第百四話 クリィマの最期
結局、俺はその日の夜は早々に眠くなり、翌朝までしっかりと寝てしまった。
自分が子どもの身体であることを甘く見ていた。
「さあ。アリスさん。行きますよ」
今朝もこれまでと同じようにプレセイラさんが声を掛けてくれた。
もうすっかり元のプレセイラさんだ。
それでも皆の間に、何となく緊張感のようなものがある。
プレセイラさんにいつ、モントリフィトが降臨するか分からないと思っているのだ。
「最低でもやっと王命は果たされるであろうからな。これでひと安心だ」
カロラインさんの発言に、俺は神の降臨を理解していないのかと驚いたのだが、彼女はそう割り切ることにしたのかもしれなかった。
勇者やひいてはこの世界全体の運命など、いくら彼女が近衛騎士とはいえ、背負うには大き過ぎる荷物だ。
それなら自分の責務のことだけ考えるようにした方が、この世界の人らしいのかもしれない。
「さあ。行きましょう」
一方のリールさんは、こちらはすっかり吹っ切れたといった様子だった。
しっかりと眠れたのだろう。彼女の言動からは爽やかささえ感じられる。
「ええ。行きましょう」
クリィマさんこそ、眠れなかったのかもしれない。
この中で一番緊張しているように見えるのは彼女だった。
もちろん自分の姿は見えないから、俺も同類かもしれないし、彼女はいつもは飄々としているから、余計にそう見えるだけかもしれなかった。
そんな俺たちを乗せて、馬車は順調に進む。
馭者はカロラインさんが務めてくれた。
「クリィマさん。解決策って何だと思いますか?」
馬車が走り出してすぐに俺がそう尋ねると、皆は少し意外だって顔をした。
昨日、二人だけでしっかり話しただろうに今頃、そんなことかと思っているのだろう。
「さあ。私にも分かりません。何しろ神様の思し召しなのですからね」
クリィマさんもいつもの彼女に戻っていた。
昨日はあんなことを言っていたから、馬車の中で忌憚のない意見を聞けると思っていた俺は、肩透かしを喰った気分だ。
「アリスさんはお菓子作りに興味はありますか?」
逆にそんなどうでもよいことを聞いてくる。
「アリスのお菓子屋さんか。きっと大繁盛だろうの」
ミーモさんが嬉しそうにそんな予想を披露した。
この世界では飲食が必須ではないから、お菓子屋だってそんなに数多くあるわけではない。
でも娯楽として楽しむ人もいるから、これまで訪れた町でもそれなりには見掛けていた。
「えっと。モントリフィト様に適性を与えられた人には敵わないんじゃないかと思うんですが」
俺はこんな時にいきなり何を言い出すんだと思って、ちょっと不愉快だった。
そんな俺の心中など理解できないのだろう。また、ミーモさんが、
「いや。どんなお店でも店主は大切なの。アリス殿がお店を開いたら、みんなアリス殿に会いたくてやって来るはずなの」
調子に乗ったように、そんなことを言ってくる。
この世界には「看板娘」なんて概念はないだろう。
それでも、どうせなら気に入った店主の店で購入したいってくらいの気持ちはあるのかもしれない。
「そうですね。もしアリスさんがお店を開いたら、私も行ってみたいです」
プレセイラさんが微笑みとともに、俺にそう言ってくれる。
「そうですか? でも、申し訳ないですけど、あまり興味がないですね」
俺はもうモルティ湖でモントリフィトが用意しているという「解決策」のことで頭がいっぱいで、そんなどうでもよい雑談なんてしたくないと思ってしまっていた。
だからつっけんどんな返事をしてしまっていたと思う。
後から考えてみれば、彼女はこの世界で責務を与えられていない者は、無為に過ごすべきだと言っていたのと矛盾していたのだが。
「出たぞ! 魔物だ!」
他愛もない話しかしないクリィマさんと俺たちが乗った馬車がモルティ湖に近づくと、カロラインさんがそう呼び掛けて馬車を停めた。
「神に招かれて訪れたのに。それでも魔物は現れるのね」
ロフィさんが不満そうに言ったが、魔人の骸の眠る地に魔物が現れるのは当然なのだろう。
「さっさと片づけましょう」
普通ならリールさんに任せるのだろうが、俺はこの時、いらいらしていた。
緊張していたのもあっただろうし、何よりクリィマさんの態度が解せなかったからだ。
「これでも喰らえ!」
俺は防御をクリィマさんに任せ、マナの流れを操って、数多の氷の槍を作り出す。
そしてそれを一気に俺たちに迫りつつあったフェンリルに向けて叩きつける。
キイィィィン!!
「なっ?」
金属同士がぶつかり合ったような音がして、俺の放った魔法の槍が何故かそのままこちらへ向かって来る。
「アリスさん!」
呆然と立ち尽くす俺に声を掛けたのはプレセイラさんかと思ったのだが、次の瞬間、俺の目に真っ黒なローブの背中が見えた。
「ぐわっ!!」
そんな叫び声が聞こえ、俺はその背中に押されてそのまま地面に倒れ込んだ。
だが、そんな俺の横に同じように倒れ込んできたのは、クリィマさんだった。
「クリィマさん!」
「早く。防御魔法を……」
蒼白な顔色の彼女の口から、そんな言葉が漏れ、俺は慌てて魔法防御を展開する。
突進してきたフェンリルの銀色の身体が俺が開いた防御壁にぶつかり、大きな音を立てた。
「やあっ!」
続けてリールさんの剣が一閃すると、以前、火竜ベニーを倒した三日月のような光が放たれ、フェンリルは真っ二つになって、そのまま溶けるように消えていった。
「クリィマさん。しっかりして!」
俺はすぐに防御魔法を解いて、彼女のもとに向かう。
もう彼女は虫の息だった。
「プレセイラさん。癒しの魔法を!」
俺は必死に呼び掛けたが、すでにミーモさんやロフィさんとともに、彼女は神聖魔法を行使していたようだった。
「無理です。さすがにここまで傷が深くては……」
彼女の魔法は少しは効力を発揮しているのか、まだクリィマさんの生命の火はか細いながらも保たれていたが、まさに風前の灯といった様子だ。
プレセイラさんは打ちひしがれるようにその場を立った。
「これ以上は……、苦痛を長引かせるだけです……」
彼女は慄くようにそう告げると、胸の前で手を組んで、神に祈りを捧げた。
「アリス……さん……」
「はいっ。ここにいます!」
クリィマさんが呼んだのは、俺の名前だった。
「これが解決……策です。これであなたは元の……世界に」
彼女が口にした言葉に、俺は気づかされた。
あの女神は俺とクリィマさんを相打たせるつもりだったのだと。
「そんな! クリィマさんも一緒に、一緒に帰りましょう」
俺の呼び掛けに、彼女は弱々しく瞳を動かした。
もしかしたら首を振ろうとして果たせなかったのかもしれない。
「私はもう……長く居過ぎまし……た。アリスさん……の願いが……叶いますよう……」
そう言い遺して、彼女はこと切れた。
それは本当に呆気ないほどだった。
「クリィマさん! クリィマさん!」
「クリィマ!」
皆が呆然と見守る中、俺とリールさんは必死で彼女に呼び掛けたが、彼女はもうぴくりとも動かない。
「もうダメだわ。生命の精霊の働きが感じられないもの」
ロフィさんもそう言って首を振った。
そして彼女も何かに気づいたかのように、リールさんの腕の中で眠っているようなクリィマさんから離れていく。
すでにミーモさんやカロラインさん、プレセイラさんもその場から距離を取っていた。
「クリィマさんは亡くなった。いいえ。殺されたのです。凶悪な魔法によって」
プレセイラさんがそう宣言するように告げる。
皆が距離を取っていたのはクリィマさんや、ましてやリールさんからではなく俺からなのだった。
「まさか本当に魔人になるとはの……」
ミーモさんも冷たい目で俺を眺めて言った。
「大丈夫だ。勇者様がいらっしゃる。魔人など恐るるに足らん」
カロラインさんはリールさんに縋るような視線を送る。
「やっぱりエフォスカザン様のおっしゃったとおりだわ。あの方のお言葉に間違いはなかった」
ロフィさんは厳しい顔で、俺を睨むように見ていた。
「待ってください。これは事故です。俺はクリィマさんに向かって魔法を放ったわけじゃない」
そう言った俺の頭に、あのフィロラの町の近郊で見た魔人シシの遺した鉄柱に刻まれていた文字が浮かぶ。
そこには魔人となった理由は事故だったと記されていた。
「まさか……、こんなことで人は魔人になるのですか? 殺す気なんてまったくなかったのに、それでも?」
呆然として訴える俺を、これまで仲間だった五人が冷たい目で、いや恐怖を宿した目で眺めていた。
(どうしてこんなことになったんだ? フェンリルを倒そうと思っただけなのに……)
俺はたしかにフェンリルに向かって魔法を放った。
だが、それは魔物を倒すことなく、反対に俺に向かって来て、俺を助けるためにクリィマさんは犠牲になったのだ。
(魔法を反射したのか?)
そうとしか考えられなかった。
クリィマさんを襲った魔法は俺が放ったもの。
俺の放った魔法が彼女の生命を奪ったのだ。
そして皆の反応を見る限り、それは俺が魔人になることを意味しているようだった。