「一生かけて、君を守る」と口にする王子に対し、私は「嘘つき」と言いたかった。【連載版】

4話 二人の王子と一人の少女

　――私の生涯に、意味なんて無かった。

　――それならせめて、私の生きた証を記録に残す。

　――受け取った過去の私の糧になると、信じて。

　再編された未来のレコードは、そう締めくくられていました。奪われたひと月の余命と引き換えにして。

　未来は変えられる。

　それがわかっただけ前進したとも言えます。

　後はひたすら突き進むだけ、この終焉へ続く道を。

　今日のレコードはこう記されています。

　――夜会で第一王子殿下からダンスのお誘いを受けました。

　殿下から誘いを受ける。

　それはつまり、少なからず殿下にとって重要な人物であることを意味しています。

　いっそ、夜会の参加を見送ってしまいましょうか。

　ですが、いつまで？

　殿下が出席なさるパーティには参加しない？

　それとも殿下が運命の相手と出会うまで？

　いいえ、夜会は貴族社会の縮図です。

　情報交換に手回し、人脈の形成。

　それらを蔑ろにした先に待ち構えるのは、また別の破滅の未来。

　逃げ場なんてどこにも無い。

（……勝手ね）

　ごとごと揺れる馬車の窓から、曇天広がる、窮屈そうな空を眺めていました。

　思い描くのは私の行く末。

　未来のレコードは、婚約を無理に押し付けておきながら、ぽっと出の男爵令嬢にあっさりと心移りする殿下のことを記していました。

　――信じたのに。

　――一緒に未来を生きようって、言ってくれたのに。

　ぐちゃぐちゃに書きなぐったような記録からは、私の感情が透けて見えるようでした。

　――彼女の胸元には、殿下が助けたという、幸せそうな子犬の笑顔。

　――私の居場所はどこにも無い。

「旦那様、しばし休憩といたしましょう」

「そうだね。もう、走り続けて長くなる」

　爺やとお父様の声がして、思考の海から意識を引き上げると、目の前には湖畔が広がっていました。

「アイリスも長旅で疲れただろう。一緒に風にあたりに行こうか」

　先に立ち上がったお父様が、私に手を差し伸べてくださります。いっそこのまま、どこか遠くへ連れ出してくだされば、なんて考えてしまうのは傲慢なことなのでしょうか。

「はい、お父様」

　期待もしていない期待を抱き、お父様と一緒に馬車を下りました。湖畔には波一つなく、まるで鏡で空を切り取ったように澄んでいます。

　その円弧の一端からは中央に向かって桟橋が架かっていて、幾名かの男女が水面をのぞいていました。

　見ればその桟橋の近くには、行商が使うようなタイプの馬車と、水を飲む馬がいるとわかります。

　彼らはきっと、どんな国だろうと自由に渡り歩けるのでしょう。自分の意志で、気の向くままに。

「アイリス、大丈夫かい？」

「え？」

「心ここにあらず、って感じだったよ」

　……お父様は、私のことなら何でもお見通しなのでしょうか。いえ、お父様にも、私の未来は分かりませんね。

　私だけが知っている。

　私の未来を、報われる事の無い結末を。

　誰に打ち明けることもできず、胸の内に秘めて。

「いえ、ただ、日差しが翳(かげ)ってきたと」

「……そうだね。馬車に戻ろうか」

「はい――」

　馬車に向き直ろうとして、すぐにまた、湖に向き直りました。輪転する視界に、嫌な光景を見た気がしたからです。

　ついで、どぼんと、相応の質量を有する何かが水に落ちたような音が、山間のこの地に響き渡りました。

『きゃあああぁぁぁっ！

　あがっ、ぶぐ、だず、げ――』

『だ、誰か！　誰か助けてください！　連れが湖に落ちてしまったんです!!　どなたか、どなたか、泳げる方は――』

　空気を引き裂く金切声。広がるしぶき、波紋。

　騒めく湖で、一人の少女がもがき苦しんでいるのが目に入りました。その様子が、どうしようもなく、自分自身と重なって――

「お父様、困ったときは頼れとおっしゃいましたよね」

「あ、ああ。だがアイリス、何をする気だ」

　瞬きを一つ。

　私は静かに微笑みました。

「アイリス!?　待ちなさい！　アイリス!!」

　駆けた、凛とした空気を引き裂いて、桟橋へ。

　傍観者たちの目はみんなよく似ていました。

　誰か助けに行けよ。

　どうして誰も助けに行かないんだ。

　無言を貫く彼らの顔色からは、そんな本心がありありと伝わってきます。

『誰か……っ』

　泣きじゃくる男子の横を走り抜けて、湖に飛び込みました。水面を突き破る衝撃を覚えながら、足掻き続ける少女の手足の隙間を縫って、泳ぎ寄りました。

『あがっ、ごぶっ』

「大丈夫、落ち着いて。私に捕まって。そう、いい子よ。ゆっくり桟橋に向かうからね」

『あぐ、ひぐっ、ううっ、ああああ……ありがどう、ありがどうございばず!!』

　人一人の重さが加わったうえに、ドレスは水を吸ってその重量を声高に叫んでいます。締め上げたコルセットのおかげで体が思うように動きません。

（……まずいかもしれませんね）

　水をかいて、どうにか桟橋まで戻ることはできそうです。しかし、そのあと少女を桟橋に押し上げるだけの余力があるかどうか。

（彼女を、持ち上げるだけの力はありません。かと言って、湖の淵まで泳ぐ体力も……。引き上げてもらうしかありませんね）

　ちらと桟橋を見れば、助けを求めていた男子は未だ泣きじゃくるばかり。この子を助けようという気概はまるで感じられません。

　こんな相手に、縋らなければいけない。

　情けないな……。

「つかまれ！」

「……え？」

「どうした、早くしろ！　溺れたいのか？」

　声がして、顔を上げました。

　そこには、私と同い年くらいの男性が立っていました。

　その手を、私は無我夢中で取りました。

　ついで、グイと体が持ち上げられる感覚がやってきて、気づけば桟橋に打ち上げられていました。

　びしゃびしゃに濡れた衣服、水の滴る髪。

　どくどくと生きているを叫ぶ心臓と、体をめぐる血を感じながら、私は私を引き上げてくれた彼に礼を言うべく、改めて向き直りました。

「おかげで助かりました。この度は――」

　そして、気づきました。

「うん？　どうした？　僕の顔に何かついているかな？」

「え、いえ、その……」

　私が、気安く声をかけて良い相手ではなかったことに。そんな私に、彼は満足げに、悪戯の成功した子供のように笑みを浮かべて、こう言いました。

「おっと、名乗りが遅れました。スヴァルト・アルフ・イージスラシュと申します。以後、お見知りおきを」

「……第二王子殿下」

　どうしてここにいる。

　そんな疑問が先に口からこぼれて、慌てて頭を下げました。

「このような姿で申し訳ございません。アイリス・ヴィ・イザナリアと申します」

「いやいや、民のために自らを省みず危険に飛び込む。アイリス様は気高く美しいですよ」

「……そのようなことは決して」

　もちろん、彼女を助けたいという気持ちが無かったわけではありません。ですが、純粋な善意だけからなる行動かと聞かれれば、私は否定します。

（衣装が台無し。これでは今日の夜会は無理ね）

　そうすると今度は、第一王子殿下にダンスを申し込まれる未来を先送りにできます。

　そして私が動いた理由は、この打算的な部分によるものが大きいと、私は自分で評価しました。

　それに、なにより。

　きっと救いたかったのは、溺れる彼女ではなく、そこに重ねた私の幻影で――

「そう自らを卑下するものではない。そう思うだろ？　スヴァルト」

　がばり、と。

　私は体ごと声の主の方を見ました。

　そこに、男が立っていました。

　目を見開く。

　ふざけるなと叫びたくなる。

　どうして、あなたがここにいる。

　いえ、最初に思い至るべきでした。

　第二王子であるスヴァルト殿下がこの場にいらっしゃる時点で、彼がここにいてもおかしくはありません。

「今回ばかりは、兄上と同意見かな」

　その、男は。

「お初にお目にかかります。アルフレッド・ヘイム・イージスラシュと申します」

　第一王子殿下。

　私の、未来の婚約者だった。

「……アイリス・ヴィ・イザナリアと申します」

「アイリス嬢、君の民を思う心を私は尊敬する。私のそばで、私を支えてほしいと思う」

　どうして、こうなる。

　私が運命に抗おうとしたから？

　決められたレールを外れようとするから、歴史が歪みを修正しようとしているの？

　口の中に、鉄の味が広がった。

　ふざけるな。

　私は、運命(おまえ)のおもちゃじゃない！

「どうかな？　アイリス嬢？」

「大変ありがたい言葉ではありますが……」

　彼の言葉の意味するところは分かっている。

　パートナーとして、ともに国を支え、生涯をそばで歩んでくれという願い。

　それは、婚約の申し出。

　そんなこと、わかっています。

　ですから、私は。

「では、もし私より無垢なご令嬢が現れれば、あなたは私を捨てますか？」

　彼の問いかけに、問いをもって答えとしました。

「それは」

　彼が答えに困窮するのを見ました。

　少しばかり、溜飲が下がる思いです。

「いずれ答えが出ましたら教えてくださいませ」

　空に広がる曇天が、雨の匂いに湿った。