ガラスの私
初めて汽車に乗ったことで興奮した歌子が、ようやく舟こぎを始めた。膝立ちになって窓の外を見ていた娘は、流れ去る夜景に目をキラキラさせ、しょっちゅう振り返っては見たものを大きな声で訴えていたが、町を出外れると景色が見えなくなってつまらなそうにしていた。しかし駅があるたびに停車するので、それが退屈しのぎになっているようだ。
線路脇を道路が通っているのか、ぽつんと信号機の赤や青が面白いらしく、時折り並走する自動車を見つけては喜んでいた。とはいえ、それも長続きするはずはなく、窓枠に顎をかけたまま居眠りを始めた。腰掛けたままコックリする娘は、それでも作ってやった折り紙を大事そうに握りしめている。
私は、そっと娘を寝かせ、背負っていた舞子をその横に寝かせた。行儀よく並ぶ二人の娘に、羽織っていたねんねこを掛けてやる。車内が空いているからこそできることで、それはありがたいことなのだが、それにしても客が少なく、冷えびえとした車内だ。
子を背負っていると肩が凝る。特に舞子を産んでから貧血が酷くなっていて、乳の出もかんばしくないくらいだ。できることなら長く背負っていたくないとも思うのだが、疲れる代償といおうか、とても温かいことは事実だ。こうして寝かせると、急に冷えが背中を伝い、てブルッと震えが奔る。
むかいの席に移って靴を脱ぎ、スチーム暖房の上に足を載せる。冷えた足裏からじんわりと温みが戻ってきた。
列車は人気のない路線を淡々と走り、暫くすると停車する。一刻も早く遠いところへ行きたい私の焦る気持ちをあざ笑うように、まったく亀の歩みだ。といって、準急の切符を買うようなゆとりはなかった。
列車がどこを走っているのか、私にはさっぱりわからない。北へ向かっているのか、それとも南なのか、右へ左へとカーブをきるたびに方向感覚が狂ってしまった。だけど、鉄橋を渡り、トンネルをくぐっているのだから、きっと前へ進んでいるのだろう。
速く、もっと速く。あいつが、昭雄が目を覚ます前にたとえ一駅でも先へ。気ばかり焦っても無駄だと知りつつ、ぼんやりとした天井の照明を照り返す窓に見入っていた。
車窓を流れる人家の明かりがめっきり減っている。すでに人々が眠りにつく時刻を過ぎているはずだが、それにしても寂しいところのようだ。列車は徐々に山中に分け入ったのだろうか。山中で、ましてや深夜、乗客の姿などあるわけなかろう。なのに列車は走り、誰もいない駅に停まった。
ねえ、どこへ行くの? 当てはあるの? 誰もいないはずのホームにやつれた女性が立って、じっと私を見つめていた。
あなた、だれ? 寒くないの? 相もの一枚で真夜中のホーム立つなんて、正気?
窓のむこうの女性もおずおずと手を差し伸べてきた。
私は息をのんだ。ざんばら髪に窪んだ眼窩、青白い顔の頬だけ黒ずんで腫れている。垂れた血を拭った跡だろうか、茶色の筋が横に流れていた。無残なまでに怯えた目をしている。
列車が駅を離れても、女性は列車を追いかけてきた。ありもしないホームを駆け、足場のない闇の中を、女性は息を乱す素振りをみせず、なにか言いたげに追いすがっている。
女性は、列車をというよりも、私を追いかけているようだ。しかも、すぐ横を。
ねえ、どこへ行くの?
躊躇うように伸ばした手と手が触れ合った、ガラス一枚をはさんで。そして気付いた、女性は私なのだと。
ガラスの私に問いかけても、沈んだ表情のまま返事をしようとはしない。時折り目が合っても、すぐに反らしてしまう。
どうしようか、これから。幾度問いかけても、ガラスの私は哀しそうに目を伏せている。
そのむこうで、黒々とした大山が近づいてきた。やや灰色がかった茂みがガラスのすぐ外を跳ねるように駆け抜けている。たまにポツンと小さな明かり。こんな真夜中だというのに、明かりを点す家ではいったい何をしているのだろう。農閑期の手仕事だろうか、内職だろうかと想像し、楽しいことをひとつも想像しない自分に気付いた。
煎餅布団に子供を寝かしつけた私は、時計が十二時を報せるまで内職に没頭した。アイスクリームの匙だったり、花札を貼ったり。だけど、朝から晩までやったところで稼ぎはしれていた。私のように夕方から始めるのでは、本当に雀の涙くらいにしかならない。でも、下を向いて歩いたところで、一円玉すら落ちていないのが現実だ。そう、決して落ちてなどいない。恵んでもくれない。莫迦な夢を見ていないで、ひたすら稼ぐしかない。
三歳といえば言葉を覚えだす年頃だ。その娘を連れて雇ってくれるところを探しては、働いた。まだ誕生を迎えない娘を背負って、遮二無二働いた。決して豊かではないけれど、そうして食いつないできた。それなのに……
昭雄は生活費をよこすどころか、苦しい家計を知っているはずなのに、根こそぎ奪っていった。酒を呑む金をせびり、博打に狂い、分不相応な身なりをするために。そのせいで子供に玉子すら食べさせられず、成長期だというのに服を買えず、わずかな菓子すら買ってやれない。あろうことか、電気を停められた。
今日だって酒臭い息で帰ったくせに、まだ呑み足りないのか酒を出せと暴れた。
どこに酒があるというのだ。そんな金があるなら電気を停められるものか。電気だけじゃない、炭も練炭も底をついたまま。もちろん豆炭なんかとっくにきれてしまった。薪がニ把ほどしか残っていないのを知ろうともしない。
朝鮮特需では羽振りが良かったかもしれない。だけど造船不況の今、給料の遅配、欠配が当たり前だからこそ、酒に逃げてどうするのだ。
残高のなくなった預金通帳を見せた。米びつも見せた。財布の中身も見せ、経済状況を訴えた。でも昭雄は聞く耳をもたず、力で思い通りにしようとした。怯えて縋ってきた歌子にまで手をかけようとした。
もう厭だ、もう限界だ。歌子や舞子を死なせてたまるもんか。逃げよう、一刻も早く。
暴れたせいで酔いがまわった昭雄が大の字になって鼾をかきはじめたとき、私を縛めていたものがぶつりと切れた。
居汚く寝入っている昭雄を睨みつけた私は、咄嗟に残りものをかき集めて弁当を作り、子供の服だけを風呂敷にくるんだ。そっと昭雄の持ち物をさぐり、有り金を残らず抜き取る。
必死だった。頭の中は真っ白で、ただ逃げたい一心だった。
舞子を背負い、怯えて部屋の隅で丸まっていた歌子に服を着せる。
寝具に水をかけた私は、苦労して貯めた小銭の袋を握りしめて駅へと急いだのだった。
凍え死ぬがいい、のたれ死ぬがいい。私の胸の内には怨嗟が渦巻いていた。
ガラスの私は、怨念の塊かもしれない。
根は優しい男だと、思っていた。だから我慢できた。けど、弱い男だったのだ。それを優しさと勘違いした自分が悪い。それは重々わかっている。が、こうまで自堕落な男ではなかったはずだ。働いた金は自分が使い、借金をこさえ、女房の稼ぎすら奪ってゆく男。そう気付いたとき、私のお腹では歌子が懸命に存在を訴えていた。もう……手遅れだと腹をくくって我慢し続けてきたのだ。
ギギーッっと軋み音をたてながら列車が行き足を止めた。天井に吊るされた時計は人の生活になど興味なさそうに、コツンと針を進めて細かく震えた。
列車に乗るとき、歌子は緊張しながらもはしゃいでいた。遠くから見るだけだった汽車に初めて乗る嬉しさと、どこへ行くのかと戸惑いもあるだろう。それが特別遠いところだということを本能的に察したのかもしれない。
ゴトンと小さな衝撃とともに、列車が走り始めた。
乗り換え駅はこれまでにいくらもあったはずだ。そこで躊躇ううちに降りそびれ、乗りそびれてきたのが私だ。どうして降りそびれたのだろう。どうして乗りそびれたのだろう。そして、どうして乗り違えたのだろう。昭雄の優しさに騙されたからだろうか。
教えてほしいとガラスの自分に訊ねても、きっと何も応えはしないだろう。では、これからどうしようかと問えば、応えてくれるのだろうか。
車窓が仄かに明るくなってきた。夜明けてきたのだろうかと空を見ると、相変わらず漆黒の中に星の瞬きが見える。そうか、きっと列車は西に向きを変えたのだ。そう思って後方をすかしてみても、やはり星が瞬いている。
車窓を仄白い塊りが駆け去った。なんだろうと目を凝らしてみると、屋根に積った雪だ。
しまった、うっかりしていた。いつもこうだ。どうして大切なときに、考えなしに突っ走ってしまうのだろう。昭雄に囚われたときと違って、歌子と舞子に対する責任があるというのに。寄る辺なき身一つ、いや、二人の幼子を連れて、誰が雇ってくれるというのだ。男どもは出稼ぎに行くそうではないか。そんな貧しい土地では生きられない。
やめよう、そんな土地へ行くのはやめよう。それでいいかとガラスの自分に問いかけると、ガラスの私は惚けたような表情を打ち消し、目頭に力を漲らせ始めていた。
名も知らぬ駅に停車するたびに屋根の雪が厚さを増し、ホームの端に寄せられた雪の小山が大きくなっている。それを目の当たりにすると、私の気は決まった。
夜が明けたら、大きな駅で降りよう。そして鹿児島へ行こう。そこまで行ったら船に乗るんだ。船に乗ってどこかの島へ行って、そこで暮らそう。なにより、二人の子供を護ることが唯一の務めなのだから。さんざん苦しめられた昭雄から奪った金で切符を買おう。こつこつ貯めたお金で、みかんを買ってやろう。歌子も舞子も喜ぶだろうなぁ。
腫れが退かない頬に手をやり、ガラスの私に問いかける。一目だけでも母さんに会っていいかと、愚痴の一つも漏らしていいかと。
鹿児島は母さんの住む町の、更にさらに先にあるのだから。
ガラスの私の目蓋に、みるみる涙が盛り上がってきた。そして哀しそうに首を横にした。
そうだよね。私の居場所を探そうと、きっと昭雄が思いつくのは母さんだもんね。そうなったら母さんに嘘をつかせることになる。きっと母さんは知らないと言ってくれる。だけど、呑んだくれの父はペラペラ喋ってしまうよ、来たことを。だから……寄らない。
でも、母さんの町を素通りするのは辛いなぁ、
我慢……できるかなぁ。
長い停車だ。しかし、真っ暗な世界にポツンと漂っているのではない。こぼれた明かりが線路やホームに積る雪を照らし、朧な膜をつくっている。乗り合い客の姿こそないが、トランクや風呂敷包みが網棚に載っている。たしかに誰かが乗り合わせているのだ。それに、足元からは暖房の温みが伝わっていた。
歌子が寝返りをうって目を擦った。暖房で暖めておいた牛乳を一口飲ませてやると、さもおいしそうに咽がこくりと動く。そしてじっと私を窺い、安心したようこっくりを始める。
母さん、こうして護ってくれたんだよね、私を。
歌子の背をトントン叩いてやりながら、そんな想いがこみあげてきた。
ごめんね、母さん。母さんと同じ道を歩んじゃった。でも、私はこの子を護る。素通りするけど、ごめんね。
詫びようとすればするほど胸にこみあげてくる。とうとう堪らず顔を覆ってしまった。
窓の外に湯気が立ち上った。その湯気を背にして、ガラスの私が泣いていた。辛い運命を背負ってしまった二人の娘を按ずるように。そして、厳しい生き方を選んだ私を哀れむかのように。
長いため息を吐いて列車が動き出した、まるで私の背中を押すかのように。
タン、タンタン
迷っていられない、泣いてなんかいられない。走りだしたのだから。
タタン、タタン。タタン、タタン
一足ごとに鼓動を早くして、走る、走る、走る。
必ず夜明けがくると励ますように。
タタン、タタタン。タタン、タタタタン……
ありがとう母さん、もう迷わない。私は娘を護る。母さんがしてくれたように。
それでいいよねとガラスの私に訊ねると、しっかりこっちを見つめながら、明け染めの背景に透けていった。