第6話(キス)
行かないで、とさゆりさんは僕の胸に再び飛び込んできた。
振り払うことはできない。
僕には、この震える細い腕を振り払うことなんてできないんだ。
「・・・警察に、通報・・するぞって言われたの・・」
「え・・?警察?店長頭おかしいよ。さゆりさん犯人じゃないのに・・」
「水商売の・・女はこれだから、厄介なんだって・・言われた・・」
僕は、ここまで泣きじゃくる理由がわかったような気がした。
そういう言い方は、水商売で働いている人にとって、とても傷つく。
「じん・・くん。お願い・・あたし・・彼女いてもいいから・・・」
「え??何?さゆりさん・・しっかりして・・」
思わぬ発言に、動揺する僕の言葉を遮るように・・・
さゆりさんの唇が
僕の・・・唇に
重なった。
僕は、金縛りに遭ったように身動きが取れなくなっていた。
ただ、目の前にいるさゆりさんを見ることしかできなかった。
とても、短いキスだったと思う。
僕には、とても長く感じられた。
その間、頭の中をさまざまな気持ちが駆け巡っていた。
その時、頭に浮かんだこと・・・
タケとユキのこと。
ユキの言ってたことがわかった気がした。
キスをされながら、僕が思ったことは―
『ちがう』
違う。違う。全然違う。
これはキスじゃない。
ただの、肌と肌の触れ合いだ。
手が触れたのと同じことだ。
キスではない。
僕が求めているのは、ユキだけだと心から思った。
ここまで来て、やっと心から気付いたなんて遅すぎる。
さっきまで、さゆりさんにときめいていた僕は、今の僕から見ると汚れてる。
「彼女・・いてもいいから、支えになってほしいの・・お願い。」
さゆりさんは、僕の腰に手を回した。
慣れた手つきで・・・。
大抵の男は、これでさゆりさんに落ちるのかもしれない。
だけど、僕はそんな手馴れた誘惑で、過ちを犯したりはしない。
さっきのキスのおかげで気付いたよ。
「ごめん。僕、そういうのキライだから・・。浮気とか、二股とか、そんなの理解できないから。僕じゃ、さゆりさんを支えることはできないです。」
僕は、ゆっくりとさゆりさんの腕を僕の腰から離した。
「店長に、話してきます。あ・・僕バイト今月でやめるんで・・。」
さゆりさんは、呆然と立ちすくみ、僕を見つめていた。
「じん君・・お願い。今夜だけでもいいの・・」
そういうことか。
さゆりさんは、とても知的で頭も良く、面白くて人気者だけど、とても寂しい人なんだ。
たった一晩、寂しさを紛らわせてくれる男は、さゆりさんを幸せにはしてくれない。
「さゆりさん、もったいないよ!!自分の体と心、もっと大事にしてよ!」
僕は、その後店長と話した。
店長の言いたいことは伝わったが、さゆりさんが気に入らないと言うのが疑った理由だった。
今の店長が、このコンビニの店長になる前から、働いていたさゆりさんはいつもみんなのリーダー的存在で、バイトの連中も店長の言うことより、さゆりさんの言うことを聞いていた。
さゆりさんは、たまに店のタバコを吸っていたらしい。
それだけの理由で、1人の女性の生き方を否定するような発言で、傷つけた。
「わかったよ。もう・・あいつが盗んだんじゃないって。みんなの少しずつの気の緩みが原因だろう。一つくらいいいだろう、って全員がそういう考え方になってる。俺がなめられてんだよ。」
店長は、僕が辞めたいと言うと、とても残念そうな顔をした。
僕だけが、店長と唯一ちゃんと会話できるバイトだったらしい。
僕は、家に帰り、もう一度シャワーを浴びた。
こんな経験はもう二度としたくないと思った。
こんなに悲しいキスはもう嫌だ。
ユキへの申し訳ないと言う気持ち。
自分自身への苛立ち。
どうしようもないモヤモヤした気持ちでなかなか寝付けなかった。
一方的なキスだったとは言え、ユキ以外の女性とキスをしたことは消せない事実。
ユキに会わす顔がない。
迎えに行く気分にもなれない。
ユキの目を見て、謝る勇気がない。
ユキからのメールも電話もないまま、3日が過ぎた。
僕は、一日一回メールを送っていた。
ユミちゃんから電話があった。
『ユキ、ハル君の話も聞かずに飛び出したこと、すごく後悔してる。だから、もう少し待ってあげて。気持ちの整理付いたら、ちゃんと向き合うと思うから。 』
僕も同じ気持ちだった。
もう少し時間が欲しい。
ユキに会えないのは、僕への罰だ。
揺ぎ無いと信じていた僕のユキへの愛が、少しでも揺らいだ罰だ。
バイトは、結局今月と言わず、その日で辞めた。
携帯のメモリーに、『さゆりさん』はもうない。
僕は、ここのところ夜になると外へ出て、星を見ていた。
なぁ、ゆうじ。
僕の行動全部見てたんだろ?
怒ってくれよ、ゆうじ。
僕が間違っていた。
なぁ、ゆうじはどの星なんだ?
ゆうじの声が聞きたい。
ゆうじの笑顔が見たい。
ゆうじ、教えてくれ。
これから、僕はどうしたらいい?
その時、一番明るく光る星がキラキラと瞬いた。
『大丈夫だよ、ハル君』
ゆうじの声が聞こえた気がした。