18
リリィの小屋──否、リリィとラピスの小屋から数キロ地点。そこに漆雷獣──リンドブルムの棲む洞窟があった。
漆雷獣。
魔法も魔獣も存在しないとされるこの世界で、一際異彩を放つ幻獣の一角だ。
狼と熊を足して2で割ったような見た目をしていて、頭に1本、大きな角が生えている。全身を真っ黒な体毛で覆われており、その強靭な足腰は二足歩行を可能とする。
成体になると10メートルを超える体躯を誇り、頭に聳える漆黒の角からは雷を放出する。暴れさせれば手をつけられない暴君として君臨していた。
唯一の救いはその個体数が少ないこと。現在確認されているだけで、世界に7体しか存在していない。そのうちの1体がここ、アレキサンドライト王国の惑いの森にいた。
彼女──リンドブルムはまだ5000歳程の若い個体だったが、漆雷獣最強の地位を恣にしていた。
しかし、彼女に傲りは微塵もない。上には上がいると、その身を以て知っていたからだ。
遡ること約2000年。
先日最強の漆雷獣を下し、名実ともに王者となった後のリンドブルム。
当時彼女は荒れていた。
前最強の漆雷獣も、全力を出すことすらなく倒してしまった。最早自分の力を超えるものは、世界の各地で息を潜めている4体の龍王だけだと、本気でそう考えていた。
どんなに凶悪とされている猛獣だろうと一睨みで逃げ出し、どんなに屈強な軍隊も瞬時に潰走する。
彼女が傲り、そして、退屈さにイライラするのも無理からぬ話だった。
歴代最強とされる彼女だが、いつどこで襲われようと構わないわけではない。漆雷獣とて生物。眠ることもあるし食事だってする。そんなときに軍隊に襲われようものなら、負けはしないもののかすり傷くらいは負ってしまうかもしれない。なにより鬱陶しい。
なので彼女は、静かな地を求めて世界を駆け回っていた。
そして辿り着いたのが、アレキサンドライト王国の惑いの森だ。
王国の兵たちが遠くからこちらを窺っていたが、手を出されたわけでもないので放っておいた。
近くに龍王も漆雷獣も、他の幻獣もいない。食べるものには困らない。王国の兵が問題と言えば問題だが、軽く脅してやれば引っ込むだろう。彼女はそう考えて、寝床となる場所を探した。
しばらく探して、よさそうな場所に行き当たった。川が近く、拓けている。さらに、なぜかこの近くだと暑さを感じなかった。
ここにしようと彼女は決断する。しかし、それにはあまりにも邪魔な小屋が一つあった。
一息に壊してしまおうと、彼女は右腕を振りかざし、一気に小屋へと叩きつけた──
「困るわねェ、そんなことされちゃ。小さくてもあたしの城なんだから」
叩きつけたはずだった。しかし、右腕は小屋まで届いておらず、見えない空気の層のようなものに防がれている。どんなに力を込めても、その層を突破することはできなかった。
「あら? 漆雷獣じゃない。珍しいわね」
小屋から誰かが出てくる。
ふざけた格好をした女だった。
長い金髪を膝裏あたりまで伸ばしている。全身を黒い衣服で固め、頭には魔女がかぶるような帽子をかぶっていた。
「クガァアアアアア!!」
先程の不思議な現象はこの女の仕業だと、感覚的に悟った漆雷獣は、女を噛み殺そうとする。
が、それすらも空気の層のようなものに阻まれてしまった。
「もしかしてあなた、あたしに喧嘩を売ってるの?」
怒気を込められた言葉に、漆雷獣は瞬時に20メートル程後退する。本能が、この女は危険だと警鐘を鳴らしていた。
それは彼女が久しく味わっていなかった、恐怖の感情だった。
女が追撃をしかけてくる様子はない。そもそも、1度も攻撃をしてきていない。そのことと、自分は強いという傲りが、漆雷獣から撤退の二文字を奪ってしまった。
力を角に集中させる。女は動かない。
漆雷獣は内心でニヤリと嗤い、雷を放った。
勝った、と彼女は思った。だが次の瞬間目撃する。
無造作に手を振るだけで、自分の雷を霧散させる女を。
「……生意気ね」
──ゾクリ──
先程よりも怒気が込められた言葉。
ぞわりと、全身が総毛立つ。
喧嘩を売る相手を間違えた。あれは決して手を出していい者ではなかった。
さまざまな後悔が浮かんでは消える。
脳は必死に警鐘を鳴らしているのに、身体はまったく動かない。完全に、恐怖で手足がすくんでいた。
女が右手を宙に翳すと、不思議な光が円を描いた。そして、そこから数百数千の雷が漆雷獣に殺到する。
一発一発が自分の雷をはるかに上回る威力。それが数千。
漆雷獣は死を覚悟した。
いつの間にか閉じていた目を開けると、彼女はまだ生きていた。
反射的に周囲を確認すると、自分が立っている地面以外の全てが焼け爛れ、炭化している。
格の違いを見せつけられた気分だった。
「見逃してあげるわ。雑魚に興味はないの」
悠然と佇む女。
言葉の意味は理解できなかったが、命拾いしたことだけはわかった。
女の目を見る。自分のことなどなんの脅威にも感じていない、路傍の石でも見るような目をしていた。
戦闘力の差をまざまざと見せつけられ、彼女のプライドはズタズタだった。
だがそれと同時に、妙な高揚感も感じていた。
生まれて初めて負けた。それも圧倒的に。
恐怖心を抱くと共に、同じ対象に畏敬の念も感じていた。
気がつけば彼女は、女の前で仰向けになり腹を見せていた。俗に言う、降参のポーズである。
「降参……ということでいいのかしら」
怒気が消えたことに安心して、クルゥと鳴く。女は彼女に近づき、腹を撫でた。
「クルゥ、クルゥ」
「ふふ、可愛いわね。あなた、あたしのペットになる?」
なにかを訊いてくる女に、クルゥと返事をする。なにを訊かれているかはわからないが、悪いようにはならないと思ったのだ。
「そう。じゃあ名前をつけないとね。んー、ゲレゲレとトンヌラだったらどっちがいい?」
「グルゥ!?」
なんとなく、変な名前をつけられそうだったので、慌てて抗議した。
「い、いやなの? いい名前だと思うんだけど。んー、じゃあありきたりだけど、リンドブルムってどおかしら?」
「クルゥ♪」
「あ、気に入ったみたいね。よし、あなたはリンドブルムよ。よろしくね、リンちゃん♪」
漆雷獣──リンドブルムは、女──リリィのペットになった。
負けこそしたものの、今までの荒れた生活を一変させる転機となったこの出来事を、リンドブルムは生涯忘れることはない。