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霧雨花火の隣人  作者: イタドリ
7/7

タソガレ3

「おっ、飛行船だ」

少年はその声に顔を上げると、空に流線型の白いラグビーボールが浮かんでいる。

「なんかいいことあるかもよ?染屋」

少年の隣にいた同級生は白い歯を見せて呑気に笑いかけた。

「そうなの?」

「いや、飛行船なんてめったに見れないんだぜ?」

それは、確かにそうだろうが、多分に飛行船は定期運航しているだけだろうし、流れ星や虹のような自然現象とは違う。少年はそんなことをぼんやり考えながら、けれど、通学途中の同級生の幸運に水を差すようなことは言わないでおくことにした。

「お前、この日本に飛行船が何機あるか知ってるか?」

少年は首を振った。健康的に日に焼けた同級生は人差し指を立てて聞いた。

「日本にあるのは一機だけだ」

「そうなんだ…」

それじゃあ、これからしばらくは見られるのか。少年は飛行船の巡回期間を1週間か2週間か考えていた。巨大な風船の広告塔は遠すぎて文字は見えないが、それでも立派に役目を果たしているようだった。

「今日はついてる!きっと何かしらの出会いが待ってる!はず!」

何故か自分で死亡フラグまがいのことを言ってはしゃいでいる同級生を横目に、飛行船は静かに電線の奥へ姿を消した。

そのフラグは、あろうことか少年に立っていた。

何も起こらずに8時間が経過し、同級生は飛行船を見かけた時点で一日の幸運を使い果たしたのだと結論付けた。

「あーあ、今日が何のイベントもなく終わっていく…」

がっくりと肩を落として掃除の手を止めている同級生に、クラスメイトの女子生徒の激が飛ぶ。

「掃除しろバカ」

「もっと愛情のある呼び方出来ないのかよお!」

「じゃあ茶色のバカ、さっさと机運べ」

「なあ染屋、おれ最近の女子怖いよ!」

「最近の男子が軟弱なのよ」

「少しくらい捻ってあげなよ?黒糖ドーナツとか」

「結局悪口じゃん?」

そんな喧騒を聞きながら、飛行船の飛んでいない空を窓から眺めていた。

「どうしたの?染屋くん」

同級生を黒糖ドーナツと呼んでいた女子生徒が少年に声を掛けた。

「いや、なんでもないよ。掃除の邪魔しちゃ悪いから帰るね」

少年は鞄を肩にかけて机から離れようとした時、黒く日焼けした腕が鞄の肩紐を掴んだ。

「いやいや、そこは手伝おうか?だろ?」

「僕は当番じゃないし…」

「どーせあのゴキブリホイホイみたいなアパートに帰って寝るだけなんだろ?」

随分と失礼な物言いだったが、赤い屋根にくすんだ土壁の細長い外見はたしかにそれと見た目が良く似ていた。

同級生に捕まった少年は、当番でもないのに塵取りを渡されて渋々受け取った。


「先生は、彼の事が相当お気に入りなんですね?」

ノックもせずに部屋に入ってくるなり、女性は髪の毛の覆っていない、僅かに見える畳みの場所に座った。

「いいんですか?あのままじゃあ彼、取られてしまうかもしれませんよ?」

茶化すような口調に、先生は鬱陶しそうに目を細める。

「わざわざそんなことを言うために来たのかい?」

とんでもない。女性は笑いながらトートバッグから携帯用の、プラスティック製の将棋盤を取り出して見せた。

先生は体を起こすと、部屋中に広がっていた髪の毛が手繰り寄せられて波の様に動いた。

「どうして“先生”なんですか?」

確か、刑事さんもそんな風に呼んでいたような気がしますけど。駒を並べながら女性が尋ねると、先生は素っ気なく答える。

「先生は丁度いい呼称だからさ。師匠と弟子ほどの信頼関係もない。頼り過ぎず、意見を聞く事の出来る第三者という意味だよ」

「なにかをご教授なさってるんですか?」

女性の意地の悪い笑みを気にする事も無く、先生は静かに否定する。

「わたしは何も終えてはいないよ。ただ、道を違わない様に導いてやる程度の事はしたいなどと思っているだけだ。一から十までを教えて、その通りに歩ませることが正しいとは思わない。わたしを含めた他人の数だけ思考や思想がある。その中で人として外れない生き方を自力で見つける事が大切なんじゃないだろうか?」

「つまり、道を外れかけている人がいるって事ですね?」

女性が不敵な笑みを浮かべた。

「甘いですね、一度道を踏み外した時点で、もう戻れないんですよ?」

女性は駒を取り上げて、一マス前に置いた。

「彼は、キミとは違うさ」

先生はきものの裾から白磁のように白い手を伸ばして、歩を指で摘んで動かした。。


何故かクラスメイトからカラオケに誘われた少年は、適当に流行の唄を歌わされて歌唱力で笑われながら二時間を過ごし、ようやく解散となった頃には陽は赤く変色して、電線に触れて視界の隅に下がっていた。帰路の途中で、少年は大家の孫である少女とばったり顔を合わせた。

「あ、こんばんわ」

少女が気さくな笑みを浮かべて、少年は挨拶を返した。

「買い物の帰りなんだけど、一緒に帰ろっか?」

少女はシャツに短パンというラフな格好で、肩からエコバックを下げていた。

少年は少し周りを確認して、誰もいない事を確かめた後、頷いた。

「そうですね、そろそろ暗くなる時間だし」

二人は並んで歩きだした。不意に少女が口を開く。

「知ってる?ツバメくん…」

なんですか?少年は足を止めずに空地の脇を歩きながら聞き返す。

「黄昏時って、別名があるんだってさ?」

「そうなんですか」

少女は自分の知識を披露するように人差し指を立てて言う。

「黄昏っていうのは、元々誰そ彼って言ってて、薄暗くなってきて人の顔が判別しづらくなるから、向こうから来るのは誰だろうって言う不気味な時間帯って意味なんだって。だからね、別名は逢魔が時って言うんだよ?」

へえ、そうなんですか。少年は別段感情の希薄な返事を返した。

夕陽の橙色が電線の奥に消えて、反対側から暗闇が迫っていた。

「ぼくも、質問していいですか?」

少年の問いに、あまりいい反応の返ってこなかった少女は少し不満そうにしつつ、首を傾げる。

「なに?」

生ぬるい風が頬を撫でて、髪の端を僅かに揺らした。

「どうして、孫だなんて言ったんですか?」

「なんでって、そんなの孫だからに決まってるじゃない?」

少年は冷静に言った。

「大家さんに子供はいません。引っ越してきたときに挨拶に行って、そこでずっと一人暮らしだと言っていました」

風が止み、遠くで名前の分からない虫の声がしていた。チカチカと小さく弾ける音がして、街灯が点灯する。

「じゃあ、なんであの時にあたしの話に乗ったの?」

「初対面の人は信用するなって、先生に言われているもので…」

少年は冷めた目付で少女を見据えた。夏服のズボンのポケットに手を突っ込んだまま、静かに相手の言葉を待った。

「なーんだ、気付いてたんだ…」

少女は残念そうにガックリ項垂れると、エコバックを足元に落とした。ガサッと音がして、その中から刃渡り30センチ近い凶悪なサバイバルナイフが街灯の光を反射して鈍く光った。

「正直さ?キミだってあたしとおんなじなんだよね?」

「何のことですか?」

「今更恍けなくてもいいよ?猫とか犬とか散々殺して来たんでしょ?」

少年が微かに眉を顰めた。少女は上品な笑みを浮かべて続ける。

「生き物を殺すって楽しいよね?命ってあるのかな?殺したらどうなると思う?血の色って、綺麗だよね」

ゆっくりと近づいてくる少女に、少年はフッと短く息を吐いた。

「なに?」

少女が少し怪訝に首をかしげる。少年は静かに顔を上げた。

「ぼくには、一つも共感できませんよ」

「なに言ってんの?」

「誰から聞いたのかは知りませんが、ぼくは動物を殺したりはしてません。罪の無い命を無下に奪うのは、許したくない」

少年は真っ直ぐ少女を睨んだ。その瞳にはどんな感情もない、ただ純然たる殺気だけが鋭く光っていた。少年の不気味な冷静さに、少女の不敵な笑みが陰る。

「生き物を殺すことに楽しみを感じる事は無いです。命はあるし、人を人が殺してはいけない。血の色は酷く目に痛い」

何よりぼくは、人殺しが大嫌いなんです。

「そんな顔して、よく言うよ」

少女はサバイバルナイフを握り直した。そして左手に隠していた折り畳みのナイフを振りかざす。少年は少し身を傾けてそれを避けると、その手を取り押さえようとしたが、ふと透き通るような声が頭の中で響く。

「殺してはいけない」

サバイバルナイフの切っ先が制服の肩に触れた。シャツの袖が裂けて、筆の後のような黒いラインが浮かび上がる。

「なんだよ、ただのザコじゃん?」

少女は優雅な笑みを浮かべて、けらけらと下品な声で笑った。

「あの人はなんか意味深な事言ってたからどんな化け物かと思ったけど、ガッカリだよ」

少年は逃げるべきかどうか考えながら、実は何も考えていなかった。先生の忠告に逆らうという選択肢ははなから存在しない。かといって、犯罪者を野放しにする気は無い。そんなことをするくらいなら、死んだ方がましだろう。ナイフは二本ある。どうにか相討ちを装えば、先生も許してくれるだろうか…。

少年はそんなことを考えて、少女の右手が突き出されるのを確認し、少しだけ身を傾けた。小さく煌めく銀色の刃が制服の肩に飲み込まれるように見えなくなった。肩の筋肉組織を裂き、骨に当たって止まった感覚がある。想像を超えた痛みに意識が消えかけたが、すぐさま少年の頭の中では別の回路に切り替わる。痛みを感覚程度まで引き下げると、肩にめり込んだ刃ごと、相手の手首をつかん少女の脇腹を殴った。

「ぐはっ!」

少女が咽込んで左手のナイフを離した隙に、少年は肩に刺さったナイフを抜いた。

これで条件は同じだ。後は相手が斬り付けるのを待って…。

その時、不意に少女が地面にひれ伏した。重い金属片がアスファルトの上に転がる鈍い音がした。

「抵抗するな。殺人未遂と傷害容疑の現行犯として少し話を聞かせてもらう」

黒いスーツが闇にまぎれて、顔と襟元だけが浮かんでいるように見えた。知り合いの刑事は少女を後ろ手に抑え込んだまま立たせた。

「いつから、居たんですか?」

少年はバツの悪い顔で視線を逸らした。刑事はいつも通り淡々とした口調で言う。

「先生から、少年に注意を払う様にと言伝があった。キミが無茶な事をしないように、と」

「ぼくが、ですか…」

少年はふっと自嘲した。

「私は彼女を連れて行く。タクシーを手配しておいた。キミはこれを持って病院に行くように」

刑事は懐からぼく名義の保健所を取り出して渡した。

「どこまで読まれてたんですか、ぼくは…」

どうしようもなく情けなくなった少年は、刑事の自家用車のローバーミニの後から現れた鮮やかな色のタクシーに乗って、最寄りの病院へ向かった。


「このアパートって、少し不思議ですよね?せんせい」

先生は珍しく畳の上で胡坐をかいていた。それはほかの人物と狭い部屋で真正面から対峙しているからに他ならない。

「二階建てで廊下があるけれど、屋根が突き出している所為で廊下は薄暗いし、上の階の部屋にはベランダは無い。必要最低限の流し台とトイレがあるくらいで、収納は押入れだけ。これって、どこか、なにかに似ているとは思いませんか?」

せんせいと呼ばれた少女は少し俯いて畳の上に置かれた将棋盤を眺めていた。

「やっぱり、飛車角歩抜きでオレに勝とうっていうのは無理があったんじゃないですか?」

女性は薄ら笑いを浮かべてキツネの様に目を細める。先生が静かに口を開く。

「キミは少し誤解をしているな」

「さて、なんの話でしょう?」

羽織りにしている着物の黒い袖から白い指先が覗き、桂馬に手を伸ばした。相手の飛車を取る。

「何をたくらんでいるのかは知らないが、彼もこのアパートの住人であることを忘れるな」

「…。せんせい、ズルしました?」

女性は盤の上を一瞥して僅かに口元から笑みが消えた。しかし直ぐに不敵に微笑む。

「いいや、わたしはキミとは違うからね。そんなことはしないよ」

「これは手厳しいですねぇ…」

その時、重苦しい空気を打ち破る様に無機質な電子音が鳴り響いた。

「せんせい、電話みたいですよ?」

女性がわざとらしく進めて、先生は着物の裾から鏡色の滑らかな端末を取り出した。

「そうか、処遇はそちらに任せるよ。時間外労働を強いてすまなかった…」

先生が誰かと話している隙に、女性は勝手に駒の位置を一マスずらした。

「一応言っておきますけど、オレは何にもしてないですよ?」

「そんな見え透いた嘘が罷り通ると思うのかい?」

香車が三マス進んで歩を捉えた。

「…。これはただの小手試しというか、実験ですよ」

「実験?」

「彼にも何かしら、ここにいる理由があるんじゃないかと思ったんですよ」

女性は万歳するように両手を上げて天井を仰ぎ、後ろに手をついて天井を見上げた。

「二階の202号室に住んでいる小石川明楽は霊感商法を謳った詐欺師だし、204号室の椎木伊折は放火魔だ。今のところ住人はみんな犯罪者しかいない。これじゃあまるで…」

まるで、監獄みたいじゃないですか?

女性は少年を射抜いたときのような、刑事とにらみ合ったときのような、凶悪な眼差しで黒い髪の間から覗く少女の視線と向かい合う。

「一つ忠告をしておこう…」

先生は真っ直ぐ女性の目を見返した。女性は自分が気圧されていることに驚いて声が出無い事に困惑し、黒目が揺れる。

「ここの住人には、無闇に手を出さない方がいい」

このアパートには、化け物しかいないのだから。


「怪物を討とうと思う物は、自身も怪物にならない様に気を付けなければならない。正当な思想であっても、結果は同じになってしまいかねない」

先生の言葉を思い出しながら、少年は先生の部屋のドアをノックした。

いつもの様に寝転がって漫画で出来た庇の下にある顔は、いつもより些か不機嫌そうだった。

「死のうとしたろう?」

「いえ、そんなことは…」

少年はバツの悪い顔になったが、渋々認めて頭を下げる。

「すみません」

胸の高鳴りは、色恋などでは無く、凶悪な愉快犯に対する単純な憎悪だった。

「キミの正義感は霧雨と同等に悪質だ。自重しろと言った筈だが?」

「すみません…」

最初に先生と出会った時、先生は言っていた。

きみは、わたしの友人によく似ていると。霧雨花火という人について、先生はそれ以上語ろうとはしなかった。少年も聞こうとはしなかった。ただ、先生がその人物と自分を重ね合わせているという事を、少年はそこはかとなく感じていた。

先生はもうそれ以上は言う事は無いという様に寝返りを打って窓の方に向いてしまった。黒い背中を眺めながら、少年はふと、気になったことを尋ねる。

「それで、結局あの人は誰だったんですか?」

「キミが聞いた通り、動物を殺してバラバラにして楽しんでいた特殊な趣向の人間だよ。そして、動物に飽きて人間に手を出そうとした」

大家さんは旅行券を貰い、三日後に箱根温泉のお土産と共に少しだけ肌艶が良くなって帰ってきた。

「相手と対峙した時、あの人って言っていたんですが、それって…」

「キミが考える事では無い」

先生は漫画本を閉じて小さい方の塔の天辺にそれを置き、大きな塔に手を伸ばした。

「キミは、高校生として今しかできない事をしたまえ。探偵役は、暇を持て余しした人間がする暇つぶしだ」

そう、ですか…。少年は立ち上がって失礼しますと軽く頭を下げた。

「そういえば、ブルーリリーという洋菓子店が最近出来たと広告が入っていたんだが…」

先生は少しモゴモゴ口籠りながら言う。

「その日にとれた卵と生乳を使ったプリンというのが売りらしくてね…」

「じゃあ、買い物のついでに買ってきますよ」

少年がそう言うと、先生は一瞬子供の様に目を輝かせ、それからすぐに平静を装って咳ばらいをした。

「じゃあ、行ってきます」

「ああ」

少年は先生に見送られて、部屋を出て行った。

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