トミージョン手術
俺は、右腕の靱帯断裂によって戦線を離脱することになった。
俺は、20代後半で巨人に入団して2年目のシーズンだ。つまり、若くもなく一軍の実績もない俺にとって、長期に渡るケガは致命的だ。
トミージョン手術を受ける事を決めたけど、内心は不安で一杯だ。
俺のファン第一号になってくれた少年に会いに行った。この少年は、目が不自由なのだが、以前に会った時に俺のファンになってくれた。二軍の試合で初勝利を挙げた時のウイニングボールをプレゼントしたんだ。
「こんにちは、巨人の前田だよ」
俺は、少年の家にお邪魔させてもらった。
「わぁ〜、ホントに来てくれたんだね。ありがとう、前田さん」
少年は、嬉しそうに待っていてくれた。
「僕知っているよ。前田さんケガをしちゃったんだよね。ラジオで巨人対広島を聞いていたんだ。大丈夫なの?」
「う〜ん、あまり大丈夫じゃないな。肘をケガしたんだよ。しばらく投げられないよ」
少年は、悲しそうだった。
「そうなんだね…… でも、治るんだよね?」
俺は、即答できなかった。
「僕は、目が見えないからラジオで野球を聞くのが一番楽しみなんだ。前田さんがラジオから消えてしまうのは寂しいな。僕は、可能なら東京ドームに行って前田さんの音を聞きたいって思っているよ。だから、諦めないでよ」
ありがとう、少年。だけど、今の俺には、君の気持ちは重いかもしれない……
俺の音か……
少年は、自分が大変な状況なのに、前向きに生きようとしていた。俺が投げるボールの音を聞きたいはずだ。
聞かせたい。
でも、今の俺にはできない……
少年を訪ねたのは、彼に会ったら、俺の気持ちが上向く事を期待したからだ。
でも、ダメだった。
ゴメンよ、少年……
ある日、雑誌の記事を読んだ。元巨人の桑田投手の記事だった。
俺は、桑田投手に憧れていた。
俺は巨人のユニフォームを着て、背番号18を付けたいと思っていたのは、桑田投手に憧れていたからだ。
桑田さんは、トミージョン手術を過去に受けていた。その後、リハビリを経て見事に復活したんだ。
俺は、そんな姿がカッコ良くて憧れた。
そうだよな。昔、俺が桑田さんに憧れたように、今度は俺が復活して誰かの憧れになるんだ。
俺は、少年に電話した。
「俺は、手術して必ず復活するよ。時間はかかるけど待っていてくれよ」
「うん! 僕にとって前田さんは希望なんだよ。僕の見えない目に夢を見させてよ」
少年の熱い思いが、俺のココロに響いた。
少年と親友黒田、2人の見えない目にハッキリと夢を見させてやりたい。
手術は無事に終わった。
右腕には生々しい傷跡が残った。これも、勲章だな。
しかし、ここから大変な道のりが始まる。
手術直後は、右腕に全く力が入らない。本当に大丈夫なのか?不安に包まれる。
箸を持つ事も一苦労だ。日常生活も不便な状態だ。
とにかく、リハビリが始まった。
最初は、グーとパーを繰り返す事からだ。
これがなかなか苦労した。当たり前のようにできていた事がこんなに難しいなんて……
あの少年や黒田は途中から視覚障害を抱えたから、当たり前に見えていた世界が当たり前じゃなくなったはずだ。
今更ながら、彼らの苦労が少しだけ分かった。彼らは、俺よりも何倍も大変な思いをしてきたはずだ。
俺が根をあげたらいけない。
グーパーがある程度できると、次は高速ジャンケンに挑戦だ。
相手は、妻だ。妻は何故か、覆面をかぶっている。
何故に、覆面?
「覆面レスラーみたいでしょ。健一が気分出るようにしたよ」
妻は、どんな時でも楽しみを忘れない。しかし、覆面レスラーとジャンケンしてもあまり気分は変わらなかった。俺は、プロレスファンではない……
リハビリは、我慢の連続だ。早く治したいから、気持ちが焦ってペースを上げたらダメだ。一定のペースで地味なトレーニングを続ける。
手術から2ヶ月が経った。この頃から、肘の可動域の訓練を行う。少しずつ、肘の可動域を広げながら訓練していく。
ようやく、肘が少しずつ動くようになってきた。日常生活にも支障が減ってきた。もちろん、ボールを使う訓練はまだまだ出来ないが、小さな希望の灯火が見えるようになってきた。
俺は、復活できるかもしれない……
と思った翌日は肘の調子が悪かったりして、一進一退の日々だ。
肘の可動域訓練と並行して、患部以外のトレーニングを行った。股関節を柔軟にしたり体幹機能の訓練が続く。
投げれないので、下半身強化トレーニングにも多くの時間を割いた。
とにかく走った。いつかこの地道なトレーニングが財産になると信じた。
しかし、野球ボールを使った練習が一切できないのが辛い。
これほど長く野球ができないの初めてだ。プロ野球中継を観るのも嫌だった。球場で躍動する選手をテレビ越しに見ると、悔しくてたまらなくなる。
そんな時は、桑田投手が巨人で復活登板した試合のビデオを観た。俺の精神状態は、細い平均台の上を歩いているように、危なっかしく、ヨロヨロしながら前に進んでいた。
ある日、突然、俺の携帯電話に意外な人から連絡がきた。
元巨人の背番号18、桑田さんだった。




