第百三話 クリィマの述懐
「アリスさんの本当の名前は何なのですか?」
俺の質問には答えず、彼女はいきなりそう尋ねてきた。
「えっと。言っている意味が分かりませんが?」
俺は思わずそう答えてしまい。随分とこの世界に馴染んでしまったのだなって残念な気がした。
俺も答えながら気がついたのだが、彼女が言っているのは、元の世界の名前のことなのだ。
そう尋ねてきているって事実だけでも、彼女が俺と同じ転生者であることが分かる。
「私はもう元の世界のことは薄っすらとしか覚えていません。だから、あなたには私のことを覚えておいてもらいたいのです。もう元の世界には私のことを覚えている人はいないでしょうからね」
彼女はそう言って遠い目を見せた。
「私の名前は庫裏間……庫裡間石英です。あなたとの間で、別に隠す必要もありませんしね」
「俺の名前は有栖瑠璃秀。高校生です」
俺も慌てて自己紹介する。
彼女は今度は眩しそうな目をした。
「高校生ですか。懐かしいですね。私は高校を卒業して、実家の和菓子屋で働いていたのです。そこである女性に出会ったのです」
俺はその話を聞いてぎくりとした。
俺の場合は高校の同級生だが、彼女がまずその話をしてきたってことは、おそらく彼女も同じことを経験したんじゃないかって思えたからだ。
「私は一瞬で彼女の虜になった。まさに一目惚れってやつです。彼女がどんな人なのか良く知りもせずに。今から考えてみれば軽薄この上なかった」
彼女はその後、この世界で三十年くらいは生きてきたはずだ。
きっともう昔の思い出って感じなのだろう。
「そして女神に会ったのですね? 不思議な空間に囚われて」
俺の問い掛けに彼女は頷きを返した。
俺はもう、そう訊かずにはいられなかったのだ。
「ええ。彼女は勇者に滅ぼされれば私を元の世界へ戻してくれると告げました。その程度のことなら簡単だと私は考えたのですが……」
「俺も同じです。でも、まさか勇者に滅ぼされるための条件があんなものだなんて……」
俺の言葉に彼女は目を瞑り「同感です」と答えた。
「じゃあ。俺もクリィマさんも間違ってこの世界へ連れて来られたわけではなかったのですか?」
俺が「クリィマさん」と呼び掛けたことにだろう。彼女は苦笑いを浮かべた。
「そうですね。私はもう『クリィマ』です。でも、できればアリスさんには私のようにはなってほしくないですね」
そう前置きした後、
「私の場合は間違ってなのだと思います。少なくともあの女神の思っていたとおりにはならなかった。それは間違いないと思うのです」
クリィマさんは俺と出会ってから、ずっとそう考えてきたのだと言った。
そうでないとこの五十年、魔人が現れていないこととの整合性が取れないのだと。
「じゃあ。やっぱり俺もクリィマ……庫裏間さんも魔人なんですね?」
彼女の言ったことはそういうことだと思ったのだが、彼女は頭を横に振った。
「いいえ。そうでないから、このところの異変が起きているのだと思うのです」
俺の希望的観測を彼女は否定してそう続けた。
「あの女神、モントリフィトは私たちが簡単に魔人になると思っていたのでしょう。自分の世界の善良な人間ではなく、邪な考えを持つ異世界の人間なら」
そしてその餌が元の世界への帰還だと、彼女はそう考えているのだと言った。
「ですが私にはどうしてもそんなことはできなかった。最初のうちはずっと思っていましたよ。元の世界へ帰りたいと。だって、あの世界には家族も、そしてあの人もいたのですから」
「えっ。では、今はもう?」
言われてみれば彼女はもう三十年以上の間、この世界にとどまっている。
本当に帰る気があれば、とっくに帰っているはずだ。
「ええ。私はこの世界に長く居過ぎました。そしてこの世界で生きて行く方法も覚えてしまった。神から特定の役割の与えられていない私は、日々を無為に過ごしていれば良いのだとね」
彼女はこの世界へ来てから、オーヴェン王国の宰相にまで上り詰めたのだ。
そのためにした努力は並大抵のものではなかったのだろう。
「魔人の情報は厳しく隠されています。最初はそれになる方法を知ろうと必死でした。そしてそれらしい手掛かりを得て、それを実証するために、あの国であんな改革を行ったのです」
俺は彼女の言っていることが今一つ理解できなかった。
魔人になるための手掛かりなんて、彼女はこれまで教えてくれなかったはずだ。
「そこまで分かっているのに、どうして今回の旅が必要だったのですか? 俺のためですか?」
彼女は魔人の事跡を訪ねることで、魔人になる方法を知ることができると思って、今回の旅を企図したのではなかったのだろうか?
「本当のところは分かっていないのです。だって私を見てください。魔人になる方法が分かっていたのなら私はとっくに魔人になっているはずです」
彼女はいつもの澄ました顔で、俺にそう告げた。
では彼女が得た手掛かりは間違っていたのだろうか?
「その手掛かりって何だったのですか?」
俺の問いに、彼女は素直に答えをくれた。
「新しい何かを行うことです。この世界を変化させようとする意思。それがトリガーになっていると私は推測したのです。アリスさんもそうは思いませんか?」
言われてみれば魔人となったシシの隣人であったスニさんは、シシが金属に文字を刻んだりする細かな技術を編み出したと教えてくれていた。
そして、リールさんも幼馴染だったイリアが、建築家としてより多くの町の人の期待に応えようと、手早く簡単に家を建てるという想いを実現したらしいと言っていた。
魔人となった二人ともが、この世界に何か変化を起こす萌芽を生み出している。
「じゃあ。どうしてクリィマさんは……」
俺の問いに、今度は彼女は首を振った。
「分かりません。それは私がこれまでに魔人となった人たちとは別種の者だからではないかと思います。これまでの魔人は元々この世界の人だったようですからね。そして、私はあのモントリフィトの言葉で、それを確信したのです。だってあれはプレセイラさんの口を借りて言っていたではないですか。魔人は『変化と進歩、促進と改革を司る破壊者』だと」
そうだ。そして勇者はその反対の「維持と調和、秩序と伝統の守護者」だとプレセイラさんに降臨したモントリフィトは言っていた。
この世界では変化は悪なのだ。
完全なこの世界では伝統的な秩序の維持こそが正しいことで、それを破ろうとする試みはすべて邪悪な魔人の司るもののようだった。
「もう良いかの?」
そう言って俺たちが話している部屋へやって来たのはミーモさんだった。
「ああ。そうですね。もういいんじゃないですか?」
クリィマさんはこれまでの真剣な表情が嘘のように、いつもの何となく軽薄な感じのする話し方に戻っていた。
俺はてっきり、話の邪魔をしに来るのならやっぱりプレセイラさんなのかなと思っていたが、違ったようだ。
「そうか。何だか思い詰めているようで、心配しての。勇者殿は吹っ切れたといった様子だったのに、二人はそうでもなさそうだと思ったのじゃ」
ミーモさんは照れくさそうにそんなことを言った。
彼女の言葉どおり、俺はかなり思い詰めていた。
この機会を逃したら、もう次はないと思うくらいに。
「そうですね。私は信仰心があまりないので、リールのようにはなれないのです。まあ、やはり魔人に近いのかもしれませんね」
クリィマさんの返事にミーモさんはさすがに驚いていた。
相手がプレセイラさんだったら、ただでは済まない内容だろう。
「二人で何を相談していたのかの? もし私で役に立つことがあるのなら遠慮なく教えてほしいの。これまで生きてきて、こんな刺激的な旅は初めてなの」
ミーモさんの表情からは、本当に俺たちのことを心配してくれているのが分かる。
やはりこの世界の人たちは優しく善良な人ばかりなのだ。
「大丈夫です。アリスさんの望みが叶うと良いなって、そんな話をしていたのです。もしそれが叶うのなら、私も力を貸したいなと思っているのです」
クリィマさん、適当に誤魔化しているなと俺は思った。
俺一人だったら、きっとミーモさんに、
「もう少し二人きりで話したいですから、遠慮してもらえますか?」
そうお願いしていたかもしれない。
モルティ湖に行って、じゃあ具体的にどうするのかなんて話はまったくできていないのだ。
「モントリフィト様が解決策をご用意してくださるそうですから。それに期待しましょう」
さっきは信仰心が薄いからって口にしていたのに、クリィマさんは今度はそうミーモさんに言っていた。
そして、その言葉は俺に聞かせるようでもあった。
「残りの話は明日の馬車の中で良いでしょう。もう隠しても仕方ありませんし、理解してもらえなくても問題ありません。リールにはきっと分かるでしょうし、私とアリスさんの三人の間でその解決策とやらを進めるしかないでしょうから」
クリィマさんはミーモさんに誘われて、皆の待つ大部屋へと向かう間に、俺にそんなことを言ってきた。
ここまで旅を続けてきて結局、魔人になる方法を見つけることはできなかった。
それにたとえ魔人になったとて、勇者であるリールさんはもう魔人を滅ぼしたくないと言っている。
だが、それも明日、モルティ湖に行けば、何らかの方針が示されるはずだ。
そしてリールさんはそれに従い、俺とクリィマさんがどうなるかも決まる。
そう考えると今夜は簡単には寝付けないのではないか。
俺はそう思っていた。