恩師の出張
俺は二軍に落ちてしまった。悔しいが、ここで腐るわけにはいかない。
一軍にいた時は、嬉しかったが毎日必死で余裕がなかった。目の前の試合の事だけで精一杯だった。登板が増えるにつれて疲労が溜まっていく中で自分を見失っていた。
打たれても、その試合の反省もできずに、すぐに次の試合がやってくる。ただ投げていただけだった。
二軍でしっかりやり直そう。
俺は、アマチュア時代は強豪チームにいたわけではなくて、緊張感のある試合が続く事は少なかった。疲労が溜まってきた時の対処法を分かっていなかった。
二軍では、疲労時の対処法も学びたい。
二軍でも、基本的には中継ぎを任された。
俺は、気持ちが入りすぎる時がある。そういう時は、たいてい失敗する。結局、帽子の裏に書いた「無欲」が一番いいな。
マウンドに上がる時は、気合を入れ過ぎずリラックスする事を心がけた。そうすると、登板が増えても冷静な気持ちで投げられた。
気持ちが落ち着くと、疲労も軽減された。何より精神の疲労が回復できた。
ピアノ療法も俺を楽にしてくれる事に役立った。ピアノを弾いている俺は、森の中の住人になる。
キラキラした森の中で、俺はピアノを弾いている。そこには、鳥やリスが俺の音を聞いている。
人間は誰もいない。いや、よく見ると、亡くなったはずの高校時代の恩師が笑っていた。
「前田、久しぶりだな。元気か?」
俺は、戸惑ながら言った。
「二軍に落ちましたが、俺は諦めていませんよ。何故、先生がいるんですか?お亡くなりになったはずでは?」
先生の頭上には、輪っかがあった。
「天国にいたら、お前の美しいピアノの音色に誘われたのさ」
「お前は、野球を頑張っていたけどピアノも上手かったよな。
お前の音を聞いてたら、お前の心が分かるよ」
「心の状態が良い時は、ピアノの音色がとても優しくて穏やかだな。ほら、鳥やリスも楽しく聞いてるぞ。」
いつのまにか、ピアノからボールを投げる音に変わった。
鳥やリスが顔をしかめた。
監督が言った。
「前田よ、二軍に落ちる寸前のお前のボールを投げる音だ。いやな音だろ?」
本当だ。とても聞いていられない。
ふぅーと深呼吸して、再びピアノを弾いた。
監督に笑顔が戻った。
「美しい音色だな。お前の音は、どこまでも暖かくて優しい。だから、天国にいた俺をここまで連れてきたんだ。お前が奏でるピアノの音色のように、お前のボールを投げる音を出してみろ」
監督、俺に会いに来てくれたんですか?
「お前のボールの音は誰よりもキレイだ。俺は天国で聞いてるよ」
いつのまにか、恩師はいなくなった。鳥やリスが俺を見つめていた。
俺は、そのまま森の中でピアノを弾いていた……
不思議な体験だった。
確かに恩師は、そこにいた。そして、俺の音を聞いてくれた。
そうだ。アマチュア時代に俺は壁にぶつかって悩んだ時は、親友黒田にボールを投げる音を聞いてもらって練習した。
黒田は、目が不自由だが、耳は凄かった。ボールの音で俺の調子が分かる。
恩師も生前ずっと練習に付き合ってくれたから、俺の音を聞いていた。
俺に教えようと、天国から出張してくれたんだな。
ありがとうございます。俺は、自分の投げるボールの音を聞いてみます。会話してみます。
ピアノを奏でるようなつもりで、優しく穏やかにボールの音を出しながら、打者を攻める。
これが俺の真骨頂だ。
この感覚を忘れない。俺だけの音だ。
黒田に、森の中の出来事を話した。
「お前が体験した事は、多分夢じゃないよ。先生は、お前のプロテスト合格を誰よりも楽しみにしていたよな」
「お前が巨人に入団してからも、ずっと天国でお前の投げるボールを聞いていたんだろうな。俺は、目が不自由だから耳で聞くしかなかったけど、先生はちゃんとお前の音を聞き分けられるんだな」
黒田は、最後に言った。
「お前の美しい音を俺と先生に聞かせるつもりで投げてくれよ」
俺は、音で打者と勝負するんだ。
試合でマウンドに上がる時は、多少ビビっていても、とにかく投げてボールの音を聞くと落ち着けた。無欲で投げる事もできた。
二軍の試合は、暑い時間帯に行われる事が多くて疲労も溜まってくる。
そんな時こそ、音を聞いてボールと会話しながら投げたら、ちょっとだけ楽しくなってきた。
久しぶりに一軍に呼んでもらえた。
「前田、もう二軍に帰ってくるなよ」
二軍のコーチが俺を送り出してくれた。
俺の心は静かで穏やかだった。
ちょうど、森の中でピアノを弾いていた時のようだった。
妻は、大喜びだった。
「健一、良かったね〜。苦しんでいた健一を見る事は辛かったよ。何もできなくごめんね」
妻よ、めずらしく、しおらしいな。
「私ね、フェラーリ欲しいって言ってだけど、それよりも健一の方が大事だよ」
おぉー、耳を疑う言葉だ!
「フェラーリいらないけど、BMWにしようかな。健一、頑張ってね」
俺は、国産車で充分なんだが……
とにかく、今度こそ一軍に定着するぞ!




