ツジギリ 3
少年がアパートに戻ってくると、つい最近越して来た女性が自室のドアに背中をつけて凭れかかっていた。女性は退屈そうに宙を眺めていたが、少年に気付くとニッと笑みを浮かべて右手をひらひらと振った。
「やあツバメくん。今日は早かったね」
少年は隣室のドア前で立ち止まって相手と適当に距離を取った。怪訝な様子を感じ取った女性の顔が無邪気な笑いに変わる。
「そんなにオレの事を怖がらなくてもいいんだぜ?」
ほら、今日は手ぶらだし。おどけた様子で雨を受ける様に手の平を上に向けて見せたが、少年の緊張を解すには至らなかった。
「手ぶらじゃなかった何かするんですか?」
少年の問いに女性はそうだなあ、となぞなぞを考えるように少し唸ってから、不意に少年を上目遣いで捉えた。大きな目に鋭い眼光が宿る。
「ものにもよるだろうね。オレはキミに興味があるし」
女性の顔は常に笑みを絶やさなかったが、そのバリエーションで不気味にも可憐にもなれる。つい2,3日前に初めて出会ってババ抜きをした時から、少年はこの人を信用してはいけないと直感的にも理論的にも感じていた。
「それで、わざわざ待ち伏せしていたんですか?」
相変わらず警戒心を解かない少年に、女性はやれやれといった様子で手ぶらの時と同じ仕草をして苦笑する。
「そこまでの興味は無いよ。ただ、ちょっと相談に来ただけだ」
女性はそういうと、少年の部屋のドアを開けた。
「まあ、中で話そうそうじゃないか?」
「いや、そこぼくの部屋だし…ていうか、なんで鍵開いてるんですか?!」
困惑する少年に、女性は笑いながらはぐらかす。
「細かいことは気にするなよ。はげるぞ?」
少年が部屋に入ることを拒んだので、女性は仕方ないと言う様にドアを閉めて、再び薄暗い廊下で対峙する格好になる。
「で、相談って何ですか?」
「キミは最近ここに引っ越して来たんだろう?」
それは昨日、先生と三人でトランプをしているときに雑談として出た情報だった。
「オレは昨日引っ越して来たんだけど、やっぱり近隣の住民に挨拶に入った方がいいのかな?」
そんなのは勝手に行けばいいと思うという旨を伝えると、女性は悪戯っぽい笑みを浮かべて平然と言う。
「オレみたいなか弱い女の子が知らない人の家を訪ねたりしたら危ないじゃないか?いろんな意味で」
危ないのは女性と住人どちらの事だろう?少年は束の間思ったが、考える事でもないとすぐに考えるのをやめた。
「ぼくも、正直挨拶には行ってないんですよ。最近近所づきあいとかでトラブルになること多いですから」
「なるほどなあ、確かに、隣にどんな奴が住んでるとも限らないからなあ」
女性はニヤニヤしながら少年を窺って反応を見ている様子だった。少年は辟易したという様に視線をそらして頬を掻いた。
「じゃあ、なんであの子供と知り合ったの?」
女性は視線を少年の左側、ドアのある方へ向ける。
「最初に挨拶に行ったのが、先生の部屋だったんです」
それだけですか?と少年は話を切り上げようとしたが、それを遮る様に女性が言い、
「やっぱり、立ち話もなんだし、中に入らない?」
再び少年の部屋のドアを開けた。
「だから勝手に開けないで下さいよ!」
少年は再び苦言を呈して抗議した。
「よーし、じゃあオレの部屋に行こう。それなら文句ないだろう?」
女性はそういうと、半分ほど開いたドアをそのままにして廊下の奥へ向かって歩き出した。
「閉めて行って下さいよ…」
少年が自室のドアを押してもう一度持っている鍵で施錠すると、女性の後を追った。
4畳半の部屋には、黒のローテーブルに座布団替わりのクッション、押し入れには目隠し代わりの布が掛けられていた。
「まあ、狭いところだけどゆっくりしてくれたまえよ?」
女性は玄関脇に備え付けられたキッチンの冷蔵庫からコーラを2本取り出して片方を少年に渡した。
「あ、どうも…?」
受け取ってプルタブに手を掛けた時、ふと部屋の光景に気付いて驚愕した。
「て、ここぼくの部屋じゃないですか!」
家具がすべて隣の女性の部屋に移動していた。しかも全く同じ配置になっている。
「部屋番号張り替えてみたんだ」
えへっ?と無邪気に小首を傾げた女性に、少年はガックリ項垂れた。
「で、キミはどうしてあの子を先生って呼んでるんだ?」
4畳半の部屋でローテーブルを挟んだ向かいで、二つのコーラの缶が向かい合っていた。
「先生の部屋に行ったとき、たまたま居合わせた刑…人が、そう呼んでいたんですよ」
刑事と言いかけた言葉を慌てて咽喉の奥に押し込めたが、女性は特に気にする様子もなく美味そうに咽喉を鳴らしてコーラを飲んでいた。
「そうか。あれは何者だ?」
「ただの引きこもりです」
本当にそれ以上は知らなかった。少年は先生の本名も年齢も知らない。刑事の男性が現れるまでは奇抜な恰好の、妙に年よりくさい口調の引き籠りの少女としか思っていなかった。
「ただ、あの人曰く、自分は所詮、収集品なんだそうです」
女性の動きが僅かに止まった。空になったコーラの缶をローテーブルに置いて、軽い音がした。
「収集品?誰の?」
女性は如何にも興味津々という様子で瞳の中に新たな光が宿る。少年はその気迫に気圧されて、少しばかり後ろに仰け反った。
「ぼくも知りません。先生は“隣人”だとか言ってましたけど、それ以上は何も」
ここに集まってくるのは、とある人物の収集品だ。このアパートは、コレクションを入れておく箱とでもいう処かな?先生はそんなふうに言っていた。けれど、少年はその人物とは面識もなく、未だに誰なのか判然としていなかった。
「そっか。じゃあオレもそのコレクションの一つって事なのかあ…」
女性は後ろに手をついて天井を仰いだ。時代遅れの蛍光灯が丸い光の環を作っていた。その顔は今までのどの表情とも違う、不敵な笑みだった。
「他の収集品は、どんな面子なんだよ?」
「先生曰く、霧雨という人がいなくなってから、殆どどこかへ行ってしまったそうです」
「なんだよ、じゃあオレは選ばれたわけじゃないのかぁ」
女性は畳の上に大の字に寝転がったが、部屋がそれほど広くは無かったので、額を壁に軽く打った。少年は窓の外で雑草が少し残る裏庭の塀の奥で、オレンジ色に染まり始めた空を眺めながら口を開いた。
「そろそろ、帰って貰えませんか?」
「ひどいなあ、ツバメくんは。オレを見て何とも思わないのかね?」
女性はワンピースの胸元を少しだけ引っ張ってみせた。
「思わないですよ」
少年の素っ気ない反応に、女性は詰まらなそうに立ち上がると、そのまま2歩で玄関のたたきまで歩いて行った。ドアノブに手を掛けた時、女性はクルリと振り返ってニヤリと笑う。
「一応言っとくけど、オレにウソつくのはダメだよ?」
玄関のドアが閉まってから、少年は緊張の糸が弛緩した様にふっと息を吐いて肩の力を抜いた。どっと疲れが襲ってくるが、逃げようもない。静かになった部屋の中で、少年はポツリと呟く。
「霧雨花火って、誰なんだろう…」




