2
少女が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
「──…知らない、天井だ……」
掠れた声で呟く。何故こんな台詞を吐いたのかはわからない。なにか大いなる強制力がはたらいたような気もするが、恐らく少女の気のせいであろう。
起き上がろうとしたが、身体中に激痛が走ったので断念する。代わりに首だけで室内を見回した。
最初は部屋かと思ったが、どうやら小屋と呼ぶのが正解かも知れない。自分が寝かされているベッドから、玄関と思しき扉やキッチンが一度に見渡せるし、なにより左右の壁に両方とも窓がある。間違いないだろう。
小屋の中は清潔に保たれており、整理整頓が行き届いていた。
しかし、パッと見渡すだけでなにに使うかわからない器具が何点かあったし、やたら分厚くて難しそうな本なども置いてあった。
「(魔女の小屋みたいだね……)」
魔女など物語の中にしか出てこないが、この小屋のイメージは完全にそれだった。
引き続き見える範囲のものを観察していると、外から足音が聞こえた。どうやら家主が帰って来たらしい。
玄関の扉が開けられ入ってきた人物を見て、少女は数秒呼吸を忘れた。
その人物が、息を呑むほどの美人だったのだ。
歳は20歳くらいだろうか。膝裏まで届きそうな長く美しい金髪に、肌理細かな白い肌、顔のパーツは計算されたかのように配置され、プロポーションも抜群だった。全身を黒でコーディネートした服は、あたかも魔女のようだったけど、それが不思議なくらいに似合っていた。
「──あ、よかった。目が覚めたのね」
美人が声をかけてきた。声まで美しい。まるで高価な楽器の音色のようだ。
「気分はどお?」
「……全身が痛いです……」
掠れた声で答える。と、美人が水差しを持ってきてくれた。身体が動かせないので寝たまま直接飲ませてもらう。
「……ありがとう、ございます」
「ふふ、どういたしまして。ところであなたのお名前は?」
「あ、すみません、名乗りもしないで。わたしはラピスと言います」
「そう、ラピスちゃんね。あたしはリリィ。よろしくね」
美人──リリィは優しげに微笑んだ。
「それでラピスちゃん、あなたのお家は? よければ送っていくわよ?」
「……すみません、お願いできますか? わたしの家は…………あれ?」
少女──ラピスは口どもる。意識しなくても言えるはずの情報が出てこない。
「家は…………。……思い、出せない……」
「………。これからいくつか質問するから答えてね」
それからリリィは質問を重ねた。
──この国の名前は? ──5×8はいくつ? ──大陸暦2655年に起きた大事件は? ──金と鉄、磁石にくっつくのは?
これらの質問にラピスは答えていく。
──アレキサンドライト王国。 ──40。 ──ジャスパー・ヴラディの大脱走。 ──鉄。
質問は続く。
──年齢は? ──家族構成は? ──子供のころ仲のよかった友達の名前は? ──初めて下着を着けたのはいつ?
ラピスは答える。
──わかりません。 ──わかりません。 ──……わかりません。 ──わかりま──え? ちょ、セクハラじゃないですか!
「……むゥ、ラピスちゃん、薄々わかっていたけど、逆行健忘──記憶喪失みたいね」
「……はい、薄々わかってました」
誰でも知っている一般常識は憶えているが、今までの自分がなにをしてきたか──所謂“思い出”がすっぽりと抜けている。典型的な逆行健忘の症例だった。
「まァ、自分の名前はわかってるみたいだから、他のこともすぐに思い出せるわよ。それまではここにいなさい。今日からラピスちゃんはうちの子だからね♪」
リリィは殊更に明るく言う。記憶を失っているラピスを不安にさせないようにする配慮だろう。そのことがわかったから彼女は温かな気持ちを抱いた。
迷惑になることはわかっているが、記憶を失っている上に、どういうわけか身体中が痛い。すぐに出て行くのは無理だろう。
「……すみません、しばらくご厄介になります……」
「ん! よろしくね♪」
こうしてなし崩し的に、ラピスはリリィの小屋に住むことになった。