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風呂から上がって、リビングにて。
日が沈むか沈まないかといった時間帯。そろそろ夕飯の準備をする時間帯でもあった。
ラピスは夕飯を作ろうと、けほけほと噎せながら台所に立つ。もちろんマスク代わりのハンカチは着用済みだ。
今日はなんだかおかしい。
リリィの魔法は効かないし、風呂上がりの温かさも妙に長く続く。それでいてたまに寒気もするのだから手に負えない。
まるで風邪の症状のようだった。
だがラピスはそうは考えない。
なぜならリリィの、肉体の最適化魔法をかけてもらったからだ。
月のものすら来なくなるのだから、風邪なんて引くわけがない。ラピスはそう思い込んでしまったのだ。
冷蔵庫から食材を出して、包丁を握る。
食材に包丁の刃を当てて──
「…………あれ?」
上手く力が入らず、その場にくずおれてしまう。包丁がカランと音を立てて落ちた。
「ラピス!」
「姉さま!」
血相を変えて二人が駆け寄ってくる。
なにをそんなに心配してるんだろう? ぼんやりとした頭で、ラピスはそんなことを考えた。
「ラピス! しっかりして!」
「っ! 凄い熱ですわ。リリィ義姉さま。ベッドまで運びましょう」
「わ、わかったわ!」
大げさだなァ、とどこか他人事のように考えながら、ラピスは運ばれていく。
ベッドに寝かされ、布団もかけられた。
「あう、ラ、ラピス。熱が、あ、えっと」
「落ち着いてくださいまし」
テンパるリリィをセラが宥める。
「姉さまの近くで騒いでは迷惑です。そちらの隅で話しましょう」
「わ、わかったわ」
幾分かリリィも落ち着いてきた。
腰を据えて、話を聞く姿勢を作る。
「まず、姉さまが高熱を出してしまいました。どんな病気かはわかりませんが、風邪かと思われますわ」
「え、ええ。あたしの魔法がある限り、風邪以外の病気には罹らないわ」
「? なんで風邪だけはひきますの?」
リリィは顎に手を当てて説明する。
「この魔法はあたしの主観に依存するんだけど、あたしは風邪を異常と認識できないの。だって、生きてれば風邪くらいひくでしょ?」
「そおですわね」
「でも他の病気──例えば癌なんかは明らかに異常よね。理由の説明が要らないくらいに」
「はい。それもわかりますわ」
「で。この魔法は、その“異常”を排除して身体を普通の状態に戻す魔法なの」
「なるほど。リリィ義姉さまが風邪を普通だと認識している限り、魔法で風邪は治せないと」
セラは難しい面持ちで唸った。だが同時に、ただの風邪ならば、最悪の事態にはならないと安心もしていた。
だからだろうか。あることに気づく。
「あら? でもその理論でいくとリリィ義姉さま、月のものを異常と認識していることになりますが?」
セラの認識では月のものは異常ではない。生物が生きていく上で、絶対に必要な機能だ。
だがリリィはあっけらかんと言う。
「だってあたし、女の子が好きだもの。女同士じゃ、子供は作れないでしょ?」
セラはなるほどと頷いた。確かに百合であるリリィからすれば、月のものは異常に映るだろう。
納得したところでこれからのことを考える。
「風邪でしたら、お医者さまに診せる必要もありませんわね。お薬はありまして?」
「…………ないと思う」
「では買ってきてくださいまし。……念のため訊きますが、リリィ義姉さま、看病の心得とかありませんわよね?」
「ないわよ」
「はい。知ってました」
困りましたわね、と腕を組むセラ。
なにを隠そう、彼女にも看病の経験などないのだ。
脇や首などの大きな血管が集まっているところを冷やすくらいは知っているが、なにで冷やせばいいかわからない。
汗を拭けばいいことも知っているが、なにで拭けばいいのかもわからない。
つまり、唯一看病の心得がある人物が寝込んでしまったことになる。頭をかかえるしかない案件だ。
だがセラは唐突に閃く。
「そうですわ! ホルンさんを頼りましょう!」
言うや否や、セラはラピスの部屋に駆けていく。門手鏡は彼女の部屋にあるのだ。
とって返して寝室に戻り、手紙を書く。さっきリリィも手紙を送っていたので、すぐに返事があるだろう。
そう思って手紙を送ると、1分もせずに返事が来た。
ただ一言、『すぐ行くッス』と。
更に1分後、別の手紙が来た。
『部屋を暖かくしてください。あと、乾燥は大敵ッス』
そのアドバイスに従い、リリィが魔法で部屋を暖めて、湿度も少し上げた。
2分後。またも別の手紙が届く。
『清潔な布を濡らしてよく絞って、汗を拭いてあげてください。首の辺りと腋は入念にッス』
セラは洗濯したばかりのタオルと、水を張った洗面器を持ってくる。タオルを濡らしてよく絞り、ラピスの服を脱がせて汗を拭いてあげた。
再び服を着せて、ベッドに横たえる。荒かった息は、幾分か落ち着いていた。
次はなにをすればいいかわからず、ただただラピスを見守っていると、やがて次の手紙が届いた。すかさず中身を検める。
『ラピスさまが眠っているのなら、そのまま見守っていてください。同じ部屋にいるんなら、口元を清潔な布で覆ったほうがいいッス。お掃除のとき、ラピスさまがやってるあれッス。もしラピスさまが起きてきたら、水分をしっかり摂らせてください。よろしくお願いするッス』
ホルンの手紙は、今のリリィとセラにとって啓示にも等しかった。
口元を大きめのハンカチで覆い、水差しにたっぷりの水を用意する。ラピスはまだ寝ているので、起こさないように見守った。
それから3時間強。
1度だけ目を覚ましたラピスに水差しで水を飲ませ、それ以外はなにごともなくすぎた。
そして──
「──お待たせしたッス! セラフィさま、リリィさま!」
そんな声とともにホルンが部屋に入ってきた。手には救急箱と見られるものを持って、既に口元はハンカチで覆っている。
「さ、あとはウチに任せてください。あと、タイミング的に夕飯を食べてないと思ったんで、下に簡単に用意してあるッス」
「ありがとうですわ、ホルンさん」
「ありがとう、ホルンちゃん」
二人は礼を言って、部屋を出た。ホルンに任せておけばもうだいじょうぶだと、彼女を信頼して。
後には穏やかな表情で眠るラピスと、心配そうな、それでいて心苦しそうなホルンが残された。




