イップス
俺は、広島戦で鈴田誠也選手の頭に当ててしまった。それ以来、ボールを投げる事が怖くなってしまった。
ブルペンで投げても、腕を充分に振る事ができない。だから、ボールをコントロールする事もできない。
徐々に悪化して、キャッチボールも難しくなった。ついに、ボールを握るのも嫌になってしまった。
認めたくないが、俺は、イップスなのかもしれない……
とても練習に参加できる状況ではなくなった。俺は、塞ぎ込んでしまった……
妻は、そんな俺に対して何も言わなかった。それが余計に辛かった。
「もう俺に愛想が尽きただろう。さっさと、離婚でもしたらいい」
妻は、俺に強烈なビンタを見舞った。
「私を甘く見ないでよ! アンタと何年の付き合いだと思っているのよ。簡単に解放されると思ったら大間違いよ!」
妻の瞳は涙で曇っていた。
「私は、いつまでもどこまでも健一と一緒だよ。健一が居ないと生きていけないよ」
「巨人をクビになったら、2人でラーメン屋をやろう! 健一はラーメン好きでしょ?」
妻の強烈なビンタと優しい言葉が胸に突き刺さる。
しかし、現実は厳しくて、1ヶ月間はキャッチボールもできなかった。
やっぱり、俺はもう無理かもしれない。ラーメン屋をやる事を考えた方がいいかもしれない。でも、ラーメン屋も甘くはないよな……
ラーメンの事を考えていると、ある人物を思い出した。俺が、福岡遠征の時に立ち寄るラーメン屋の大将だ。この店の、豚骨ラーメンは最高に美味いんだ。
気分転換を兼ねて、はるばる福岡まで大将に会いに行った。大将は、俺が無名選手の頃から応援してくれている。試合も観に来てくれたりした。
俺は、いつもより緊張しながらラーメン屋に入った。
「いらっしゃい!」
聞き覚えがある大きな声で迎えてくれた。大将は、俺に気づいて、駆け寄ってくれた。
「前田さん、ずっと心配してましたよ。広島戦のデッドボールの事をスポーツ新聞で読みましたよ。大丈夫ですか?」
俺は、現状を大将に正直に話した。
大将は、ラーメンを作りながらも真剣に聞いてくれた。
「私は前田さんのピッチングが好きで、ずっと応援してきました。何よりも、打者に対していつも熱く、まっしぐらに向かっていく姿は最高でしたよ」
俺は力なく首を振った。
「ありがとうございます。でも今の俺には出来ませんよ」
大将の渾身の豚骨ラーメンが運ばれた。一口食べると、やっぱり美味いなぁ。
「大将のラーメンは本当に美味いですね。俺、大将に弟子入りして修行しようかなぁ」
冗談混じりに言った。
大将は、笑いながら、
「それも良いですね。でもね、前田さん。私がこの一杯のラーメンを作る為にどれほどの仕事をやっているかご存知ですか?」
「私は、毎日午前3時に起きて仕込みをやります。それからほとんど休憩なしで働きます。睡眠時間は、多くて四時間ぐらいですよ」
最高の一杯を生み出すために、大将は、とんでもない努力を重ねているんだ。
「前田さんも、血の滲むような日々を重ねてプロ野球選手になったんでしょ。だから、一軍で投げるピッチャーになれたんですよね」
「もう一度だけでもいいから、私にも前田さんの夢を共有させてもらえませんか?」
大将は、俺の夢を共有してくれるのか?
「それでも、無理だったら、前田さんの弟子入りを認めますよ。ラーメンを一から叩き込みますよ!」
大将は、さらに大きな声で笑った。
俺は、豚骨ラーメンとチャーハンを食べた。
「大将、ごちそうさまでした。俺にできるか分かりませんが、やってみます。俺の死に場所は、マウンドの上です!」
俺は、東京に戻って体を動かし始めた。
野球のボールを投げるのは難しい。
じゃあ、どうしよう?
ふと見ると、ラグビーボールがあった。これを投げてみようか。
投げ方は、よく分からないが、とにかく投げてみる。
おっ、投げられるぞ。
よしっ、形はどうでも良いからドンドン投げよう。
ちゃんと、真っ直ぐに投げられるじゃないか!キャッチボールもできなかった俺が投げられた!
ラグビーボールを投げられた事がこんなにも嬉しいなんて。
冷静に考えてみた。
試合で野球のボールを投げる時は、当然色々考えながら投げる。どうやって打者を抑えようか? 打者に当てたら申し訳ないなぁ とかね。
でも、ラグビーボールは投げ方もよく分からないから、何も考えずに投げる。それで投げられた。
つまり、無意識の極意だ。これを極めるんだ。
俺は、ひたすらラグビーボールを投げまくった。俺は、子どもの頃からスポーツは野球のみだった。だから、ラグビーボールを投げるのは新鮮でとても楽しかった。
ずいぶん昔に、野球を始めた頃のワクワク感を思い出した。いつの間にか忘れていた感覚が戻ってきた。
投げたい、俺はやっぱり野球がやりたい!
誰かとキャッチボールやりたくなってきた。ふと見渡すと、巨人のレプリカユニフォームを着た妻が立っていた。
「そろそろ、私の出番ね。準備オッケーよ!」
俺は何も言ってないけど……
やっぱり妻は世界一の女性だ!
俺は、ゆっくりと投げ始める。俺の手には野球ボールがあるが、ラグビーボールを投げているように、無意識の極意でやるんだ。
何も考えずに、ただ楽しくボールを投げる。妻と2人でキャッチボールデートするんだ。




