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ベッドの上で

作者: 伊咲かなた

「人生って何だと思う?」

 わたしはサトシに訊ねた。わたしたちは白いシーツがひかれた柔らかいベッドに横たわっていた。もちろん一糸まとわぬ裸だ。サトシは事後、いつも天井をぼうっと眺めていて、わたしの話にまともな受け答えをしてくれることはまずない。だからこそ、こんなことをサトシに訊ねることができたのだと思う。

「人生って何だと思う?」

 わたしが勤める図書館で、こんなレファレンス(?)があったのは、先週の金曜日、雨降りの午後だった。普通のわたしの仕事は、図書館の蔵書から、利用者が求める情報を得るのに適した資料を論理的に提案することだ。例えば、最も画数の多い漢字を知りたいというレファレンスがあるとする。わたしは所蔵してある漢和辞典を持ってきて、【画数】の欄を調べる。そして、○○漢和辞典によると、最も画数の多い漢字は六十四画で、龍を四つ並べた「テツ」や「テチ」と読むものと、興を四つ並べた「セイ」と読むものがあります、と伝える。もしくは、『読書が真の学問である』というような言葉を言った人は誰か知りたいというレファレンスがあったとする。わたしはまずインターネットでその言葉を検索する。すると吉田松陰の『今日の読書こそ、真の学問である』という言葉がヒットした。インターネットでの記述から、これが司馬遼太郎の『世に棲む日日』の引用であるらしいことがわかった。そこで、所蔵してある当文献をあたりインターネットの情報の真偽を確認する。最終的には、参照したURLと文献のリストを提示しながら、吉田松陰という人物名を利用者に伝える。このように、本来事実に基づいた返答を行うレファレンスで人生について問われた場合どう答えるべきか、わたしは返答に窮した。

 案の定サトシは、「人生?」と小さく呟いただけで、人生とは何かという問いに答えるつもりもないようだった。わたしはそのことに表面的には安堵したが、どこかで何かしらのアクションを期待していたのかもしれない。ふとわたしが全身を露わにしていることに羞恥を覚え、足元でぐちゃぐちゃに丸まっている布団を胸元まで手繰りよせた。「寒いのか?」とサトシが訊いてきたので、わたしは少し驚いた。「ううん、ただ、何だろ、口が寂しくなるやつの、体バージョン、みたいな感じ」サトシはわたしの言葉を聞くと、何だそれと笑ってわたしを抱きしめた。わたしはサトシの厚い胸に抱かれながら、わたしの人生っていったい何だろうと思った。

 サトシと出会ったのは、ラブホテルの一室だった。わたしはかつて、図書館で勤める傍ら、夜の間だけデリヘルで働いていた。サトシはそのときのお客の一人だった。初めて会ったとき、わたしがホテルの部屋に入りユリですと名乗って六十分ぶんのプレイ料金を受け取る間、サトシは一言もしゃべらなかった。シャワーを浴びサトシの溜まったものを処理する間も、わたしが話しかけても上の空という感じだった。結局わたしがホテルの部屋を出るまでにサトシの声を聞いたのは合計で数十秒ほどだった。けれどサトシは次の日もわたしを指名した。そしてその次の日も、またその次の日も、わたしを同じホテルの同じ部屋に呼んだ。その連続が五日に及び、わたしはとうとうサトシに訊ねた、「毎日呼んでくれてありがたいけれど、ホテル代とプレイ代とでかなりかかるでしょう。どうしてそんなにわたしばかり……」サトシは顔を真っ赤に染め、何度も口を開こうとしては口ごもり、やっとのことで出たのは「ユリさんが、好きだから……」という言葉だった。

「人生って何だと思う?」

 図書館でわたしにそう言ってきたのは、まだ声も変わっていない、小学五、六年生か、中学一年生ぐらいの少年だった。少年の目の横には大きな青あざがあった。そして晩秋であったが、少年からは汗の酸っぱい臭いがした。「人生……」とわたしは声に出してその言葉を繰り返した。わたしは無意識のうちに左手でインターネットのサーチエンジンに、人生という二文字を投げ込んでいた。そして右手では、広辞苑で人生という言葉をひいていた。その様子を見て、少年はあからさまに溜息をした。「辞書に書いてある意味なんて必要ないよ。あと、インターネットに溢れている人生論も不要さ。ぼくが知りたいのは、お姉さん、あなたの答えなんだ」少年が話すたびに体を揺らすから、汗の臭いが辺りの空気を包んだ。けれどその酸っぱい臭いと目の横の青あざと人生という言葉は、すごく似合っているような気がした。少年はわたしから目を離さなかった。「ねえ、レファレンスのお姉さん、人生って何だと思う?」

 柔らかいベッドの上で、サトシはわたしをきつく抱きしめていた。それはサトシが好む抱擁だった。サトシはしかし、わたしの問いには興味の一片も示していないようだ。わたしがそんな質問をしたこと自体、既に忘れてしまっているかもしれない。人生って何だと思う? この問いは殺風景なサトシの部屋に宙ぶらりんのまま、どういう風にも消化されずに残っていた。人生に関する問いは、やがてサトシの部屋で、風化し、浸食され、時間の流れに溶け去っていくだろう。サトシは事後、天井を眺めながら、人生に関する問いの核が崩壊していくのを見るだろう。いや、サトシはその崩壊にすら気づかないのかもしれない……。無駄に柔らかいベッドと、もう映らないアナログテレビと、小さな丸机しかない部屋の中に、人生に関する問いは確かに存在するというのに……。

 サトシに好きだと言われたわたしは、しばらくわたしが言われているとは思わなかった。わたしたちはラブホテルの一室で、六十分×五日会っただけだ。交わした言葉も事務的な数言だから、お互いのことなど何も知らなかった。ユリという名前さえ、わたしの本当の名前ではない……。サトシの目はしかし、告白の本気さを物語っていた。「いきなり、ごめん……」とサトシはわたしの無言を否定と捉えたのか、慌てて言った。「そりゃ、そうだよね。ユリさんの反応が当然だよ。俺はユリさんのことを何一つ知らないし、ユリさんも俺のことを何一つ知らない。そんな相手に好きだなんて言われても、迷惑以外の感情なんて抱かないよね」そしてサトシは脱ぎかけのジーンズ・パンツを履き、「ごめん、今日はキャンセルでいいかな?」と言った。それからサトシはわたしを指名しなくなり、会うことはなくなった。わたしはしかしサトシの胸に抱かれているし、無論お金をもらっているわけでもない。結局わたしも、サトシを好きになったのだ。

「人生って何だと思う?」

 汗の臭いを振りまく少年の問いに、図書館職員のわたしは何も解答を与えることができなかった。頭のなかを人生に関する問いで埋め尽くしてみても、その他のことを考えることができなくなるだけで無意味だった。かといって自然に答えが生えて出てくるようなものではなかった。「一週間後の今日、この時間に、また来てくれないかしら。そのときには君に、わたしなりの答えを伝えられると思うわ」わたしの答えに、少年は不服そうだった。「もし雨が降っていたら、来るよ」少年が去っても、まだ少年の汗の臭いは周囲に残っていた。わたしは少し迷ってから、汗の酸っぱい臭いをいっぱい吸い込んだ。頭が痛かったが、気にせず吸い込んだ。吸い込めるだけ吸い込むと、わたしはそこで息を止められるだけ止めた。限界がきて息を吐き出したとき、わたしは少年の問いに答えを出さなくてよかったと思った。

「人生って何だと思う?」

 もう一度、サトシに訊いてみようと思う。殺風景な部屋の、無駄に柔らかいベッドの上で、きつく抱きしめられながら、今度はきっと、わたしの話をしっかりと聞いてくれるだろう。そして人生とは何かを考えてくれるだろう。けれどきっと答えを出そうとしないだろう。わたしはそれが心地いい。だからサトシのことを好きになったのだ。

「人生って何だと思う?」

 あらためて人生に関する問いを口に出してみると、ずっしりと重みがあった。サトシはじっくり時間をかけて、人生に関する問いを考えていた。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 二行目の「もちろん一糸まとわぬ裸だ」の「もちろん」が余計だと思います。衣服を着て横たわっているのを想像していた読者は「なぜもちろんなの?」と感じると思います。また前半の図書館のレファレ…
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