無欲
さあ、キャンプが始まった。
高橋由伸監督は、入団テストの時に俺の事を覚えてくれていた。
「お前は、入団テストで唯一の合格者だったな。闘争心に満ちたボールを覚えているよ。期待してるぞ」
俺は、大いに感激した。
広島カープの山田さんと自主トレーニングを充分に行ったつもりだが、キャンプは一段とキツかった。
そして、周りのレベルの高さに戸惑った。
俺は、ドラフト10位指名なので、もちろんキャンプは二軍スタートだ。
二軍といっても、一軍で実績のある選手もいるし、プロで指名されるヤツは何かしら才能があるはずだ。
ブルペンで他の投手と並んで投げるのが嫌だ。
俺より速いボールを見ると、俺もつられて必要以上に力が入ってしまう。コーチの視線を感じると、良いところを見せようとして、余計に上手くいかなくなる。
落ち着け、落ち着け、自分に言い聞かせようとすればするほど泥沼だ。
キャンプは、散々な出来だった。
俺を含めて新人選手による、障害を持った子どもが入所している施設の慰問が行われた。
野球が好きだが目が不自由な子どもがいた。親友の黒田と重なった。
その子は、明るかった。
「ボク、ラジオで野球を聞くのが大好きなんです。ラジオを聞きながら、想像するのが楽しいです。ラジオの向こうの投手が、どんなボールを投げているのかハッキリと分かるんです」
「だから、お兄さんのボールも想像したいです。活躍して、ラジオでたくさん登場して下さい」
でも、俺のボールは全然大したことないよ。ゴメンよ、少年。
「お兄さんの手は、何となく、凄いボールを投げそうな気がします。ファンになって良いですか?」
俺と握手した少年は、嬉しそうだった。
「ファンになってくれてありがとう。俺が、初勝利の時のウイニングボールは君にプレゼントするよ」
俺は、少年に伝えた。
まだ何も実績がない俺を応援してくれる少年がいる。
それなのに、俺は、同僚のボールやコーチの目ばかり気にしていた。
カッコよくなろうとしている俺がいた。しかし、全然カッコよくなかった。
俺は、気づいたんだ。
この少年は、何の損得感情なしに俺を応援してくれる。
これこそ、俺に足りないものだ。
いいカッコをしたいと考えている時点で俺は失格だ。
神様は、無欲な人間にこそ勝利をもたらすんだ。
カッコ悪くてもいいから、俺らしく、闘争心を込めて投げる。
余計な邪推を取り除くため、ボールをリリースする時に、あえて、キャッチャーを見ずに投げた。
元メジャーリーガーの岡島投手の投げ方を参考にした。
すると、不思議な事にキャッチャーを見ていないのに、コントロールが良くなった。ボールのキレも増した気がする。
俺のファンになってくれた少年のおかげだ。
散々だったキャンプが少しずつ好転してきた。
ある日、妻がキャンプを見にきた。妻が観客席にいる事が分かると少し気恥ずかしくなってきた。巨人のユニフォームを着て、野球をやる姿を見せるのは初めてだ。
しかし、何かおかしい。いつも、賑やかな妻が静かだ。妻なりに、かなり気持ちが入っているのかと思っていたが、後で聞いたらお腹が痛かったらしい……
妻が見ていると、いつもはカッコつけようとしてしまうが、今日は違った。ファンの少年に教わったように、俺は無欲なんだ。
俺は、少しだけ気持ちが楽になった。
紅白戦でも投げたが、やはり甘くなかった。それでも、焦る気持ちは起きなかった。俺は、自分のペースで着実に進んでいけばいい。
俺は、密かに帽子に「無欲」と書いた。
プロ野球のキャンプは、とても厳しくて余裕は全くなかった。それでも、キャンプ終盤になると、ほんの少しだけ手ごたえが出てきた。
プロでやっていく自信というよりは、自分の気持ちを落ち着かせる方法が見えてきた。
俺は、自分で、闘争心を自負しているが、それと同時に冷静さを持てるようになった。
キャンプの紅白戦で投げていて、ピンチを迎えた時は、以前なら、相手を三振に仕留めてガッツポーズをしている自分を想像しながら投げていた。
でも、今は冷静に相手と向き合って、この勝負に集中できている。
ガッツポーズの事を考えなくなった。
しかし、妻は不満らしい。
「健一のピッチングスタイルが少し変わったね。以前は、真っ赤に燃えながら投げていたのにね。今は物足りないなぁ」
「俺は、少し大人になったんだよ」
無欲になるからこそ、得られるものの話をした。
妻の反応は、芳しくない。
「健一が一億円プレーヤーになったら、何を買うか考えているんだよ。車はフェラーリで、服はブランドの……」
妻の辞書に「無欲」という文字は、存在しない。
でも、俺もフェラーリ乗りたいかも……
やっぱり俺はまだまだ修行が足りないなぁ。
こんな調子でキャンプが終わった。戸惑うことが多かったが、ケガなく終われて、実りは多かった。
無欲に、そして闘争心を忘れずに行こう。




