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3人はお暇することにした。
今から帰ると着くのは深夜になってしまうが仕方ない。
いかにアイリスが赦せないことをしたとはいえ、彼女たちは初々しいカップル。その蜜月を邪魔する気は、ラピスにもセラにもなかった。
無論、アイリスがまた無礼をはたらけば、その限りではないが。
「あ、忘れてた。──はいホルン。これあげる♪」
「? なんスか? これ」
「ヘアブラシだよ。耳が痛くないよう、ちゃんと柔らかいやつ選んだから、よかったら使って」
「わァ! ありがとうッス! 大事に使うッス!」
そのやり取りを見て、アイリスは愕然とする。
ホルンには今まで、我が家の普通のヘアブラシを使ってもらっていた。毛先も、決して柔らかくはない。
痛いのを我慢して使っていたか、使わずに手櫛でなんとかしていたのか、それはわからないが、窮屈な思いをさせてしまっていたことは間違いない。
アイリスは改めて、己の至らなさを自覚した。
「……ラピスさん。セラフィさん」
畏まって二人の名を呼ぶ。
姉妹は怪訝そうにアイリスを見た。
「……自分が間違っていました。これからはこんなことがないよう、鋭意努力していきます。また間違うこともあるかもしれませんが、その際はなにとぞ、ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いします」
アイリスは正座して、床に手をついて頭を下げた。東の島国で最上級の敬意と謝意を示す行為、土下座だった。
ラピスとセラは目を丸くし、やがて微笑んで頷く。
「──頑張ってね」
「──頑張ってくださいまし」
二人はそれだけ言って、小屋を出た。
後にはリリィだけが残される。
「あー……。……あたしもまだ勉強中の身だからあんま偉そうなことは言えないんだけど、気負っちゃダメよ? あくまで自然体で、好きだなァ、幸せだなァ、って思えるのが一番いいと思うわ。多分ね」
「……ご教授痛み入ります」
「ありがとうッス」
そしてリリィも小屋を出る。しかしその直前で──
「そうそう。言い忘れてたけど、餞別としてこの小屋に、適温化の魔法陣を刻んでおいたわ。どんなに暑くても、スキンシップに支障はないわよ♪」
と言い残して、今度こそ小屋を出た。
空飛ぶ絨毯が風を切って飛んでいく音を聞いて、彼女たちは感慨にふける。
「どおッスか? 凄いでしょう? ウチの親友たちは」
「ああ。……いい主に巡り逢えたな」
「はい♪ ラピスさまは最高の主ッス」
「……なァホルン」
「なんスか?」
「自分に、君のことを教えてほしい」
「なにを知りたいんスか?」
「なんでもいい。どんなことでも知りたい」
「そおッスねェ……。ウチが孤児だってことは言いましたっけ?」
「なに? そうなのか? 初耳だ」
「じゃあお話しするッス。この思い出はウチの宝物なんス。アイリスさんだけ、特別ッスよ?」
ところ変わって空の上。
ラピスがセラをぎゅっと抱きしめ、そのラピスをリリィがぎゅっと抱きしめていた。
「締まらないわねェ。もう高い所に慣れてもいいんじゃない?」
「…………なれるもんじゃない」
「可愛いので、姉さまはこのままでいいんですわ」
移動中も──ラピス以外は──楽しく過ごす。最近は充実してない時間など、皆無といってもよかった。
──不意にリリィは、先程のラピスの台詞を思い出した。
『二人にとってなにがベストなのか、常に考え続けること。絶対に妥協はしちゃダメ』
自分は、できているだろうか?
不安になって、ラピスを抱く力を強める。
「…………どおしたの?」
気づいたラピスが問いかける。
リリィは隠さず、己の心情を吐露することにした。
「──あたしたちは、ちゃんとできてるかしら? 相手を想って、最善を考えて、妥協しないで……それができてるかな?」
「…………かんぺきじゃないよね」
ラピスは弱々しい声で答える。
……弱々しさの原因は高さによる恐怖だろうとは言ってはいけない。
「…………わたしたちもまだぜんぜんできてない」
「やっぱり……」
「…………でも、かんぺきをめざすことはできるよ」
「そうね。あたしたちも頑張らなきゃね」
「…………うん。…………リリィ、すきだよ」
「あたしも好きよ、ラピス」
リリィはラピスの髪に顔を埋め、ラピスは一層リリィに寄り添う。
相手を想い、相手に想われる。その努力を怠るつもりは、二人にはない。
このことを忘れない限り、彼女たちはだいじょうぶだ。末永く、それこそ永遠に、幸せに歩んでいってほしい。
そう、セラは心から思った。
我が家に着いたのは深夜だった。
そろそろ日付も変わろうかという時間帯だったが、汗をかいたので風呂には入りたい。
全員の希望が一致したので、着替えを持って風呂場に直行した。
服を脱いで浴室に入り、リリィは片手間に湯船を湯で満たす。今日は暑かったので、少しぬるめだ。
3人で互い違いに身体と髪を洗い合い、湯船に浸かる。
いつもは少し距離を置いて座るのだが、考えさせられる出来事があったので今日は3人で密着して浸かっている。
とろけそうな程幸せだ……というのが、3人の共通した感想だった。
ラピスの左腕を抱きながらセラは言う。
「姉さま。わたくしもちゃんと考えますわ」
「……相手を想い、ってやつ?」
「はい」
セラは真面目な顔で頷く。
「今までわたくしは、姉さまの優しさに甘えていたかもしれません。家事を丸投げしていたのがいい例ですわ」
「そんなことないよ。家事はわたしが好きでやってたんだし」
「それでもです。これからは今まで以上に姉さまを想い、姉さまに想われるよう努力致しますわ♪」
「えへへ。じゃあわたしも頑張らないとね」
はにかむラピス。そこで右腕に抱きついているリリィがボソッと呟いた。
「…………あたしも、家事を手伝ったほうが」
「絶対やめて!」
血相を変えてラピスは叫ぶ。なんなら土下座してお願いまでしそうな勢いだった。
そんなことがあった以外は平穏に時間が過ぎ、逆上せないうちに彼女たちは風呂から上がった。
魔法で髪を乾かして、寝室に直行する。既に日付は変わり、いい加減眠気も限界だ。
特にラピスは他の二人よりも早起きなので、こくりこくりと舟を漕いでいた。
「明かり消すわよ」
指先一つで操作できる照明の魔道具をリリィが消す。そこでラピスに限界が訪れ、ふらりと倒れてしまう。
リリィはそれに気づいたものの、ベッドに入ろうと腰を屈めたところだったのでうまく反応できず、結果、ラピスに押し倒されるようにベッドに沈んだ。
「……ああっ、リリィ義姉さま、羨ましいですわ!」
声を抑えて叫ぶセラ。地味に器用なことをする。
少し驚いたリリィだったが、セラの言うように美味しいシチュエーションだ。役得と割りきって、セラにラピスのルームシューズを脱がすよう頼む。
ジリジリと移動して、枕に頭を乗せる。ラピスはまるで掛け布団のように、リリィの上に綺麗に収まっていた。
「あの、リリィ義姉さま。わたくしも姉さまにくっつきたいです」
「ふふ、しょうがないわね」
ラピスの重みを感じられるこの体勢を手放すのは惜しいが、可愛い義妹の頼みだ。
リリィは少し身体を傾けて、ラピスの背中をセラに向ける。セラはその背中にぎゅっとくっついた。
正面からはリリィが、背中にはセラが、それぞれ密着する形になる。
もしラピスが起きていたら、幸せのあまりだらしない笑顔を浮かべたであろう。
リリィとセラは最愛の人を抱きしめながら、もう一人の大切な人に微笑んだ。
「おやすみ、セラちゃん」
「おやすみなさい、リリィ義姉さま」
そうして1日は終わった。
なんだかいい夢が視られそうな気がした。