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霧雨花火の隣人  作者: イタドリ
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タソガレ2

そうですねえ、特別な感情ですか…。

では、取り敢えずわたしの生い立ちから話すことにしましょう。

わたしは昔から、とこれと言った取り得のない人間でした。特技も無ければ別段興味を持つ事も無く、無趣味で無味貫徹とした人間でした。そんなわたしが覚えている最も昔の胸の高鳴りは小学校の頃でした。3年生に上がったころから、担任の先生が変わって、それがきっかけで毎朝のホームルームで漢字のテストをすることになっていたんですが、それで1学期の間100点を取り続けたことで、クラスで表彰されたんです。普段のわたしは空気のような存在で、部屋の隅で蜂起に測れることの無いホコリ程度の存在感だったわたしが教卓の前に呼ばれて、生徒全員の視線を一身に浴びました。素直な驚きと賛辞が飛び交う中で、わたしは初めて胸の中心に心臓があることを実感しました。そして、それを一生の生き甲斐にしようと決めたんです。けれど、満点を取って褒められるには勉強をしなければいけません。その為には友達と遊んでる時間さえも勿体無いとおもいましたから、当然友達なんてできませんでした。

わたしは先生や親から褒められることを、存在を認められることだと、生きる喜びとして捉えていました。だから高校生になった時は既に進学先まで決まっていましたから、やることはただただ決まっていました。

そんなある日、いつもの様に電車で1時間ほどかけて私立の進学校の最寄り駅まで来たところで、わたしは定期券を落としてしまっていることに気付きました。鞄の隅にストラップの様にぶら下がっていた定期入れが無いので、どうしようと困惑しながら人ごみにもまれていると、不意に男性が声を掛けてきたんです。少し疲れた様子でその方は額の汗を拭いながらわたしに定期入れを差し出してくれました。その時はただの親切な方だと思いましたが、その方がわたしがお礼を言うと振り返って降りてきた階段を上り始めたので、思わず引き留めて尋ねたんです。

「あの、下りないんですか?」

わたしの問いに対して、彼は照れ笑いを浮かべていました。

「え?ああ、僕はこの駅に用事は無いから」

詳しく話を聞いたわたしは驚いてしまいました。その方はわたしが乗車駅の改札で定期券を落としたのを見て、わざわざ拾って私を追いかけて同じ満員電車にまで乗って追いかけてきたというのです。これがストーカーというものかとわたしは疑惑を抱きましたが、無論当時のわたしのような人間を好き好んで追いかけてくるなんて酔狂な人もいるとは思えませんでした。その結果、この人は本当に私の落とし物を届けるために、あの人を詰め込んだ息苦しい特急に乗って追いかけてきてくれたという事になります。わたしはその愚直なまでの人柄に脱帽してしまいました。そして同時に、両親から褒めらたときも、学年代表で全校生徒の前でスピーチをしたときも感じなかった心臓の高鳴りを、久々に感じました。足元がスポンジケーキにでもなったかのように不安定でした。ですが、どういうわけか楽しくて仕方がないのです。昔、病院に行ったときに待合室で居合わせた老夫婦が、血圧が上がっているときは調子がいいんだ。血圧を下げるくするを飲んで調子が悪いのは当たり前だ。お爺さんはそうお婆さんを怒っていました。つまり、わたしは血圧が上がっているという事で、体調はいいが体にはよくない状況だと察しました。けれど、この感覚を味わえるのであれば、わたしは別段、命が惜しいなどとは思いませんでした。わたしは階段を上ってゆく彼を追いかけました。わたしはその時は恋愛というものを一時的な精神疾患程度に考えていましたので、彼の何がわたしをそうさせたのか、それを解明するというただそれだけの理由で行動していました。彼はわたしの家の最寄り駅から各駅停車で2駅のところで降りました。バス停で山の手の芸大から出ているシャトルバスに乗るところまでを確認しました。それから、わたしは一切の勉強をやめました。画塾に通い、絵画の基礎的な技術を身に着ける事にしたのです。その時点では学部などは分かりません。もしかしたら学芸員かもしれないので、取り敢えず大学へ合格することを最優先事項としました。わたしは不器用でしたが、原理を理解し、実践する能力は勉強で養ってましたから、限りなく実寸の生物デッサンや写実絵画、現存する芸術の模写などはすぐにマスター出来ました。周りの大人の反対を押し切って、わたしは芸大へ推薦入学しました。静物デッサンの授業で、彼は学芸員として教授のアシスタントをしていました。わたしが先の事をお話しすると、あっという間に打ち解けて、恋人の関係になるまでに、時間はかかりませんでした。

だから、彼が学芸員から教員になるのを辞退して、画家になるといった時も、わたしは素直に応援することが当然だと思いました。けれど、彼の絵は世間に受け入れられることはありませんでした。二科展でも落選し、彼の絵の魅力に気付く人は、殆どいませんでした。けれど、わたしがそういう方々の意見に見る目が無いなどと言えるような立場に無い事は十分わきまえていました。わたしは芸術に何の関心も、魅力も感じていなかったのです。ただ、彼が描くから彼の絵が好きなのであって、わたしにとってはゴッホもムンクもアンディ・ウォーホルも区別はありません。油絵と言われても、わたしには木枠に布を張って、油絵の具を塗っただけにしか見えませんでした。その奥に潜む何かを問われても、微塵も感じません。だから、芸術評論家の受けを狙う定石通りの作品も描いてみてはどうかと、彼に提案しました。すると、彼は今まで私に見せたことの無い表情を浮かべました。当時彼のお父様がなくなられて、お屋敷の相続権が彼に引き継がれた頃でしたから、一番日当りのいい部屋をアトリエとして使っていました。彼は描き掛けのキャンバスを床に叩きつけて怒鳴りました。

「お前までおれを馬鹿にするのか!」

その時の表情に、わたしは不意に心臓を感じました。それは漢字テストで表彰されたときの、彼と初めて出会った時のその感覚でした。彼の誰のも見せてこなかった一面を垣間見たわたしは、言いようのない胸の高鳴りを覚えて、わたしだけがその表情を見ることが出来るのだという充足感に溺れました。わたしは分かりもしないのに、彼の作品を罵倒したのです。上手く言えていたのかどうかは分かりません。なぜなら、芸術の理解はありませんでしたから。彼の表情は怒り、失望、絶望、狂気へと変わっていきました。これほどうれしい事はありません。だから彼が花瓶を振り上げていた時も、わたしは幸福感の中に居ました。頭に鮮烈な衝撃がありましたが、わたしはうれしくて、笑いが止まりませんでした。


「お屋敷のアトリエは壁も床も壊されてしまいましたから、こうしてここに引っ越してくることになりました」

少年は自分の質問から随分脱線してしまった事に苦笑いを浮かべるしかなかった。

「それで…えっと、結局、詰まる所どういう?」

「つまり、恋愛に勘違いなどはないという事です。自身が恋だと思えばそれは恋愛であり、あるいはパニック障害であり、もしくはただの不整脈の可能性もあります。あなたがその方に対してどういう感情を抱いているのか、それが問題です。好きであれば、恋です」

灰色の髪を靡かせて、女性のミイラは微笑んだ。

「彼が刑務所から出てくるまでの間、お世話になります」

少年は結局、なにも得られないまま203号室を後にした。

あの時の心臓の高鳴りは、結局なんだったんだろう?

少年はシャツの上から肋骨の真ん中を軽くつかんだ。

「ぼくは、あの子が好きなのか…?」

少年は廊下の奥から差し込む西日の赤を眺めた。陽が長くなり始めているはずなのだが、その日の夕陽は不気味なほどに赤かった。

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