祈(いのり)【自分だけの幸福を願うもの】
恐竜博の見学が終ってホールから出ると、芝生が広がる公園で、その先の山すそには深い森が広がっている。
「弁当を食ってるあいだは自由だが、向こうの森は一度迷ったら出られなくなるほど奥が深いから行くんじゃないぞ!」
村上先生の注意に男子は面白がってわざと奥へ入ったりするけど、ここへは遠足で何度もきているし、いつものことだからみんな気にもしていない。
わたしはお弁当を食べ終えて、なんとなく森の奥へと足を進めた。芽栄はクラスメートと楽しそうに遊んでいるし、誰もいない場所へ行きたかった……だけど。
……あれ? こ、ここ……。
それほど奥へ入ったつもりはないのに、周りが急にこれまで歩いてきた森とは違って見える。山深い緑の匂いが強く、鳥のさえずりが大きく響き、空気が濃く重く感じられる。
戻らないと……でも元の場所って、どっちだっけ?
……ドクン……!
心臓が波打ち始める。迷いたい気持ちは心のどこかにあったかもしれない、だけど本当に迷いたくなんてなかった。
……何か目印を見つけないと、どこか人のいる場所に……あれ? だけど……本当に、戻らないと、いけないのかな……?
改めて考えるとそうでもない……ここはいつも空想で思い描いていた誰もいない場所で、いつの間にか自然の中に溶けこんで、知らないあいだにいなくなれる場所。
……そうか、あせらなくても、いいんだ……どこか休めるところ、ないかな……。
しばらく歩いていると、木もれ日の射す木の根元に座れそうな根っこが張り出している。
「あ、あそこが、いいや」
改めて周りの空気を感じると、さっき感じた暗さはなくなっている。木の葉を通り抜ける太陽の光に顔を向けると、涼し気な秋の風と相まって気持ちいい。リュックから水筒を取り出してお茶を飲むと、ホッとする。
……静かな森……小鳥の鳴き声。木の葉のこすれ合う爽やかな音、小さなせせらぎの音……ハッとなった。ここは、学校を出る前に浮かんできた森そのもの……どうしてわたしはこの場所を知っていたんだろう?
「娘、何をしておる?」
突然声をかけられてビックリして振り返った拍子に、根っこから後ろ向きにすべり落ちて地面に背中を打ちつけた。
「いきなりで驚かせたか。しかし、いったいここで何をしておる?」
背中の痛みでしばらく息ができなくて、それでもなんとか顔を上げると、袖の長いまっ白な着物を着た、白髪で長い耳たぶの男の人が立っている。長い耳たぶはともかく着物を着ているなんて、何か修行する場所にきてしまっていたのかもしれない。
「す、すいま、せん。み、道に迷って、しまって……ちょっと、ひと、休みを……」
転んだまま答えるとジッと見つめられた。
「……迷うと言うても、ここは迷うてこられる場所ではない。娘、そなたは何ものだ?」
グイッと顔を突き出されたけど、言っている意味が分からないし初めて会う人は恐い。
「話せぬか……仕方あるまい、ならば、しばし眠っておるがよい」
そのとたん、わたしは深い眠りに落ちていく……。
……どこだろう? ここは……。
「娘、何をしておる?」
倒れてた『ワタシ』に声をかけてくれたのは、長い袖のまっ白な着物を着た、白髪で長い耳たぶの人……どうしていいか分からないワタシを、その人はジッと見つめ、
「それでは話せぬか……仕方あるまい、ならば、しばし眠っておるがよい」
そう言われたとたん、ワタシは昨夜の村での出来事を夢で思い出し始めた……。
……夜中に門が激しく叩かれ、大勢の村人が押しかけてきたことが分かると、おっかぁはワタシを納戸の奥に連れていき、隠れてるよう言い残して戻っていった。
どうして隠れなければいけないのか分からなかったけど、おっかぁのただならぬ気配に逆らえなかった。納戸はまっ暗で心細くて仕方ない。でも母屋から聞こえる村人の叫びや悲鳴がもっと恐くて、震えながら隠れてた。
……どれくらいたったんだろう。ようやく静かになってそっと納戸から出ると。明かりもなく、手探りでおっかぁの部屋に向かう途中で……何か踏んだ。よく見ると部屋の障子が開いてて、踏んだのと同じモノが突き出て周りにベットリ水たまりをつくってる。
「娘がいたぞ!」
背後からの叫びにワタシは逃げ出した。
あちこちぶつかりながら母屋の奥へ逃げこむと、ムッとする異臭で足が止まった。足もとが粘っこいものでベタベタして、暗くてよく見えない。後ろから迫る大勢の足音に、おっかぁの部屋の前を避けて庭へ裸足のまま飛び出し、壁のワタシの秘密の抜け穴から外へ走り出て振り返ると、母屋から火が上がるのが見えた。
悲鳴をあげて逃げるワタシに驚いて、外へ出てくる村の人たち……何がなんだか分からないまま、とにかく逃げ続けた。
一晩中、どこをどう逃げてるのか分からずに……歩くことすらできなくなって道ばたに倒れたワタシは、涙が止まらなかった。
……確かめたわけじゃないけど、ワタシが何か踏んだあの部屋は、おっかぁの……。
どのくらいたったのか、道ゆく人はみんな見て見ぬ振りで通り過ぎる。お腹が空いても食べるものは何もない。
……ワタシ、このまま死ぬのかな……おっとうが庄屋だったからお腹が空くなんてこと、これまでなかったのに。
「……生きてはおるな?」
長い袖でまっ白な着物の、白髪で長い耳たぶの男の人が立ち止まってワタシを見てる。
「娘、何をしておる?」
…………あ!
気がつくと、夢を見る直前の同じ場面で目が覚めた。
「……ふむ、事情は分かった。それならば、はっきり教えてやろう」
男の人は、しゃがんで顔を近づける。
「そなたの父は庄屋の立場を利用して徴収する税をごまかしておったため、血の気の多い村の者になぶり殺しにされた。そなたが踏んだのは殺された母の足だ。
庄屋殺しなど、お上にばれれば村の者全員が裁きを受けかねないため、証拠を隠すため屋敷には火が放たれた。そなたが村に戻ってつかまれば口封じのために殺されるであろう。もう、そなたに帰るところはない」
帰るところがない……だったらワタシどうすればいいの。やっぱり、死ぬしかないの。
「ふむ? 何を泣く、帰るところがないだけで、行くところがないとは言っておらぬぞ」
「え?」
「ここより北西へ七日歩くと、美しい湖のほとりに村がある。そこで戸口に曼珠沙華を飾っている家を訪ねるがよい」
「曼珠沙華?」
「知っていよう? ひがん花、手腐れ花とも呼ばれておる、まっ赤な花だ」
「う、うん……」
「しかし、これだけは覚えておけ。そなたが十六歳になって九日目の朝、誰にも気づかれずに村を出よ。でなければこたびよりもむごいこととなる。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
立ち去った男の人がいた場所には、竹の皮に包まれたにぎり飯と水の入った竹筒が置かれてて、ワタシは夢中で食べた。そのあとは物乞いをしながら言われたとおり北西へ七日歩くと、大きな美しい湖のある村があった。
……だけど、本当になんとかなるのかな……。
曼珠沙華が飾ってある家を探すと、村の外れの一軒の戸口にまっ赤な花が飾ってあった。
……ここで、いいのかな?
恐る恐る戸を叩くと、かなり時間がたって、おっかぁくらいの女の人が顔をのぞかせる。
「ああっ! サユ! サユじゃねえか! 大変だあんた! サユが帰ってきたよ!」
ワタシは飛び出してきた二人に抱きしめられ、家の中に迎えられた。そして話を聞いてるうちにだんだん事情が分かってきた。
二カ月前、サユという娘が神隠しにあった。でも二人は毎日村の守り神の竜神さまに娘を返してくれるよう祈り続けてた……だから、ワタシは竜神さまから帰してもらったサユだということ。
二人の騒ぎに村人たちが集まって、ワタシを帰してくれた竜神さまに感謝する宴が開かれた。だけど竜神さまに関わることのせいなのか、ワタシはサユのこと何も知らないのに、二人とも、そして村人の誰もが何も触れなかった。そのあとワタシは竜神さまの巫女にまつり上げられた。
あれから瞬く間に時が過ぎてこの村にもすっかり馴染んだ。でも、ワタシは十六歳になって九日たったらここから出て行かなければならない。
……だけど、失いたくない。やっと手に入れた暮らし。新しいおっとうとおっかぁ……みんなと別れたくなくて、村を離れることができなかった。
雨が降り出したのは、その日の夕暮れから……ただの恵みの雨だと思ってた。
でも……五日、十日、半月たち、ひと月たち……。
「もうダメだ。田んぼじゃイネが立ち腐れとる! こんなこと、生まれて初めてだ」
「ひょっとすると、祟りじゃあるめえな」
やがてみんなは竜神さまの祟りだとしてワタシへ目を向けた。
「サユは一度帰されたのだから、また元の竜神さまのところへ戻せばお気を鎮めてくださるんじゃねえか?」
「これまでずっと竜神さまのために仕えてきたんだから間違いねえ!」
……おっとうとおっかぁから無理やり引き離され、泣き叫ぶワタシは簀巻きにされて、曼珠沙華の花が咲く道を念仏の合唱に送られ、雨のしぶきで白いもやがたなびく湖が見わたせる崖の上から放り投げられた。
……ゆっくり動く景色……水面に激突して痛い。
もうすぐ冬。水の中はまっ暗で冷たく、ゴウゴウ、ゴボゴボ……コワイ。息がこらえられず、ガボッと口から泡が出て、冷たく暗い水が鼻から口から入ってくる……耳が痛い、苦しい……あの人の言うことを聞かなかったから?
……ワタシはサユじゃない、のに……。
気がつくと『わたし』は暗い山の中に一人でたたずんでいた。
五歳のわたしは、おじいちゃんの家に遊びにきて裏山で迷子になった。家を探して歩いているうちに遠くから人の声が聞こえてきて……喜んで向かったそこには、白い布をかぶった何十人もの人たちがゆらゆら揺れながら、何かをつぶやいて通り過ぎていく。恐かったけれど、家に帰りたくてその中の一人に声をかけてみた。
……だけど。振り返った人を見たとたん、わたしは悲鳴をあげてその場にしゃがみこんだ。その人たちはわたしを取り囲んでつぶやきを繰り返す。必死で耳を塞いでも聞こえてくる声……トムラビトハ、モウラン……頭の中に誰かの記憶が流れこんでくる……。
……竜神さまのタタリを鎮めるために、簀巻きにされて湖に投げこまれた女の子の絶望と後悔。
……生け贄のクジに当たってしまい、頭から布をかぶせられて枝に吊るされ、テルテルボウズにされた村人の恐れと苦しみ。
……拷問の苦しみから逃れたくて、やってもいない罪を認めたために両足に雄牛がつながれて体を二つに引き裂かれた男の子の恐怖と痛み。
……異国の神を捨てろと、焼けたハサミで耳や鼻を切り落とされながらも最期まで捨てずに焼き殺された男の人の熱さと無念。
……干ばつのため年貢を減らしてもらおうと直訴したため家族まで磔にされ、お尻から突き刺した槍が串刺しの形に口から出るまで途中何度も引っかかっては抜いて最初からやり直された、庄屋さんの家族への思いと早く殺してほしいという願い。
わたしの頭の中には、数えきれないほどの残酷な仕打ちを受けた人たちの記憶が、あらがいようもなく流され続けた……。
山の中で気を失っていたわたしを見つけたのはおじいちゃんだった。目を覚ましたわたしに、おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも喜んでくれた。
……喜んで……くれるの?
人間は人間にあれほど酷いことができるのに、ちょっと迷子になったわたしが無事だっただけで、どうして喜べるの?
「どうした? 山の中は暗くて寂しくて恐かったか。もう大丈夫だ」
震えが止まらないわたしを気づかい、頭をなでようと伸ばしてくれたおじいちゃんの手をよけ、抱きしめようとしてくれたお母さんの腕から避けた。
「う、ううん……ご、めんな……さい……」
恐いモノなんていなかった。山にいたのは、恐くて仕方ないモノから忘れ去られた人たちがいただけ……あの人たちが繰り返しつぶやいていた言葉は『弔う人は、もうおらん』。
わたしはただ、わたしを取り囲みながら喜んでくれている、生きている人間という本当に恐いモノから逃げ出したくて仕方なかった……。
「……なるほど。理不尽な理由や、あまりにも死にたくないという悔しさのまま殺され、死んでも死に切れず果てしない時をさまよい続ける亡者との出合い……それがそちの人間を恐れる原因か。
しかも同じ名で呼ばれていたあの娘、逃げなかったとは……そちが人間の身でありながら吾が空間に迷いこんできたのは驚いたが、漂う孤独な群れに出合うたことで、少し人間から足を踏み外しおったか」
足もとには、記憶を無理やり引き出された咲由が、失神して涙とヨダレを流しながら横たわっていた。
「このまま記憶を残し、成長を見物するのも悪くはないが、また吾が空間に迷いこまれては面倒だ……」
彼は、咲由の封じられた記憶を引き寄せてパチッと握り潰し、手の中に種をつくり咲由の中に送りこむ。早ければ今夜にでも芽を出すだろう。
「娘よ、目を覚ますがよい」
……遠くから聞こえる声に目が覚めたわたしは、どうして眠っていたのか分からない。それに、この声はどこかで聞いたことがあるような気がするけど……。
「……あれ? ここは……?」
涙とヨダレを流していることに気がついて、あわてて拭いながら起き上がって背中やズボンについたホコリを払った。
「いきなりだからというて、気を失うほど驚くこともあるまい」
そうか、木の根元で休んでいて、急に声をかけられて驚いて……。
「わ、わたし、気絶して、ました……?」
「うむ。ここへ入ってはならぬ。さっさと戻るがよい」
「あ、でも、わたし、み、道に迷って、どっちに行けば、いいのか……」
「この木を見るがよい」
男の人が指す木には、しめ縄が一本結んであった。
「一本の縄で結ばれている木をたどり、三本の縄で結ばれているところがこちらとの境界線だ。そこから先は二本の縄で結ばれている木を目印に進めばよかろう。もう二度とここへ入ることは許さぬ」
迫力に唾をゴクリとのみこみながら何度もうなずくと、その人は背中を向けて深い山の奥へと消えて行った。
……こんな目印、あったんだ。
ホッとしながらわたしの身長より高い位置に結ばれたしめ縄を頼りに森の中を進んだけれど……どれだけ歩いたんだろう。目印どおり歩いているはずなのに、どこまで行っても戻れそうにない。周囲を見わたしても同じような木と苔の生えた岩ばかりで、歩いてきた道さえ見失いそうになる。
……どうしよう。言われたとおりに進もうか。それとも少しでも明るいほうへ進むのがいいのかな……。
迷っていると、足もとに土まみれのハンカチが落ちていた。誰かここにきたことがあるんだ。だったらもうすぐ出られるかもしれない。
期待して少し早足で進むと、今度はハンドバッグ。さらに進むとケータイが落ちていた。
イヤな予感がして振り返っても、しめ縄の目印以外何もない。こうなったら前に進むしかない。恐る恐る進んでいくと、日の光が明るく射しこんでいる場所に続いている。
……良かった、明るい場所に出られる。
ホッとしながら進むと、そこには何かがある……なんなのか分からずに数メートル近づいたところで、ようやくそれが何か分かった時には足がすくんで動けなくなった。
……これは、いつも思い描いていたモノじゃない……。
目の前に横たわっていたのは、女の人の死体……。
山で自殺する人の多くは同じ場所で死ぬことが多いらしい。だんだん自分の存在を示す物を捨てていって、さまよった果てに、つらい思い出を胸に最期の場所を選ぶ。せめて日射し明るく気持ちいい場所で……と。目を背けようとしてもできず、死体に這っている虫の姿と、猛烈に鼻を突く異臭に恐怖がわき上がった。
……本当の死って、気づかないあいだに死ねるようなものじゃなくて、死に物狂いで生きようとしても絶対に避けられないものだったんだ……。
実感がなくて頭の中で美化していたものに、人の死体っていう現実を突きつけられて、おぞましい感覚がドロドロと足や背中にまとわりついてくる……。
逃げないと!
でも足が動かない。動かない? ううん、ひょっとすると目の前のモノが足をつかんでいるんじゃ……。
「……これほどのモノでも見なければ、心に巣食う死神を追い払えんとはな」
気を失った咲由の前に横たわっていた『死体』が、あきれ声でつぶやきながらゆっくりと立ち上がり、少女の姿となった。
「それもヌシの役目であるのか?」
「む、いつからそこに?」
王が咲由を抱き上げた時、頭上の木の枝に座って声をかけたのは彼であった。
「強い恐怖を感じたので、今しがた物見にきたのだ」
「野次馬め。ならばますます趣味が悪くなっているというわけだな」
「なんとでも言うがよい。人間の発する強い感情は、良い悪いにつけサイレンのようなのでな。しかし、面白いものを見せてもらった」
「ふん!」
笑う彼に王は背を向ける。見られたところでどうということはないが、見物されたのは面白くない。
「しめ縄の目印を欺き道に迷わせ、自らを死者に見立てて死への憧憬を断ち切る……ヌシがそれほどまで手をかけるとは、そやつは何者か?」
「何者でもない。こやつは自らの耳を目を口を塞ぎ、逃避している何もできん者だ」
「そうとは思えぬ。先ほどこの森と重なる吾が空間へ迷いこんできおって驚かされた」
「ならばオマエの空間がよほど心地いいのであろうな。でなければ知らずといえど迷いこめるはずはない。心当たりはないのか?」
「あるものか。ヌシこそどうだ?」
「いいや。ただこうやって手間をかけさせる厄介者にすぎん」
「やはり分からぬ。そんな者にヌシが手間をかけるとは。吾と同じ退屈しのぎか?」
「退屈しているヒマなどない。吾は行わなければならない役目を果たすことで手一杯だ」
「ではその者も役目を担っている……と?」
木から降りてきた彼は、咲由の顔をのぞきこむ。
「気づく気づかざるに関わりなく、生きとし生けるすべての者は役目を担っている」
「それほどの者とは思えぬが」
「だが、そうせざるを得ん。縁深き……と言うのだろうな。すまんがそろそろ行方が分からなくなっていることを他の者に感づかれる。長話はこのくらいにさせてもらおう」
咲由を楽々と抱き上げた王は、足場の悪さなど気にせずに力強く歩き始める……。
レクリエーションを終えてから咲由がいないことに気づいた担任の村上は、少し森に入った木の根元で彼女が眠っているのを見つけた。
目覚めてからしばらくは白い着物を着た長い耳たぶの男の夢や腐乱したモノの夢のことで取り乱していたが、木の根元で眠っていたと聞かされ、ようやく落ち着きを取り戻した。
咲由にとって本当のことだったのかどうか……もちろん夢であったほうがいい。
……誰もいない家に帰ったわたしは、恐竜博で集めた資料を整理して、もらったパラサウロロフスという奇妙な頭の形をした恐竜のストラップを取り出して見つめた……ケータイは持っていないけど嬉しい。
もっと恐竜のこと知りたい。ホールには恐竜の図鑑や本がたくさんあったな。買い物なんて行けないから、お小づかいはもらっていないけど……そうだ、お正月にもらったお年玉が引き出しの奥に中も見ないで袋のまま押しこめてある。
集めてみると全部で四万六五〇〇円もあった。
「……図鑑くらい、買えるのかな?」
いくらくらいするのか分からないけど、なんだかワクワクする。そうしているうちに階下からお母さんが帰宅した物音が聞こえてきた。
「……お帰りなさい」
「えっ!」
玄関先で出迎えたお母さんは、靴を脱ぎかけたまま硬直する。
「……ど、どうしたの……咲由」
……そうか、どうしてわたし、お出迎えなんてしているんだろう?
「……じゃなくて、あ、あの。ただいま。……あっ! ちょっと待って」
あわてて二階へ上がろうとすると、呼び止められた。
「今朝、話そうとして話せなかった大事な話があるの。聞いてくれる?」
……キッチンのテーブルに向い合わせに座ったけど、いざとなるとお母さんは視線をそらして、なかなか話してくれない……。
「……実は、お母さんとお父さん、別れて暮らすかもしれないの」
「……え……?」
二人が別居する? だったら、これからわたしどうなるの? このままここに暮らせるの、転校することになるの? ……初めての場所で、初めての人に会って……そんなの耐えられない。
「だから咲由、この話が現実になった時のことを考えて、私のほうにくるか、お父さんのほうに行くか、よく考えておいてほしいの」
……伏し目がちにそっと咲由を見る。その瞳の奥には、とても言えない思いを隠していたが、人とのコミュニケーションが極端に少ない彼女にはうかがい知るよしもない。
両親のどちらもが家族を最も恐れている咲由を、相手に引き取って欲しいと考えていることは。
……その夜、わたしは眠れなかった。
今日も夜遅く帰宅したお父さんとお母さんが言い争う声がしたので、そっと廊下に出て話を聞いてみると、お母さんも仕事を抱えているのに、仕事の疲れを理由に話を聞きたがらないお父さんのことと、それよりも、わたしのせいでお母さんのストレスがもう限界らしいということだった。だけど、どうすればいいのか分からなくてベッドにもぐり、天井を見つめていると涙があふれてくる。
明け方になってカーテンの向こうがほんのり明るくなるころ、ようやくウトウトし始めたわたしは夢を見た……ベッドから天井を見上げている夢。はっきり見える部屋の中。ただ、わたしの胸からは小さな木が一本生えていた。
……これは、何?
夢だから何が起きてもおかしくはないけれど、長いあいだ忘れていた、これまで欠け落ちていたような不思議な気持ちがわいてくる……芽栄やクラスメート、何より両親に会えることが楽しみでしょうがない?
もしかすると、これまで人間が恐くてたまらなかった反面、心の奥では人間が好きでたまらなかったのかな? 昨夜お母さんから別居を告げられたことや争いの原因がわたしだって分かったことで、こんな気持ちになったのかな?
……木が成長を続け枝が広がれば広がるほど、人間が恐ろしくてたまらないという気持ちがどんどん消えていく……。