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獄(おのれ)【捕えられると抜け出し難い】

 注文していた恐竜の本が入荷したとの連絡があって、ワクワクしながら受け取りに行ったわたしが本屋さんから出てくると、同い歳くらいの女の子がじっとわたしを見つめて近寄ってきた。

「待っていたぞ咲由、オマエに頼みたいことがある」

「え? あ……あなた誰?」

「オマエのことは芽栄から聞いて知っている。いきなりだが頼みたいことがあってきた」

 女の子から出ている威圧感(?)は感じたことがないほど大きかったけど、圧迫よりむしろ包みこんでくれるような感じだった。

「た、頼みって、何を……?」

 尋ねると彼女はいったん目を伏せてから、もう一度強い瞳を向ける。

「吾の担う世界で勝手な行いを始めた者がいて、このままではバランスが破られかねない。そうなれば矛盾が生まれ他の世界にも影響が出て、修復とのイタチごっことなり、いずれ破たんする。

 他のものの手を借りたいところだが吾の担う世界に入れるものがおらず困っているのだが、オマエが手を貸してくれるなら破たんが避けられる」

 意味は分からなかったけど、彼女の瞳は真剣そのものだった。

「事態がのみこめんだろう、即答できんのも当然だ。説明する。その上で断るのならばキッパリあきらめるのでついてきてくれんか?」

 迷っていると、彼女は構わず歩き出し、どこへ行くのか分からないまま雰囲気に流されて後ろをついて行くうちに、周囲の空気が変化していることに気づいた。

 ……見えている町の景色は変わらないのに、まるでフィルターがかかっていくみたい。この感じ前にどこかで……と思っていると、彼女が振り返る。

「これから吾とは離れるな。でなければ守りたくても守ってやれず、命の保証はないぞ」

「え? ええ!?」

 本をしっかり胸に抱いて隣に並ぶと、彼女は両掌を不思議な形に組んだ。

「このように手を組むことで別の世界への鍵となる。組み方を変えれば開く世界は無限だ。本当はすぐにでも吾の世界に連れて行きたいところだがそうはいかん。まず正門より迎え入れよう」

 彼女の手が突き出されると、周囲が星のないまっ暗な宇宙空間のような光景に変わり、体が膨張して浮き上がるような奇妙な感覚に襲われる……。

「な、何? これ…………ひ、広い」

 ……無限の、空間……?

「オマエにはシールドが必要だな」

 別の形に組んだ手がわたしに向けられると、奇妙な感覚が治まっていく。

「こ、ここはどこ? い、いったい何が起こっているの?」

「この正門付近はあらゆる世界へとつながる場所であるゆえ。オマエが感じたのは、すべての世界から引き寄せられる力だ」

「どういうこと?」

「そうだな、例えるならここはあらゆる場所へとつながるインターネット上のホームに立ったとでも考えるがいい。そこでは誰もが『我を見よ』と主張しているだろう」

「……意味が分からない。あなた、本当に芽栄の知り合いなの?」

「もちろんだ。だがオマエの世界にいる芽栄は吾のことなどとうに忘れているだけだ」

「そ、それじゃあ知り合いじゃないじゃない……」

「そうかもしれん。だがオマエはすでに元の世界から切り離されており、吾以外でオマエを元の世界に戻せるものはいないが、オマエ自身を人質に取ったつもりはない。頼みを聞いてくれなくとも元の世界へは帰すつもりだ。言いかたは大げさだが安心しろ。オマエは元々暮らしていた世界に帰ってきただけなのだからな」

「この世界に、わたし……が?」

「芽栄と同じく覚えていないだけだ。いずれ思い出す」

「わ、わたしをどうするつもり?」

「言っているだろう、頼みたいことがあるのだと。そしてその頼みとは何かを聞いてくれとな」

 笑われてわたしは顔が赤くなる。

「では門をくぐるぞ」

 彼女の指すほうに目を向けると、何もないと思っていたところに巨大な門が現れる。

 まるで時代劇のお城に出てくる立派な木の門だけど、あまりの大きさにわたしは息をのんだ。見上げてもてっぺんなんて見えないし、左右も、どこまであるのか分からない……。

「オマエにはそう見えるか。ここには確かに吾らの世界との境界線があり、見る者の思いによってその見え方が違う。『思い』がすなわち形となる……オマエはこれからそんな世界に足を踏み入れるのだから、行うだけでなく、思うことにも注意するがいい」

 その言葉に緊張していると、彼女はわたしの肩にそっと優しく手を置いてくれた。

「心配せずともいい。オマエのことは本当によく知っている。誰にも危害は加えさせん。まずは『撰バヌ』にオマエを覚えさせなければならんな」

「えらばぬ?」

 聞き返したと同時に、門の中央から銀色の四つの玉が四本の槍で四角形に貫かれたような奇妙なものが、回転しながら飛んできた。

「オ帰リヲ歓迎イタシマス、王ヨ……オ連レノカタデスカ?」

「この者は吾の客人で、潤生咲由と申す者なり。歓迎を望む」

 選バヌは縦にクルリと回転する。

「王ノ客人、潤生咲由。歓迎シマス」

 巨大な門が開き始めるとまばゆい光があふれ出し、目がくらんだ。だんだん目が慣れて景色がはっきりしてくると……門の向こうはのどかな田園風景が広がり、桜が満開に咲いている。

「ここはオマエの祖父が暮らしていた田舎に似たところだ」

「う、うん……きれい」

 桜の美しさと一緒に懐かしさがこみ上げて、気持ちも落ち着いてきた。

「まずはこの世界の基本を説明しなければなるまい……あの桜の木の根元に座ろう」

 彼女の指した木のそばまでくると、桜はそれに応えるように花びらを舞い散らせる。

「さくら餅は好きだな?」

「え? うん」

 返事をすると目の前にさくら餅の乗ったお皿と急須、湯飲みがちゃぶ台ごと現われて、足もとにはいつの間にかゴザが敷いてあった。

「さっき、銀色の玉に王とか呼ばれていたけど……」

「吾はこの世界のうちの一つを任されているからな。それよりも、この世界は思いが形となる場所と言ったが、この餅や茶も吾が現れるよう望んだため現れたものだ」

「思いによって? 本当に思ったことが形になるの? わ、わたしにもできるかな?」

「できる。そういう世界にオマエはいる」

 試しに大好きな恐竜、パラサウロロフスを思い浮かべると、目の前にうっすらと見慣れた姿が現れる。

「あ、ホントに……!」

 だけど、叫んだとたん、それは弾けて消えてしまった。

「オマエは不馴れなのでまだうまくできなかっただけだ。では、次にこの場所がどんな性質を持っているのか説明しよう」

「う、うん」

 ……パラサウロロフス、惜しかったな……。

「思いが即ち形になる世界だからこそ、ここへきた者はたがいを相容れず多くの世界をつくり出し、住み分けをすることになる」

「世界をつくる? 住み分け?」

「例えば日々穏やかにのんびり暮らしたい者と、スリルに満ちた暮らしを望む者とはたがいの気持ちが合わんため同じところで生きることができない。

 穏やかに暮らしたい者は同じ思いの者どうし穏やかな場所をつくって暮らし、スリルに満ちた暮らしを望む者は同じ思いの者たちとともにそんな場所をつくり出す。ゆえにこの場所にはそれぞれの思いの数だけ無限に世界がつくられ、存在する」

「思いの数だけ……でも無限に世界があるっていっても、いったいどこにそれだけの場所があるの?」

「先ほど門をくぐる前に通り過ぎた場所があるだろう。あれがそのほんの一端だ。門から先は一つの場所だが、そのたった一つが無限の世界を持っている」

 意味が分からず首をひねると、王は笑いながらわたしの胸を指差した。

「例えばオマエの心は日々の暮らしの中で笑い、喜び、悲しみ、苦しみなど様々な思いを抱いているが、笑っても泣いてもオマエはたった一人の人間だろう?

 つまりこの世界とは一人の人間の心の内とでも考えるがいい。人間は一つの心の中で良いことや悪いことなど様々な思いを同時に抱いている。

 良きも悪しきも持っているのは、どちらをも持っておかなければたがいを比較することができないからだ。ゆえに、どちらが善でどちらが悪ということもない。右手に人さし指があるからといって、左手の人さし指を切り捨ててもいいとは思わんだろう?」

 思わず左手の指を握りしめた。

「でも心は頭にあるって……」

「ならば心で考えてみろ。心から喜び、感動し、そして悲しみ、期待に弾み、痛むところはどこだ? 胸が熱くなる、胸が痛む、胸に刻む、胸を焦がす……理屈ではなく昔からちゃんと理解しているではないか。だが吾は物理的な場所のことを言っているのではない。

 生き物の本質とは物理的な肉体が中心ではなく、心……つまりは意思が主体であり、それこそが世界を成り立たせているということだ」

「心が主体の世界……」

「そうだ」

 王は力強くうなずく。そうか、だからここだと思いが形になるんだ。

「この世界の性質が理解できたなら、別の世界を見せよう。百聞は一見にしかずだ」

 そう言って王が立ち上がると同時に、足もとのちゃぶ台が消えた。

「まずは、あそこがいいだろう」

 指を組み合わせて何か唱えたとたん、周囲の景色が変化した。


 ……そこは辺り一面、色とりどりの美しい花が咲き、日射し輝く高台だった。そよ風にはなんとも言えないかぐわしい香りが漂い、どこからか心和む音色が聞こえてくる。

「ここがオマエたちにとって、いわゆる天国と呼ばれる世界の一つだ。ここでは特に安らかな思いを持つ者が集まっている」

 夢見心地で見ていると、この世界に暮らしている人が王を見つけて足早に近寄ってくる。

「お久しゅうございます、王よ」

「変わりないか、ヴェンバよ」

「何もかもがあの当時のマリトバと同じです。民は皆、この国を愛しております。教えにあったとおり、まさに永遠のユートピアです」

「それは何よりだ。ところで、ここにいる咲由にオマエの国を見せてやってくれんか」

「喜んで」

 ……どうしよう、外国の人だ……緊張しながらヴェンバって人を見上げていると、すごく優しい瞳でわたしを見ている。

「……あれ、でも日本語で話しているけど」

 わたしの言葉に王は大笑いする。

「何を言っている。ここは心の世界だと言っているだろう。伝えたい思いは言葉に関係なく伝わる。ヴェンバにもオマエの言葉は彼のつかう言葉として聞こえている」

「え……?」

「咲由殿と申されましたな。王が直々に案内されるとは、よほど現世での徳を積まれたのですね。素晴らしいことです」

「え、現世……?」

 聞き返すと、今度はヴェンバさんが不思議そうに王を見る。

「咲由はまだ物理的な世界の住人で、わけあって吾が連れてきただけだ」

「そうでしたか、それではまだこちらのことをよくご存知ないのですね」

「おおよそを伝えたにすぎん。いかんせん吾の担う世界で急ぎの用があってな」

「それではゆっくりしておられませんな、咲由殿、見られるがいい」

 ヴェンバさんの指したところを見ると、空中に美しい景色が浮かび上がり、年齢や性別、人種を問わず、あらゆる人たちがにこやかに微笑み合って暮らしている光景が次々映し出される。

「これがこの世界の姿です。この時代を愛し、この気候風土を愛し、平和を愛している者たちばかりが集まる世界……ここは天国なのです」

「て、天国……本当の天国!? じゃ、じゃあわたし、死んじゃったの?」

「だから、オマエは死んでいない。 世界が変化したと言っただろう。オマエの死の考えと、現実の死はずいぶんと開いている。生命の基本はこちらの世界であり、オマエが生きている世界は一時的に暮らしている世界だ」

 大笑いする王と、ヴェンバさんに交互に説明されても……ともかく、わたしは死んでいないことだけは分かった。この世界を見せてもらったお礼を言って別れ、ゆっくりと歩きながら王は話を続ける。

「物質で凝り固まっている現実の世界は重く、深く暗い世界の底に沈んでいるため、このように意思のみの明るく軽やかな世界は想像しづらいだろう」

「わたしの生きている世界は、一番底に沈んでいるの?」

「逆の言い方をするなら最も濃密で堅固な世界であるといえる。それならば、考え方はまるで逆になるぞ」

 王はわたしの顔を見ながら微笑む。

「……そ、そうだけど……」

「先ほども言ったとおり、この世界にはあらゆる世界が存在する。それぞれにとって天国と思える最も暮らしやすい『心通わせる』世界だ。

 例えるなら、あるグループの中で自分一人だけが浮いてしまって、居心地が悪く、その場にいたくないという経験をしたことはあるか?」

「……ある」

 あのころは疎外されていたのではなく、わたしのほうが拒否していたから……。

「物理的な縛りのあるオマエたちの世界でさえそうなのだから、魂のみの状態になればもはや制約などない。ゆえに自らの心の赴くままの暮らしを続けることになる」

 ……だとすると、わたしにとっての天国へ簡単に行ける方法があるってこと……。

「断っておくが、天国となる世界へ行きたいからといって、自らはもとより、他の生き物の命を粗末にする者は天国へは行けんぞ。

 どれほど甘い夢を思い描こうとも、命を粗末にする者は、他のものからも己の命を粗末にされる世界へと赴くことになるのだからな」

 王に考えを見抜かれ、恥ずかしくなった。やっぱりそんなに甘くないんだ。

「さて、そこでだ……これから吾が担う世界を見せよう。オマエにはとても天国には見えないだろうが、そこに暮らす者にとっては天国なのだと考えてくれ。そして決して危害が加えられることはない。見るがいい、ここが吾の任された世界。天国の一つだ」

 王が両腕を突き出し、唱えたと同時に目の前の光景が変化する。

「ひっ!」

 ……どんよりした空の下、ゴツゴツした瓦礫が転がる大地が限りなく広がり雷鳴が時折鳴り響く……あちこちから火の手があがり、何千、何万もの人々がひしめき、争っている。

「ここは争うことでのみ、自らを見い出すことのできる者の集う天国だ」

「あ、争うことで?」

 コワゴワ目を開けて、もう一度その世界を見ても、やっぱり天国には見えない。

「……そうだな。オマエたちからは修羅の世界とも呼ばれている」

「修羅の、世界……?」

 確かにここは修羅の世界。争ってばかりの果てしない地獄……。

「何度も言っているだろう。ここは天国だ」

「……でも……」

「やつらは争いたがっている。争うことでしか自らを見い出せない者にとって、この争いの世界こそが天国と感じられる。でなければ争い続けられるはずがなかろう」

「争うことが、どうして天国……?」

「納得いかんか。ついてくるがいい」

 王が先にたって歩き始めたけど、足がすくんで動けない。

「安心するがいい、オマエの姿はやつらの目からは見えんし、触れることもできん」

 景色がグイッと争いの場に近づいて、王の手が一人の男の人に触れても、気づくことなく争い続けている。

「で、でも……」

「ならば、こやつを見ておけ」

 足もとに倒れている人の死体が指されたけど、見たくない……だけど、あれ、死体が消えていく?

「行くぞ!」

 有無を言わさず王はわたしを抱えて空に舞い上がり、人々が攻めてくるほうに飛び続け、やがて半透明のカーテンのようなもやが立ちのぼる中から、次々と人が出てくる場所に着いた。

「いま出てきたあやつを見てみよ」

 わたしは息をのんだ。さっき消えた人が傷一つない元気な姿で現れたから……。

「ここは争いの世界、争うことを望む限り幾度でも蘇り、再び争い始める。

 この世界に死は存在しない……ここだけではなく心の赴くままに生きる者は肉体という物理的な制約から解放されているゆえに、魂の欲するままに導かれ、永遠に生きる。心がそうあることを望んでいるからだ」

「でも……争い続けるなんて、ただ憎しみが増すだけなのに……」

「争いにも色々ある。ここは争うだけでなく、ともに争う者、仲間への信頼と倒れた者への悲しみを知る者たちの争いの世界だ。争いの憎しみを喜びと感じる世界もあるが……オマエは知らんほうがいい。

 うむ、まだ納得がいかんと言うのならば……次を見せよう」

 王はまたわたしを抱えてひと飛びし、消えかかっていた人を指す。

「こやつは今の争いで倒され、力の限り戦ったことに満足しながら死んだ」

「それじゃあ思いを残さず……死んだの?」

 死なない人に、死と言っていいか分からなかったけど、他に言いようがない。

「こやつの行き先を見せてやろう」

 風景が変化すると、青空があり、草木が生え、争いの響きのない廃虚跡が広がっていた。そこには今しがた消えた男の人が横たわっていて、本で見た昔のヨーロッパの農夫のような格好をしている。

「……む、うう、う~~~ん」

 男の人はうなり声をあげて目を覚まし、辺りの様子をうかがう。

「……ここは?」

「気がついたか?」

 手を差し伸べる王。

「ああ、俺はいったい……戦をやってたんじゃなかったのか」

「戦なら終った。今は村を復旧しようと皆で力を合わせて頑張っているところだ。この先にある村を手伝えば農地も分けてもらえるそうだ。行ってみるがいい」

「そりゃ助かる。しかしあんたは王に見えるが、この世界の王じゃないな。ここで何をやってんだい?」

「戦が終ったばかりで時々オマエのような者が現れるため道案内を手伝っている。村が復旧するには人手が多いほうがいいからな」

「そういうことか、ともかく礼を言うぜ」

「気にするな、まだまだ村には気の荒い連中がいるから気をつけるがいい」

「はっはっはー! 望むところだ!」

 男の人は笑いながら手を振り、王も手を振って見送った。

「分かったか? 争うことに満足したゆえ、平穏な世界へと導かれた。だが、まだ離れたばかりで争い好きは残っている。今のあやつにはこのくらいの世界が丁度ふさわしく、吾はすでにあやつにとっての王ではない、というわけだ」

「う、うーん。じゃあもしあの人がもっと争うことが嫌いになったら……」

「さらに自ずと求める平穏な世界へと赴く」

「……そうか……」

 争わなくてもいいようになれるんだ。

「本来ならば様々な世界を見せてやり、はっきり理解させた上でのほうがいいが時間がない。あとでゆっくり案内してやるゆえ、そろそろ吾の頼みを聞いてくれないか?」

「あ、そうか」

 そのために連れてこられたことを、あまりの目まぐるしさに忘れていた。

「わたしは何をすれば、いいの?」

 もう断れなくて王に尋ねると、すごく満足そうに笑った。


 王の担う世界に戻って示されたその先には、朱と黒のヨロイを着こんで馬に乗り、軍を指揮する猛々しい女の人がいた。

「あやつが勝手に軍勢を指揮し始めた。本来、こやつらすべての軍勢を指揮するのはこの吾なのにも関わらずだ」

「すべての軍勢を指揮?」

「争いたい者を争わせるのが吾の役目だ。あやつが現れるまでそれぞれが存分に争えるよう計らってきたのだが、あやつは計らいに従わず勝ち続ける指揮を始めた。

 そんなあやつに多くの者が賛同し、一大勢力として台頭してきている。バランスが崩れれば争いが終ってしまい、そうなれば争いを好む者の居場所がなくなる。

 だが吾は争いの世界の王であるため、争いをやめろとは言えん。それでは王として矛盾する……そこであやつの進撃をいったん止めてこの世界の仕組みを教えてやるしかないが、それには声をかける者が必要だ」

「…………わ、わたしが? どうして!」

「吾の周囲に集まる者は意識せずとも争いを好み、争いを始める。それが吾の役目だからな。だが、オマエには争うという感情がまるでない。争いの中にあって決して争わぬ者があやつを止めても矛盾は生じん。

 本来なら吾らの中からそのようなものを探すべきなのだが、オマエほど争わんものをここへ連れてくるほうが至難の技だ。意思のみのものがこの世界にくるには、争いを好む要素がなければならないのでな……いったん止めてくれさえすれば吾が話をつけよう」

「でも、どうやって止めればいいのか……」

「野営している場所に連れて行く。そこで争いを止めろと声をかけてくれればいい」

「そ、そんな大ざっぱな」

「オマエのひとことで、争うことができず苦痛を味わう数千万、数億の者たちが救える。頼む、やってはくれんか?」

「数億……そんなに助けられるなら……。やって……みる」

「助かるぞ。あやつの名はシュネシア。安心するがいい、オマエには決して危害を加えん」

 王の差し出す手を、わたしは力なく握り返した。


 野営を組み、大きな円卓を囲むシュネシアはいら立ちを隠せないでいた。

 これまで少数精鋭で敵を倒してきたが、活躍を聞きつけた兵が続々と集まったため指揮系統がそろわず、ただの肥大した軍隊に成り下がっているところに敵の矛先が集中している。特に昨日戦った人間と豹と鷹の三つの頭を持つ、クモの体の悪魔、バアルの率いる数万の魔獣には苦渋の敗退を強いられた。

「ええい! あのいまいましい悪魔どもめ。倒しても倒しても蘇ってきおって」

「兵には十字架を与え、神の御名において剣を振わせましたが、なんら効き目はなく……」

「そんなことは分かっている!」

 咲由には修羅に見えている者たちは、シュネシアにとって悪魔の姿に見えていた。

 彼女の軍にいる者どうしでも、それぞれ争っている方法や敵の姿は違って見えている。彼女が乗る馬は、ある者からはバイク、ある者には戦車、また、オーバーテクノロジーの兵器だった。

「味方を敵にもぐりこませられないのか?」

「敵に完全にもぐりこむとなれば、それは敵となるということです」

 当然の返事に、フンッと鼻から息を吐く。

「ともかく昨日の戦いで敵の出方は分かった。先兵隊のザコは弓で蹴散らせ。空を飛ぶものどもには大弓に油をしみこませた布を結び、火をつけて打ちこめば当らずとも布が絡みつく。その後ろの悪魔どもだが……ガリヌセラ、お前に任せる。率いる部隊も好きに選べ」

「はっ! ではワシ一人で」

 まっ黒のヨロイに身を包んだガリヌセラが進み出る。

「一人でよいのか?」

「他にいては足手まといです」

「よかろう、存分にやれ! そして後方にふんぞり返っておるバアルども大物の悪魔だが、この私が直々に……ムッ、何ものだ!」

 燃え盛る松明の炎が揺れた瞬間、シュネシアの剣が抜かれ、突然現われた者の首元に刃が突きつけられた。

 あまりの速さに腰が抜け、その場にへたりこんでしまった相手をしばらく見ていたシュネシアは、剣を鞘に戻し、鼻から大きく息を吐く。

「……誰かこの腰抜けに手を貸してやれ」

 荒々しく肩を担がれテーブルの椅子に座らされた者の怯える姿に、周囲の者たちはあきれる。

「どうやら誤ってこの世界に迷いこんだようだな……ここはキサマのような者がくる場所ではない。馬を一頭やる。さっさと自分の世界へ帰るがよい」

 うす紫の強い視線を向けながらシュネシアが片手を上げると、現われた侵入者……咲由の後ろに栗毛の馬が現れた。

「ち、違うんです。お、お話があって……」

 怪訝に眉をしかめ、なんの用かと目でうながされる。

「争いを止めて欲しいんです……」

 そのとたん、シュネシアの眉が跳ね上がる。

「戦いをやめろだと! キサマ敵か?」

「い、いえ……あの、そうじゃなくて……今の争いをいったん止めてほしいんです……」

「ここは争いの世界だ。そんな戯れごと聞く耳持たぬ。去れ!」

 シュネシアは拳をテーブルに叩きつけた。

「キサマはそれほどまでに戦いたいのだな?」

「何やつ! ……ウッ!」

 頭上から響いた声の主を見上げ、さすがのシュネシアも絶句する。

「答えるがいい、それほど戦いたいのか?」

「そうだ。私は戦いたい」

 現れた王に修羅たちが動揺する中、シュネシアだけは背筋を伸ばし堂々と対峙した。

「よかろう。では戦いを続けさせてやろうではないか」

「ここは争いの世界ではないのか? 戦うことが当然だろう、それがこの世界の王自ら戦いをやめろとはどういうことだ!」

「吾はやめろなどとは言っておらんぞ。戦いを続けたいかどうかを尋ねたにすぎん」

「……確かにそうであった。この世界を統べる王が、そうまでして私に用とはいったい?」

「単刀直入に言う。オマエは王の会議に興味はないか」

「王の会議?」

「そうだ。この世界全体の争いを決める重要な会議だ。参加してみる気はあるか?」

 シュネシアはちらりと咲由に視線を向けた。

「ならば、この娘は試しであったか」

 ……試し……?

「そのとおりだ。オマエがもしこの世界の住人でない者を傷つけるようならば、王の会議には参加できん。どれほど争いを好んでいようとも、矛先を向ける相手を取り違えるような分別なき者に、王たる資格などないのだからな」

「よかろう。王の会議、参加させてもらおう。部下たちはいったん引かせる」

 ガリヌセラを呼び、留守にするあいだ軍を訓練させておくよう指示を出す。その様子を見ながら、咲由は腑に落ちないものがあった。

 ……わたしを、試しに……?

 王は危害を加えないと言ったはず。もしシュネシアに王の資格がなかったとすれば……。

「オマエも会議に出るがいい」

 咲由の不安を無視しながら、王はシュネシアとともに会議の場所に案内した。

 そこに一歩足を踏み入れたシュネシアは顔色を変えた。名だたる顔ぶれの将軍がいることにではなく、最高位に位置する悪魔たちまでもが勢ぞろいしていたのだ……むろん中には、昨日戦った憎きバアルの姿もある。

「こ、これは……どういうことだ?」

 シュネシアは王に尋ねたが、王はシュネシアの肩に手を置き、説明を始める。

「今日から参加を許した者を紹介する。皆も知っていよう、クグス帝国を建国し東の帝国と戦い抜いたシュネシア女王である」

 説明に場はどよめく。

「これが王の会議だ。驚くことはあるまい、争いを望む者たちに戦う場所と機会を与えているのだからな。皆の者も座れ、シュネシアにこの会議の意味を教えてやるがいい」

 最も奥の一段高い玉座に向かう王にそう言われ、集まっていた者たちは席に座る……ただ一つ残る空席、シュネシアの席は一番末席にあった。

「ふざけるな! 何ゆえ争いの世界で話し合わねばならない!?」

 テーブルに強く手を叩きつけるシュネシアに、王が静かに語りかける。

「争いを好むゆえこの世界にきたのは分かるが、わきまえろ。それができると見こんだからこそこの場にくることを許しているのだからな」

「……そうであったな。うっかり身の振り方を誤るところだった……これほどのチャンスを逃す手はあるまい!」

 叫ぶと同時に剣を抜き、隣に座る悪魔に斬りつける! 油断していた相手は切っ先から逃れようとしたが、やられた! 誰もがそう思い席から立ち上がったが、シュネシアは剣をぎりぎり……悪魔の前に立ちふさがった者の首、紙一重のところで止めていた。

「キサマ、なぜ邪魔をする?」

 剣が引かれ、膝をガクガク震わせながら、咲由はペタッと尻もちをつく。

「答えろ!」

 シュネシアは厳しく問いつめる。

「わ、分からない。危ないって思ったら、ここにいた……から」

 まっ青になって答えながら自分でも何が起きたか分からず、恐ろしさでめまいがする。

「ははは、ここは思いの世界だ。咲由よ、オマエの止めたいという思いがシュネシアの剣より早かったということだ」

 笑う王を苦々しく見ながらシュネシアは剣を納め、咲由の腕を強く引いて立たせる。

「なぜ悪魔をかばう? こやつらの味方か!?」

「あ、悪魔……?」

 咲由が自分と悪魔を不思議そうに見比べる姿に、シュネシアは疑問を感じた。

「助けておきながら、この悪魔が見えないとでも言うのか?」

「あの、ここには白い服を着たおじさんがいるだけで、悪魔なんて……」

「何?」

 シュネシアはしばし悪魔をじっと見る。だがそこにいるのは曲がりくねった角と鋭い牙を持ち、二本足で立つ四つの赤い眼をぎらつかせた、まっ黒なケモノだ。

「そういうことだシュネシア。争いを好み、敵を求めるオマエの目には悪魔に見える。だが逆に、相手からもオマエの姿はまさに悪魔に見える……ここにいる者たちは皆、それぞれの生きていた時代、考え方によって、本人にとって最も争いやすい相手と争っている。ゆえにオマエの目に敵は悪魔に見え、争う気のない咲由にはただの人間に見える。

 シュネシアよ今一度心を静め、見わたすがいい。ここに集まった者たちは敵ではない。オマエが斬りつけた相手もまた、人間だ」

 うながされ、シュネシアは目を閉じて心を落ち着かせる。簡単には信じられないが、咲由の行動を考えて、少なくとも敵ではないと思うことにした。

 ……目を開くと悪魔の姿はなく、斬りつけた相手はヨロイに身を包んだ将軍だった。悪魔側の席を見わたすと、バアルでさえ堂々とした巨漢の大将軍に変わっている。

「……こ、これは……」

 シュネシアから殺意が消えた。

「ふむ、ようやく話ができそうだな」

「よかろう、敵と味方の大将軍が一同に集まる会議を見せてもらおうではないか」

 シュネシアはカブトを脱いで椅子にどっかりと腰を降ろし、咲由は彼女の左にあるそばの椅子にそっと腰を降ろした。

「それでは王の会議を執り行う!」

 会議が始まると、いつ、どの軍がどう争い、勝つか負けるか将軍たちから次々意見が出され、場は喧噪に包まれ、戦略と勝敗のすべてが決められていく。

 それは兵をコマに見立てて戦わせているのではなく、分け隔てなく思う存分に争わせ、満足させて、より上の世界へと導くための方法を相談し合う会議だった。シュネシアはその賑わいとは対照的に黙りこんでいる。

 ……私はこれまで自らの意思によって戦っていると考えていたが、すべてはこの者たちの計画によって戦わされていたのか……。

 屈辱のあまり歯を食いしばっていると、王がシュネシアの様子に気づいた。

「皆の者、ちょっと待て。どうやらシュネシアが思い違いをしているようだ」

 将軍たちが一斉に彼女を見る。その中で憎きバアルであった大将軍が咳払いをした。

「どうやらそなたはこれまで我々に戦わされていたと考えているようだが、安心されるがいい。王の会議に参加できる者は自分の意思で戦うことができる者だけなのだ」

「ならば私はやはり自らの意思で戦ってきたと?」

「でなければあれほど勝ち続けることなどできない。争いを好む者には勝利の喜びと敗北の絶望をバランスよく与えて、争いの気持ちを満足させてやらなければならない。だがしかし、勝ちたい欲には限りがなく、勝つばかりでは成長もない。

 そこで本人に気づかれないよう少しずつ勝利よりも敗北を増やしてやる。負けて痛みを知ればこそ虚しさや痛みが身にしみて、慈悲の心を取り戻す。そのように導くのが我らの役目なのだ」

 まさかバアルから争いの虚しさを語られるとは……さすがのシュネシアも苦笑する。

「よかろう。それが私の役目であるならば担おう。しかし、私とバアル殿との戦いは実力で勝負させてはくれないか」

「実はわしもそうしたいと思っていた」

 提案に一同は困惑する。それではこの会議での取り決めの意味がなくなる。

「よかろう。オマエたちが争いに満足するためには、それが最も早いだろう」

 二人は嬉しそうに向かい合う。

「再び相まみえる時、憎き悪魔ではなく大将軍バアル殿として戦おう」

「望むところだ。わしもまた新興勢力として台頭してきた魔物の集団ではなく、クグス帝国を率いたシュネシア女王としてお相手する」

 争いを望みそれを幸福とする者たちは、ライバルを得たことに目を輝かせる。


「礼を言うぞ咲由。シュネシアが納得したためこの世界の秩序は守られ、一からつくり直さずにすむ」

 会議が終り、一人残った咲由に王は話しかけた。

「オマエは吾がシュネシアの試しに利用されたと考えているだろう。確かに試しではあったが、ああなることは分かっていた。シュネシアはオマエを傷つけることはできないのだからな」

「わたしを、傷つけ……られない?」

「どうあってもな。でなければシュネシアを止める役目がオマエでなくてもよかろう」

「どうして……わたしが?」

「教えてもいいが、オマエ自身の世界での生活に影響してしまうぞ」

「わたしの世界の生活に影響?」

「こちらの世界とオマエの世界は密接につながっている。言うなれば紙の表と裏だ。この世界でオマエが余計なことを知ってしまうと、オマエの世界に戻ってからそれに見合う面倒に巻きこまれるだろう。それでもよければ教えてやるぞ」

「ううん、だったら聞きたくない……でも、どうしてあの人たちはあれほど争うことが好きなんだろう、争うなんて……そんなこと……」

「生まれた時から争うことが当たり前であれば、疑問を感じるヒマなどない。そうなれば争いの中でしか自分を見い出せなくなる者もいる。オマエたちの世界の多くも毎日、経済戦争という名で他人の財産を奪う争いを続けているではないか。形こそ違え、人間は他人と競うことを好むのだな。それは、まだ仕方あるまい……。

 それより約束どおりこの世界を案内してやろう……と言うても、ここは無限の世界で構成されているゆえすべての世界を案内することはできない……例えば六道というものを知っているか?」

「りくどう……?」

「仏教の教えにあり、人間が死後どのような世界に行くか説いたもので、大まかに六つの行き先が示されている。生きているあいだに徳を積んだ者は極楽……天界と呼ばれる世界へ行く。先ほど会ったヴェンバが暮らすような穏やかで平和な世界だ。

 その下に人間界があり、極端に似た者どうしが集まっている以外はほぼ変わらん。その下に吾の担う修羅界があり、見たとおり争い続けている。この下に畜生界、餓鬼界、地獄界がある」

「地獄……」

 ……地獄なんて……きっと恐ろしい場所に決まっている。あんまり見たくない。

「心配しなくてもいい、吾が案内するのだから危険はない。まずは先ほどとは違った天界を見せてやろう」

 王が両腕を伸ばすと、なんとなく懐かしい光景が現れる……日本ではなく、アジアのどこかの街並みで、通りを歩く人たちも心なしかのんびりしている。

「ここにはちょっと変わった者がいるのでな」

 王の姿を見かけた人たちは、誰もがにこやかに手を振り、王もまた軽く微笑んで手を上げる……そういえば、ここにはやけに子どもが多いようだ。

「みんな知り合いなの?」

 わたしも雰囲気につられて微笑みながら、そっと王に尋ねてみた。

「彼らは吾が王の一人であることを感じられる。だが吾はこの世界の王ではない。その意味で彼らと同等であり、ゆえに誰もが好意的だ。着いたぞ、ここだ」

 王は石造りの小さな家の前で足を止めた。

「チャンはいるか」

 木の扉を叩いて呼びかけると、にこやかな中年の男の人が顔を出した。

「これはこれは、王ではありませんか。よくいらっしゃいました。どうぞ中へ、どうぞどうぞ」

 男の人は丁寧に招いてくれる。家の中にはもう一人、奥さんがテーブルに腰かけていた。

「王ともう一人のお客さまだ、お茶の用意をしてくれないか」

 奥さんは微笑んで奥へ行き、その入り口からは好奇心いっぱいの瞳がのぞいている。

「さあさあ、お前たちも王にごあいさつしなさい」

 奥から飛び出してきた二人の子どもたちは王の前にならんで、元気にあいさつした。

「相変わらずだな」

 手をとって甘える子どもたちを見る王の表情は、争いの世界にいた時と違ってとても優しい。

 お茶が運ばれ、ひと息くつろいでからチャンさんはおもむろに口を開く。

「ところでそちらの娘さんは? うちで預かるお子ですか」

「えっ!?」

「そうではない。この者は吾のためによく働いてくれたので世界を案内している途中だ。オマエにも会わせたくてな」

「それはそれは、王に案内されるほどの働きをされた方とお会いできるとは光栄です。私はチャンと申します」

 にこやかに手を差し出すチャンさんに戸惑いながらも、笑って握り返して自己紹介した。

「咲由にオマエが生きていたころの話を聞かせてやってくれないか」

「いえいえ、私には自慢できる話など何もありません。ただできることをさせていただいただけです」

「ここにくる者たちは皆そう言う。平凡であって構わん」

「そうですか。さてさて、退屈されなければよいのですが……実は私は、捨て子だったのです……」

 お茶をひと口飲んで、チャンさんはポツリポツリと話し始めた。

 わたしが生きている時代よりもはるか昔、チャンさんはある街で生まれ、捨てられた。彼を拾ってくれた夫婦がいくら探し回っても本当の親はとうとう見つからなかったそうだ。

 その夫婦は裕福じゃなかったけど、彼を実の子として育て、成人してから本当のことを告げられたチャンさんは、貧しいながらもここまで育ててくれた両親に感謝して、これまで以上に親孝行をすると決めた。家業を継ぐと商才があったため家はどんどん大きくなり、両親にも楽をさせられるようになった……。

「……商売が軌道に乗ってから、私は考えました。当時その街を牛耳り、周囲の国々へ支配を広げていたショウという王のために、人々は重い税に苦しめられ私のように生まれても育てられずに捨てられる子どもがたくさんいました。そんな子たちをどうにかして助けられないものかと……」

 そこでチャンさんは稼いだお金を投じて子どもたちが暮らせるお屋敷を建て、読み書きを教え、職に就けるよういろいろな技術を学ばせることにした。それを生涯続け、死後も続けられるよう多額の遺産を残したという。

 ……何でもないように言うチャンさんだけど、それがどれほど大変なことか……。

「ですから、私はとても幸福なのです。こうして死んだ後も、子どもに優しい世界にくることができたのですから」

 チャンさんは子どもたちの頭をなでながら目を細める。

「この子たちも実の子ではありませんが、ここは魂の世界。血のつながりより魂のつながりのほうが強いのです」

「じゃあ、この子たちも捨てられた……の?」

 尋ねていいかどうか……だけどチャンさんはわたしに優しい目を向ける。

「物理的な世界ではそうかもしれないですが、この世界はそうじゃない。ここでは誰もが必ず誰かの親になり、子になる。そういう世界なんですよ」

 笑顔満面の子どもたちを見ながら、チャンさんはおいしそうにお茶をすすった。


 チャンさんの家を後にすると王は歩きながら微笑む。

「……幸福そうであっただろう?」

「うん、こんな世界にこられるなんてすごい人だと思う」

「そのとおりだ。だがチャンは本来、天界にこられるような者ではなかった。あやつは有史以来、人間として極めて珍しい体験をしたため天界に暮らせるようになったのだからな」

「珍しい体験?」

「あやつはチャンと名のっておったが、本来の名をナツという。街を牛耳っていたショウが現れるまで当の本人が街を支配していた。だが、そのことは何も覚えていない」

 首をひねると、横目でチラリとわたしを見て、王は続ける。

「街を牛耳り、欲の権化と化していた晩年のナツはある日、赤子に若返った。道ばたで拾われたところで親が見つかるはずもない。

 だが拾われた家で貧しいながらも愛情こめて育てられたため、他人へも慈悲の心をかけられる人間として成長できた。そのことがなければナツは欲の権化のまま畜生界へと赴くはずだった」

「赤ん坊に若返るなんて、そんなことあるはず……」

「もちろんオマエたちではできん。だが、思いがそのまま実現する世界に暮らす吾らであればできない芸当でもない」

 ……そんなことまで、できるなんて。

「さて次の人間界と修羅界は飛ばしてもよかろう。その次は畜生界だが……その前に、そこに暮らす者の視点で世界を見せよう。でなければ理解し難いのでな」

 王はわたしのまぶたにそっと手を触れてから両腕を組んで突き出す。

「ここが畜生界と呼ばれる世界の一つだ」

 思わず顔が赤くなった。うす暗がりの中でところ構わず交わっている人たちの周りには、豪華なお料理がところ狭しと並べられ、人々が笑いながら飲み食いしている世界……。

「こ、これが……畜生界?」

「そうだ。ここに暮らす者にとっての天国だ。畜生界と呼ばれていても、あくまで比較した場合そのように見えるだけなのだが……では、真の姿を見せてやろう」

 王の手がまぶたに触れ、目を開いたとたん吐き気に襲われた。

 豪華に見えたお料理や飲み物は得体のしれないドロドロの汚物で、それを食べ続ける人たちは笑っていたのではなく、いくら食べても満たされず、まだ足りないと怒鳴り散らしている……。

 王に背をひとなでされると吐き気は治まった。改めて見わたすと、人々は交わりながら相手に不平不満を言い、自分の快楽ばかりを求めている。

「ここは畜生界でも中層に位置する場所だが、これが概ねこの世界の実態だ。見た目だけは美しい食べ物でもその正体は得体のしれんものばかりで、それを食らう者は自らを生かしてくれるものに対しなんの感謝もないばかりか、不満ばかりを並べ立てる。

 快楽のみを求める者たちも同様だ。それが命を産み出す行為であることを考えようともしない……だが似ているとは思わんか?」

 ……何にだろう?

「運ばれた経緯や扱われた方法も分からん肉や野菜や、それさえ入れれば見た目が良くなり不自然に日持ちする添加物で固められた食べ物や、化学物質により次々開発される新しい味や香りを生涯を通じてとりこみ、次の世代にどう影響を及ぼすか分からない利益優先の食べ物を口にしていることに……。

 また、知り合った直後、簡単にセックスをすることが当たり前と考えている者や、金に飽かせて欲を満たす相手をあさる者など、今のオマエが暮らす世界に、似ているとは思わんか?」

 確かに安全や偽装が問題になっているけれど、そんな大きなことを言われても……。

 だけどもちろんそんな人ばかりじゃない。芽栄やボランティアで知り合ったたくさんの人たちを思い出すと、あの人たちがこんな世界に似た現実の世界に暮らしているなんてつら過ぎる。

「吾はとがめているのではない……物理的な世界が畜生界となったのでは、誰もが畜生界にしかこなくなる。それではなんのために生まれたのか分からなくなるのでな」

 意味が分からずに王の顔を見ると、どこか寂し気だった。

 ……この世界には、ショウの手下として働いたカンもいた。彼はショウの宰相として巨大な権力を余すことなく使い続けた。生きているあいだずっと畜生界と同じ生活を続け、死んだ今も限りなく繰り返している……。


「では次に餓鬼界を見せよう」

 王はまたまぶたに触れてから、組んだ両腕を突き出す。

 ……そこは見わたす限り金銀財宝でできた山が林立し、火山の火口のような中に一人ずつ人がいて、宝石や金貨、札束を手にして大喜びしていた。

「ここがなぜ餓鬼界か分かるか?」

 飢えて苦しむ姿とはほど遠いけど……。

「……もしこれが畜生界のように比較すると裏返しの世界だったら……財宝が満たされているだけで、他は何も満たされていないのかも」

「概ねそのとおりだ」

 まぶたに触れられると、ガラリと景色が変化する。どんよりと暗くジメジメした場所で、食べる物もなく骨と皮だけの裸の人たちが、すぐに砕ける薄っぺらな丸い茶色のものを、いかに人より多く集められるか……他人が必死で集めたものを奪い、守り、寝ることもできず隙を見せると容赦なく奪われていく世界だった。

「餓鬼界にもいろいろあるが、ここは物欲と名声欲が強く、金こそ絶対と考え、成功者となるためにあらゆる者を踏み台にして、他者の財を搾取し続けた者がやってくるところだ……ショウはここにいる」

 王がそばに近づくと威圧に耐えられないのか、みんなは奪い合いをやめて苦しみながらあたふたと暗がりへ逃げ出していく。

「ショウよ待て!」

「ひぃ……ひいいい……」

 王の一喝にここにいる人の中では珍しく、うす黄色の布を腰に巻いた人が足を止めて悲鳴をあげながら体を硬直させた。

「巨万の富を得て東の帝国を築き、何不自由ない生活をしていたが、その心の内は権力を奪われる不安と、命を狙われる恐怖で、ひと時も心の休まることがなかった。やがてその疑心暗鬼は国の民、城の者、家族へと向けられ、すべての者が不審に思え、多くの無実の者を処刑していった。

 誰も信用できないこやつに近づける者がいなかったため、風邪をこじらせ床から起きられないまま餓死しているのが発見されたのは何日もたってからだ……」

 無実の人の処刑なんてもちろんいけないけれど、人が恐い気持ちは分かる。あのころのわたしは、お母さんが持ってきてくれる夕飯がなければ何も食べずにいた。それでも飢え死にするまで放っておかれはしなかったと思う。

 ……この人は、それほどさみしい人だったんだ。その上、こんな世界にくるなんて。

 思わず涙があふれたとたん、骨と皮ばかりだったショウって人の体が少し肉を取り戻し、うめいてばかりだったノドから声が絞り出された。わたしは驚いて思わず王にすがりつく。

「ここは思いの世界。肉体を持つオマエの心が通じたのだろう。ショウよ、行っていいぞ」

 王に言われてあたふた逃げて行ったけど、わたしたちから見えるギリギリのところで振り返り小さく頭を下げて、また走って行った。

「オマエのおかげで救われるまでの時がかなり縮められた。あやつに代わり礼を言うぞ」

「え? どうして……」

 意外に思い尋ねても、王は何も言わずわたしのまぶたに触れる。

「そして、これが世界の最下層、地獄界だ」

 目を開いたわたしが見たものは……。

「……こ、ここが……地獄?」

 王は大きくうなずく。

「どうして……ここが?」

 そこにはぼんやりとした虹色の光の中で、何百、何千もの人、一人ひとりが、ふわふわ浮かぶ玉の中で穏やかな笑顔を浮かべて眠っている、まるで天国のような光景があった。

「ここにいる者は皆、幸福だ。自分一人に引きこもり、現実の物事に一切背を向けている者たちの世界だ……身に覚えがあるだろう」

 ゴクリとノドが鳴った……。

「では、この世界の正体を見せよう」

 わたしにとって天国だった世界の本当の姿とは……ほとんど何も見えない暗闇で、異常に低い空に圧迫されて息苦しい。何もない荒れ地には無数の細い穴が掘られ、その中には身動きできない人が一人ずつはまりこんで口々に苦しみの声をあげていた。

「ここは自分の心の落とし穴にはまり、いくらもがけども決して脱することができなくなってしまった者たち……現実に引きこもらなくとも周囲との人間関係がそんな状態になってしまっても、ただ悲鳴をあげるだけで何もできずにいた者たちの世界だ」

「……わたしも、あのままならここにくることに、なってた……の?」

「そうだな。オマエも似たような世界に赴いていただろう。身動き一つできない暗闇の中で自分の空想にひたり、あたかもそこが天国であると信じながらな」

 ゾッとした。比較しなければそこがどんな世界かも分からずに天国になるなんて……。

「今のオマエがいずれどのような世界へ赴くかは分からんが、物理的な世界での生き方をよく考えることだ。行うことだけでなく、心の中に思い描くことも含めてな……最後にもう一つ見せたい地獄がある」

 今度はまぶたに触れず腕を突き出すと、そこにはボロボロのヨロイを着た老人が座り、折れた剣をノドに当てている。

「王よ、ヴェンバよ。心配めされるな。このフィルがお供させていただきましょう!」

 叫ぶと同時にノドをかき切り、ゆっくりと倒れこむ……わたしは悲鳴をあげて王の背後にまわって固く目をつぶる。体が震えて止まらない。

「刺激が強過ぎたか」

 背中をなでられると震えは治まった。

「ここは自らを殺した者の世界だ。こやつはもう四〇〇年以上も自決を繰り返している……見ろ、また首をかき切ろうとしている」

 そっと王の背中から顔を出すと、倒れたばかりの老人が、起き上がって折れた剣をまたノドに当てている。

「こ、こんなヒドイこと、いつに! なったら終る……の?」

 目を閉じていても叫び声と倒れる音が聞こえてきて、さっきの姿を思い出してしまう。

「どんな思いを抱いて死のうとも、自らを殺さなくてはならないほど苦しんだ者、命を粗末にした者はここへくる。生きる望みを取り戻せば終るかもしれんが、大抵はそれができん。

 覚悟を決めての自決だが、こやつが王と呼んだヴェンバとは天界で会っただろう。あやつは心豊かに死んだためあそこに行き、こやつは自らを殺したため、ここにいる……この場こそが真の地獄と呼べるのだろうな」

 改めてゾッとした。もし自分で命を断っていたら、いつの間にかいなくなるどころか、死に続けなければならないなんて。

「だが、心配あるまい。オマエはすでにその気はない。ここを見せたのは魂の世界の法則を知ってしまったゆえに、早々に物理的な世界から逃げ出そうとしないためだ。そんなことをすればどうなるか知っておいたほうが生きやすい……誰しも本当の意味で永劫の苦しみを味わうのはたまったものではないからな。

 ただし救いがないわけではない。こちらの世界と物理的な世界は影響し合うと言っただろう。こちらだけで変化することはまず無理だが、オマエたち物理的な者の側から救いたいという強い思いは、ここにいる者たちが救われるまでの時間を短縮させる。先ほどのショウのようにな。

 ……ふむ、ではそろそろ戻るとしよう。オマエもいろいろあって疲れただろう、いったん吾の世界に戻るぞ」

 言葉と同時に争いの世界へと移っていた。

 周囲から雄叫びや爆発音も聞こえるけど、なんとなくホッとする。この世界には、わずかだけどまだ草が生えている。

「飲むがいい」

 王の差し出すコップを受け取って水をひと口。よく冷えている。

「……おいしい」

 喜ぶわたしに微笑みながら、王も竹筒から水を飲んだ。


 ……そうしてはいても王の目には担う世界が常に映り続けている……シュネシアとバアルが再び戦いを始めていた。

 増えたとはいえ数で劣るシュネシアの軍だったが、今は統制がとられ決してひけは取らない。むしろ混戦すればバアルのほうが厳しい戦いを強いられるかもしれない。その中でも剣士ガリヌセラはとりわけ強い。

「退け! 退けえーーーーー!」

「相手はたった一人だ、退くわけにはいかねえな」

 バアルの軍勢がたった一人に恐れをなして退きかけた時、細長い斧のような剣を持つ剣士が進み出る……すでに歴史からその名すら失われたマリトバの剣士スピラスだった。

「むっ! キサマは!」

「てめえは!」

 たがいに気づいた二人の剣が重なる。

「会えると思っていた」

「待ちくたびれたぜ」

 懐かしそうなガリヌセラの剣の向うから答えるスピラス。

「赤い翼の剣技、存分に味わうがいい!」

「同じ手は二度と喰わぬわ!」

 ……二人はいつ終るともしれない争いを楽しみ始める。

「……まだまだ、だな……」

「え?」

「なんでもない。ここにも懲りん者が多くてな」

 王の寂し気な瞳に、わたしはそれ以上聞かないことにした。

「……ではそろそろオマエの世界へ帰してやろう。だがここでの記憶は消させてもらうぞ」

 驚いて王の顔を見直した直後、体から力が抜けて意識が遠のいていく……。


「……ここでの記憶は消させんぞ」

 ひざを落として倒れこんだ咲由を受け止めた腕の中から突然声を発したものに、王は眉をひそめて顔をのぞきこむ。

「咲由ではないな、何者だ?」

「その問いを、自ら尋ねるものである」

 咲由であったものが答えたとたん、王は口をあんぐりと開き、おもむろに吹き出した。

「ははは、そうか、そうであったか。それならば何もかも合点がいく」

「合点がいくとはどういうことか?」

 笑い続ける王の前に、咲由の姿をしていたものが『彼』の姿に変化しながら予想外の反応にいぶかしげに尋ねた。

「早速質問か。変わらんなオマエは」

 そう言いつつ本当に嬉しそうに笑い続ける王自身、この世界を任されて以来、これほど笑ったのはいつだったのか思い出せずにいた。

「なぜ咲由に争う意思がないのか不思議だったが、オマエとつながっていたのなら当然だ。物理的な世界の争いなどオマエに興味などないのだからな。咲由につながるものが見つからんはずだ」

「……つながるとはどういう意味だ?」

「言葉通りだ。意思の世界と物理的な世界、それぞれに表現の違いはあるが、同質のものが両方に現れてバランスをとっていると考えればいい」

「……ならば咲由とは吾自身か?」

「知らんままきたのか、大したやつだな。ならば……いつここへこられると分かった?」

「今しがただ。咲由がこの世界にきたため知ることができたのであろう。吾自身、ずいぶんと驚いておる」

「それならばおかしさは半減だな。古代アフリカで出会って以来、とぼけ続けてくれていたのかと思ったぞ」

「人間に対してならばそれも面白かろうが、ヌシに対しそのようなことはせぬ」

「やはり変わらん。その生真面目なところなどまったく」

 生真面目と言われ彼は不満の色を浮かべる。

「吾の空間に入りこんだのも、つながる者であったからか……あの時は微塵も感じなかったが」

「両方の世界にいるべきものが一方に片寄っていたからだろう。逆とはいえ両方にそろったためオマエはこの世界にくるすべを思い出したと言うわけだ。それで、いい加減にあの問いの答えは見つかったのか?」

 腕を組んで尋ねる王の質問に、彼は言葉に詰まる。この星に息づく自然と、生き物たちは愛している。しかし、人間は王の期待する答えとはほど遠い。

「吾にとって人間とは……永劫の時を過ごすための退屈しのぎの相手にしかすぎぬ。弱く、はかなく、富み、落ちぶれ、勇み、すぐに落胆する。そんな愚かな者たちを愛しているとはとても言えぬ」

 仕方なく重い口を開いた彼を王はマジマジと眺め、おもむろに笑い出した。

「ははは、そうか、そうか。いや、それほどとは思わなかったぞ」

「ふん、期待には沿えなかったようだな」

 予想外の王の反応に彼は眉をしかめ、ぶぜんと言い放った。

「それがオマエの答えならばそれでいい。まあ好意的に受け取るなら、人間はお気に入りではある、といったところなのだろう?」

「……それならば、そうかもしれん」

 微笑みながらのぞきこむ王から顔を背け、口をへの字に曲げながら認めた。

「ならばオマエは正しかったと言える」

「初めて会うた時もそう言っておったな。しかし、吾の何が正しかったのか」

「そうだな、答えは出たのだから、約束どおり何が起こされ……そしてオマエが何ものなのか、すべてを教えよう」

 王は真剣な瞳をまっすぐ彼に向けた。

 数百万年ものあいだ探し続けた答えが明かされることに、彼も表情を引きしめる。


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