タソガレ
或る休日の朝、少年は顔を洗おうと流し台へ向かい、蛇口を捻った時、ようやく異変に気付いた。水道から水が出なくなっていた。理由は不明だが、多分に立て付けとか、あるいは立て付けとか、もしくは立て付けの問題だろうと少年には容易に想像がついた。朽ちかけた昭和の遺物は、人が暮らせる最低限の設備をかろうじて維持しているような状態だった。女性の部屋、ではなく反対の隣人、先生の部屋に確認に行くと、先生の部屋の流し台も、蛇口を捻っても空転するだけで何も出てこなかった。
「いつからこうなんですか?」
少年が尋ねると、先生はいつもの様に窓から僅かに見える青空を見上げていた。
「わたしは水道を使ったことが無いから知らない。逆にキミが気付いたのはいつなんだ?」
「ぼくは今朝顔を洗おうとしたら…って、使ったこと無いんですか!?」
少年は水道が使えなくなった以上の衝撃的な事実を突きつけられて当惑した。先生は相変わらず寝ころんだままで漫画を読んでいた。
「冗談に決まっているだろうが。わたしだって歯くらい磨くし、顔も洗う」
「せめて冗談っぽく言って下さいよ…」
少年は部屋の蛇口を閉めてから、三和土で靴を履き直した。
「大家さんに言ってきます。流石にこれじゃあ生活できませんから」
少年は先生の部屋からほの暗く冷たい空気の満ちた廊下に出る。向かいの家の塀が近い所為で一年を通してほどんど光は入らず、夏場は涼しいが、ところどころに巣食う闇や蜘蛛の巣が不気味な雰囲気に拍車を掛けていた。
部屋を出た少年がアパートの玄関へ向かうと、大家の住まいであるアパートの101号室のドアの呼び鈴を押した。
すぐにドアが開き、少年が口を開きかけた時、中から出てきた人物を見て思わず苦情の内容を少しの間忘れてしまった。
「はい、どうかしましたか?」
対応に出たのは、80歳くらいのご当地キャラのような等身の老婆、ではなく、少年と同年齢ほどの少女だった。
「あ、えっと、間違えました!」
すみません!少年は慌てて頭を下げたが、ふと部屋を間違えている訳は無いと思い直し、不思議そうな表情をしている少女に恐る恐る尋ねる。
「えっと…ここ、大家さんの部屋ですよね…?」
「あ、おばあちゃんなら、体調を崩しちゃってちょっと入院してるんです。だから、わたしが代わりに大家さん代行で」
「ああ、そうなんですか、それはそれは」
少年は何故か照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。それどころではないと思いだしたが、この人物に言って解決するのだろうかという不安がどうしても付きまとった。
「えっとそうじゃなくて、その、水道の水が出ないみたいなんですけど…」
少女はえっ?と意外そうな声を出した。という事は、この部屋の水道は恙無く水を流しているのだろうか?
「今日は水道管の工事があるから、10時から12時まで断水するって一応掲示板に張っておいたんだけど、やっぱり一部屋ずつ報告に行った方がよかったかな…」
ごめんなさい。気が回らなくて…。少女は申し訳なさそうに頭を下げた。少年は「いや、そこまで謝らなくても!」と言いながら、内心は事前に申告してほしかったと呟いた。
「すぐにまた水が通るなら、そんなに問題は無いし」
問題ないはずは無かったが、少年は少女に気を使おうとしたが、あまり上手くいっている様子は無かった。
「一応お水は貯めてあるんですが、持っていきますか?」
「えーっとお…」
そういう事ではないのだが、少年は責任を感じている様子の少女の差し出した2リットルのペットボトルを受け取って部屋を後にした。
「断水するなら事前に言ってくれなきゃダメだよねぇ?」
先生の部屋で、女性が先生の真似をして同じように寝転がり、漫画本を顔の上で開いて眺めながら言った。
「ええ、そうですね…」
少年はどこか上の空で気の抜けた返事を返した。
「ツバメくん?」
「なんですか?」
「恋でもしたかい?」
「そうですね…って!なんですかいきなり!?」
女性は反動をつけて起き上がると、四つん這いで少年の顔を覗き込んでニヤリと実に楽しげな笑みを浮かべた。
「マンガみたいなリアクションだねえ、まあ、オレは別にツバメくんが誰を好きになろうが構わないんだけどね~」
女性は突然膝立ちになると、少年は思わず仰け反った。
「だから、そんなんじゃないですって!」
少年は顔をトマトのように赤くして否定するが、説得力は皆無だった。
「まあ、短い青春を謳歌したまえ、振られたらおねえさんが慰めてやってもいいぜ?」
「結構です!」
まだニヤニヤと茶化してくる女性に、少年は逃げる様に部屋から出て行った。ドアが絞められた後、女性は無言を貫いている部屋の主に、素朴な疑問を投げた。
「なあ先生…」
大家さんに、孫なんていたの?
先生は漫画のページを捲りながら気の無い返事を返す。
「居るというんだから居るのだろう…」
まあ、私は会ったことはないが。




