環(れんさ)【流転しなければ不和となる】
ある東の島国に暮らす村人たちは、シカやサルによる作物の被害に頭を悩ませていた。
交代で見張りに立ったり、ワナを仕掛けたり、柵をつくってもみたがどれも効果はなく、被害は広がる一方だった……。
「なんてこった、畑がひどく荒らされてるじゃねえか!」
「おめぇんとこもか。うちもヒドイもんだ。この村にもとうとうきやがったか」
「二つ向こうの村じゃあ、イノシシにかなりやられたって話だ。このまんま冬を迎えたんじゃあ、おらたち村のみんなが生きていけなくなるぞ」
「こうなったら『かがし』を立てて、大口の真神さまをお呼びしねぇとな」
村人たちは集まって相談し、畑の中に台をつくってシカの毛や肉を焼いたものを乗せておく……仲間の焼かれる臭いに怯えて近寄らせなくする一方、山の神の遣いである大口の真神と崇めるオオカミを匂いでおびき寄せてシカやサルを食べてもらい、被害が抑えられることに期待した。
新天地に希望を抱いてこの土地に渡り住んできた村の者たちは、力を合わせて森を切り開き、牧草の種を蒔いて、やっとのことでつくりあげた牧場に、またオオカミが侵入して大切なヒツジが襲われたことに憤慨していた……。
「なんてこった! またいまいましいオオカミどもに大事なヒツジがやられた!」
「ああ、なんてことなの! せっかく苦労して拓いた牧場なのに」
「パパ、ママ、また悪いオオカミが出たの? ボク恐いよ。このままじゃ村のみんながオオカミに食べられちゃうよ」
「大丈夫だ、安心しろ。こうなったらオオカミどもを皆殺しにするしかない!」
村中の男たちが集まって相談し、もうこれ以上大切な財産を失わないためにも、オオカミを見つけたら例え子どもであっても迷わず撃ち殺し、この地から根絶やしにすることを誓い、銃を手にした。
……彼は同じ生き物がそれぞれの土地に根差す文化によって、まったく違った扱いを受けていることにため息をつく。
今、見ているのは前者の土地に暮らす、二頭の息子を連れてこれから狩りに出かける一頭のオオカミだった。人間ではなかったが、そのオオカミの思いは彼の中に流れこんでくる……彼はオオカミの過去、現在、さらに未来を知ることができた。
……一歳になって父と母のテリトリーを離れ、時にほかのオオカミのテリトリーに迷いこみそうになりながらも必死で生き延び、やっとたどり着いたこの土地でめぐり逢った妻とともに、子どもをもうけるようになってから、もう長い。
今年も二人の娘が旅立っていったが、同じ年に旅立った仲間たちの子どもすべての中で、生きて新しい生活場所を見つけられるものは半分しかおらず、娘たちがその中に入ってくれるかどうかは、分からない。
……が、それはオレや獲物となってくれる生き物たちと獲物の食べる草木にとって一番いいことだ。そうやってオレたちはずっと自然の恵みを受けて生きてきた。これからも、そう生きることが自然のあるべき姿だ。
……獲物にするものは病気か、一番弱い子どもだが、そうすることで群れの中に病気がまん延することを防ぎ、弱いものを除くことで群れは健康で強いやつが残ることになる……どちらにとっても結果的に繁栄する理想のカタチだと思っている。
……オレの後ろには、去年生まれた息子たちがついてきている。狩りといっても、最近になってニンゲンたちが肉を焼いて獲物のいる場所を教えてくれるため、そこで待ち、やってきた群れを追い立ててしとめればいい……が、逆に息子たちにキビシイ狩りができなくなるのではないか、少し心配だ。
《……そうだ。そちたちがいることで、そちたち自身、そして、そちたちに狩られるものたちさえも繁栄が約束されていた》
誰かの声が聞こえたとたん、まっ白でまっ暗な、音のない世界……のような場所にいた。
……なんだ、誰だ?
《驚かせたか、吾はここにいる》
……なんだこいつは、いつから正面に? ニンゲンそっくりだが、何ものだ?
《その問いを、自ら尋ねるものである。そちこそ何ものであるか?》
……オレはこのテリトリーの主、ムク、ムーク、ムーなどと呼ばれている。
《呼ばれているだけで、それは正しく自らを表現しているわけではないのであろう。それでは自分の存在に疑問を感じることはないのか?》
……? 言っていることの意味が分からん。オレはオレ以外の何ものでもない。オレはオレとして生まれた時からオレだ。
《おのれ以外に自らをあてはめるのは無意味ということか……そのように率直に考えられのは、うらやましくもある。しかし、幾つも呼び名があっては不便ではないのか?》
……オレはオレしかいないし、それらしいものに答えておけば不自由もしない。
《……そうか、ならばムクよ、そちは人間を襲うつもりはあるか?》
……ニンゲンを? あるはずがない。オレだけじゃなく我々オオカミはニンゲンの恐ろしさをよく知っている。襲うようなバカなマネは誰もしない。
《そうだ。そして人間もそちたちに牙は向けぬ。これまではな》
……どういう意味だ?
《そちは知らぬだろうが、アメリカやヨーロッパと呼ばれる土地では、人間が自分たちのために森を切り開き、そちたちのすみかを奪いヒツジやウシを飼い育てて生きている。
突然すみかを追われ、食べ物を失ったそちたちの仲間は、奪われた土地に放たれ逃げ場のない柵で囲われた最も狩りやすい獲物を狙う。しかしそれは人間から見ると財産を奪う略奪者に見えるため、武器を使ってそちたちの仲間を殺す。
そして、農耕文化のこの国は今後、アメリカやヨーロッパから流入する狩猟文化のイメージが深く根づき、そちたちは人間によって根絶やしにされることになるのだ》
……言っていることが分からん。が、その話では、ニンゲンはあまりに身勝手ではないか。オレたちの生き方はその土地に暮らす上で、最も自然のバランスがうまくいくよう厳密に取り決められている。
《そうだ。あまりにも身勝手だからこそ地上を制覇する。それが自らの首を絞めることになろうともな》
……どういう、ことだ?
《その土地が長い年月をかけてつくり出した生き物どうしの関係という自然のバランスを崩してしまえば、その矛先は自ずとその地に暮らす生き物に向けられる。
人間がオオカミを滅ぼしてしまうことで自らの首を絞めていたことを知るのは、何十年後も先のことだ。もはや手後れとなったその時になって、初めてそちたちの自然の中における役割の大切さが身にしみるだろう。
そのバランスを崩壊させる最初の種……きっかけとなるのが、ムク。そちだ》
……オレが!? そんなはずはない。バカバカしい。なぜだ?
《それが役目なのであろうな》
……自然のバランスを乱す役などごめんこうむる。オレは自然に従って生きるつもりだ。
牙をむき出して威嚇したが、やつはオレに寂し気な視線を向ける。
《食物連鎖の頂点にいた生物がいなくなると、それより下の生物の数がコントロールできなくなる。
つまりシカやサルの数を人間がいくら抑制しようとしても本来その役目を負うものでないため限界があり、増え続けるそれらの生物たちは、自分が生きるため次の年に芽や葉を出して新しい命を育むものさえも根絶やしにしながら、移動してまた新たな土地の草木を食べるだろう。
木々が枯れると、種が新芽を出す苗床の役割を果たす根元のコケ類にまで直射日光が届き枯れてしまい、新たな木の芽が生えることがなくなる悪循環が繰り返され、森全体がやられてしまうのだ。
人間は知恵があり過ぎるため、目の前に立ちふさがる厄介ごとを解決するのが早過ぎる。大自然が何万年もかけてつくり上げた循環は、一度バランスを失うと元に戻すには何倍もの時間が必要だからな。ムクよ、空白の時代の始まりを見届けさせてもらおう……》
やつが消えたとたん、オレは森の中にいて、音が戻ってきた。
《今のは? オレはいったい何を。おまえたち、今ここにニンゲンのようなやつがいただろう?》
息子たちに振り返ると、不思議そうにする。
《何を言ってるの?》
《……いただろう? ニンゲンのようなやつが見えなかったのか? いや……匂いがない。なんだったんだろう》
《何? ニンゲンなんて恐いよ……》
《そうだな、気にするな。狩りに集中しよう。さあお前たち、いくぞ》
……それにしても、やつはなんだったのだろうか。ニンゲンの姿をしていたがそうではなく、オレと話すことができ、妙なことを言っていたが、オレには……よく分からん。
……狩りに成功したオレたちが家路に向かっていると、テリトリーに若いガキが入ってきた。今年親離れしたやつだろう。
《助けて!》
……ムダだ。ほかの群れのテリトリーに侵入したものに容赦はしない。オレたちにとってオレたち自身が天敵。それがオレたちの種族が増え過ぎることを防ぐ、自然のバランスを守る方法なのだから。
《ちがう! 逃げて! 殺される!》
……なんだ。オレのことではないのか? うっ!
……ガキの後ろには別の侵入者がいた。隣のテリトリーの主コル、だ。
コイツがルールを知らないはずがない。が、様子がおかしい。足が乱れ、苦しそうにヨダレを流し、視線がまるで定まっていない。息も荒い……病気か?
《逃げろ! 父ちゃん正気じゃないんだ、家族全員かみ殺してしまったんだ!》
《なっ? 家族を? どういうことだ》
オレたちは親離れして新しいテリトリーを見つけるまでの期間以外は決して単独にならず、パックと呼ばれる家族単位で行動する。それが家族殺しなどありえん。
《分かんないよ、分かんないよ!》
……ガキでは話にならない。
《おいコル! ここがオレのテリトリーだと分かっているのか? 家族を殺したというのは本当か?》
……コルは何も答えず襲いかかってきた。が、ただ牙を振り回しているだけで無茶苦茶だ。完全に正気を失っていて厄介だったが押さえこみ、ノドをかみ切ると静かになった。
《何があった?》
……ガタガタ震えるガキに聞いたが、ショックで答えられないようだ。
《コルに何があった!》
《……き、急に様子がおかしくなって、暴れだしたんだ。母ちゃんも兄ちゃんたちも止めようとしたんだけど、とてもかなわなかった》
……ガキは泣くばかりで手に負えない。今回ばかりは侵入を許し、テリトリーから追っ払うことにしよう。この先、生きていけるかどうかはこいつ次第だ。
コルの体は穴を掘って埋めておくことにする。オレまで病気になったら大変だ。
……あれから二日して、夜中に突然目が覚めたオレは、凄まじい寒さに震えていた。
なんだ? まだ寒い季節ではないはずだ……が、手足の震えが止まらない。
《あなた……どうかした?》
妻の声がとても遠くに聞こえる。
《し、心配ない……心配、ない》
寒さをこらえながら、できるだけ丸まって眠ろうとしたが、寒くてとても眠れずにいて、そのうち体が熱くなってきた。
……寒い……が、熱い……。
……オレはどうしたんだ。頭の中がまっ白になってきた。だんだん意識が遠のいていく……これなら寒くも熱くもない。
おかしな気分だ……自分が自分でないような本当におかしな……。
……息子たちの泣き叫ぶ声で目が覚めた。というより目が開いていることに気づいた。が、おかしな気分は変わらない。
オレの体はまるでオレじゃないやつが動かしているようで、オレの思いどおりに動かない。が、あろうことかオレが目にしたのは、血まみれの妻の姿だった。
……いったい、誰がこんなことを!?
……オ、オレの口が血で濡れている? ……ま、まさか……オレ? オレが妻を?
《オレ、が……》
思ったことも声にはならず、うなり声しか出ない。妻を殺したオレの体は、息子たちに視線を向ける。
……やめろ、どうする気だ!
必死で逃げる息子たちにオレの体が襲いかかる。
《やめ、ろ、なんて、ことをする、んだ!》
妻と息子を殺しながら、自分ではどうすることもできず、オレの体は暴れ続け、目についたものたちを片端から牙にかけていく。
さらにオレの体はテリトリーを飛び出し、決して近づくことのなかったニンゲンの村に駆けこんでいた。
「あれ? 大口の真神さまがこんなところにくるな、なっ!」
振り返った男に襲いかかったが、幸い男は腰を抜かし尻もちをついて牙をかわした。周囲から悲鳴があがりニンゲンたちが逃げまどう。オレの体はそいつらを追って駆けまわる。
《オレ、は、何を、している!?》
……オレがこんなことをするはずがない。こんなことなんてしたくない……あの時、コルのやつもこんな気持ちだったのだろうか。
テッポウの音がした。
この音がするだけで、イノシシや若いシカが殺されてしまう恐ろしいものだ。
滅茶苦茶に暴れまわっていたオレが、山の中へと逃げ出している。何度も木に体をぶつけたが、痛みも感じない。どれだけさまよったのだろうか、急に動けなくなった。もがいても、もがいても動けない。
やがてオレを動かしていたものは動かなくなったが、やはりオレも動けない。何もかもわけが分からなかったが、オレが死ぬことだけは分かる。
が、むしろそれがいい。オレは妻や息子を牙にかけた。恐ろしいニンゲンも襲った……。
《生きてはおるな?》
あの時の声が聞こえた。
《さっさと肉体の枷から出るがよい》
そのとたん、体が楽になり手足の自由が戻った。オレの体はニンゲンの仕掛けた罠に捕えられ、身動きが取れなくなっていたことがようやく分かった。
《オレはいったい……?》
《肉体に巣食った病とて魂までは喰らうことができぬということだ。いや、病に冒されたままでありたいと思えば、それもありえるか。
……そちを狂わせた狂犬病という病は今後、この国中に広がる。人間は突如暴れ出したそちたちのことが理解できないことと、懸賞金がかけられることによって、病にかかっていようがいまいが構わず狩りだし、これまで崇めていたそちたち仲間を根絶やしにするだろう……まったく、これではどちらがやみくもに命を奪う病にかかったか分からんな》
《言っていることが分からん。が、オレは、お前の言ったとおり仲間を根絶やしにさせるきっかけとなったのか? ……もしそうなら》
《よい。そちはそちの役目をまっとうしたまでだ。迷うことなどない》
《オレは、こんなことなどしたくなかった! なんのためにこんなことをさせた!》
《吾がさせたのではない。理由は分からぬがそうなる必要があったのだろう。しかし、そちが悔やむことも、人間を憎むこともない。
根絶やしにさせるとはいえ、人間はそんな者ばかりではなく、種族を超えて他を思いやる者も大勢いる。
人間だからこそ無情で残酷なことができ、驚くほど愛情豊かに生きることができる。世界にはオオカミを守るために一生を投げ打つ者さえ出てくるだろう。
もし今日のことを罪と思い、心の重しとなるのであれば、いつか人間として生まれ変わった時に、そのような生き方をする者となるがよい。オオカミという生き方を経験したそちならば、それができるのではないか?》
うなだれるムクに彼はそう言い残して消えた……が、彼の立っていた場所には、殺してしまった妻と息子たちの魂が現れ、ムクに近づいてそっと頬をなめる。
……妻にも息子たちにも怒りや憎しみは微塵も感じられない。
ムクはそっと頭を下げて妻と息子たちをなめ返し、彼の言葉を噛みしめる。
……もし生まれ変わったら、必ずそうなろう。
ムクの心は決まっていた。