラインさんが呼び掛けているが、女神が顕現しているって分かっていないのだろう。
プレセイラさんの姿をした者は、俺の側までやって来て、
「勇者よ。魔人も滅ぼされることを望んでいる。それを叶えてやるのです。それなら心を乱し、愚かな考えに縛られることもないでしょう?」
そうリールさんに語り掛けた。
「すべては御心のままに。そして、私に進むべき道をお示しくださりありがとうございます」
彼女はやはりこの世界の勇者なのだ。
俺だってそれなりにここまで彼女と関わってきたのに、その俺は滅ぼせるんだと思うと、それもまた淋しい気がした。
でも、幼馴染のイリアとは比べるべくもないだろうし、まして魔人である俺も、それを望んでいると分かれば、彼女の心理的な負担は大きく減ぜられるはずだった。
「そうです。今後の魔人はすべてあなたに滅ぼされることを望む者。本当は今、魔人に滅ぼされた者もそうだったはずですが、まさかあれ程の抵抗を示すとは思いもしませんでした」
どうも女神は俺たち元の世界の人間を、人を殺めることくらい簡単にしてしまう野蛮な者と考えているようだった。
「それは俺だってそうです。さっきのはあなたの手配によるのですよね」
現れたフェンリルがたまたま魔法を反射する力を持っていたなんて、あまりに出来すぎている。
それにはきっと、女神の意図がはたらいているのだろうと思えた。
「プレセイラさん……ではないですね。お世話になって本当に感謝しているのですが、もうそう伝える術もありませんね」
俺はそうモントリフィトが現れたプレセイラさんの姿をした者に話し掛けたが、それで良かったのだと思えてきていた。
彼女とあいさつなんて交わしたら、きっと心が揺れるだろう。
この世界へ来てから一年以上の間、ほとんど彼女と行動を伴にし、本当にお世話になったのだ。
「リールさんもありがとうございました。そして、俺を滅ぼしてくれてありがとうございますと、先にお伝えしておきますね」
俺がそう挨拶すると、彼女は少しだけ口元を緩めたようだった。
「では、俺は向こうを向きますから、背中からお願いします」
さすがに彼女の振るう剣を正面から受ける度胸はなかった。
俺が背中を見せていれば、彼女はその魔人に大きな力を発揮する剣を使って俺を滅ぼしてくれるはずだ。
「心得ました。アリスさん。さらばです」
俺はリールさんに背中を向けて立つと、目を瞑った。
そして強烈な衝撃が我が身に走ったかと思うと、そのまま意識を失った。