第3話(思わぬ誘惑)
今日でコンビニのバイトを始めて1週間が過ぎた。
学校でも職場でも、何でも最初は不安なものだ。
人見知りしない僕でも、やっぱり慣れるまでは神経を使って疲れる。
やっと、レジ打ちも人並みのスピードでできるようになった。
季節先取りの肉まんの温め方も覚えた。
ただ、未だに苦手なのは宅急便。
箱の大きさを計り、送り先の住所からコードを入力するというややこしい作業が嫌い。
箱を持ったお客さんが来ると、冷蔵室に逃げ込みたくなる。
冷蔵室とは、ジュースやビールを後ろから入れる部屋で、とても寒い。
夏だったら、気持ち良かったんだろうな。
「じゃあ、行ってくるね。退場の曲考えといて。」
僕は、玄関で寂しそうに僕を見送るユキにキスをした。
「退場の曲は、もう決まってるの。」
ユキは、嬉しそうにそう言うと、笑顔でバイバイした。
このときはまだ僕は知るよしもなかった・・・
軽い気持ちで始めたこのコンビニのバイトが僕とユキの間に微妙な溝を作ってしまうことを―。
「お疲れ〜っす。」
僕は3分遅れで、コンビニへ到着した。
「遅い!!じん君たるんでる!!」
僕の時間の前にいつも入っているバイトの先輩が僕の背中を叩く。
この人は、僕より2つ年上の女性で、なぜか僕を『じん君』と呼ぶ。
慣れないその呼び名に、戸惑いながらも新鮮さを覚えた。
「すいません・・さゆりさん。明日は5分早く来ます。」
バイト仲間がみんなそう呼んでいたので僕も彼女を『さゆりさん』と呼んでいた。
コンビニには似合わない上品なさゆりさんだが、ここのバイト歴は長くみんなから慕われていた。
近くに1人暮らしをしていることと、英語が話せること以外僕はさゆりさんについて知らなかった。
僕のバイト初日に、外国人のお客さんの対応をしている姿に僕は見とれてしまったんだ。
流暢な英語と、自然な笑顔がこの店にはもったいない。
「じん君、からあげ食べたい。揚げて!」
さゆりさんはいつもこんな調子で、わがままなのか僕の教育なのかわからないが、僕の苦手な仕事を頼む。
「あ〜!!ほら、また揚げすぎ。キツネ色って言ったでしょ?キツネ知らないの?」
さゆりさんは、年上ということもあるけどかなりSっぽい人だ。
さゆりさんが帰るまでの10分程のこの他愛もないひとときに心地よさを感じる。
・・・と言っても、別に恋心を抱いているわけじゃない。
ただのバイトの仲間の一人として。
僕のバイトの時間の前にたまたま働いている先輩として。
「ただいま〜!つっかれた・・・。」
僕は玄関でユキに抱きついて、バイトの疲れを癒す。
「お帰り。ハルの好きなカレーだよ!」
ただいまのチューは、うがいをしてからって決まりがあるんだ。
僕は、いつものようにうがいをして、甘えるようにキスをした。
「聞いてよ。今日もさゆりさんにいじめられたんだよ。からあげの色が悪いって。キツネ色ってどんな色だよな??」
「あははは。また??こないだもからあげの事で怒られてたよね?」
ユキは僕の頭をよしよししながら、優しいキスをくれる。
「なぐさめてよ、ユキ。」
「ご飯食べてからね。」
思えば、僕はバイトから帰るといつもさゆりさんの話をしていたかもしれない。
それは、バイト先でその日会うのが店長とさゆりさんだけだったからなんだけど。
僕の後の時間は決まって店長だったから、店長とは顔を合わすが厳しい人であまり好きではない。
「ちょっと!!じん君。あんたなめてるでしょ、あたしのこと!!」
また5分遅刻した僕の背中をバシバシと叩くさゆりさん。
「これからは遅れる時連絡くれる?迷惑なの!!メールアドレス教えて!」
僕はこの時、とても自然に何のためらいもなく、さゆりさんに携帯番号とメルアドを教えていた。
これが、さゆりさんの作戦だったのか、本当に僕の遅刻が迷惑だったのかはわからない。
僕は、学校でも携帯番号やメルアドは必要な数人にしか教えていない。
特に女の子には、はぐらかして教えないようにしていたはずだけど・・・。
さゆりさんのあまりにも自然な誘導で僕はスラスラと教えてしまった。
さゆりさんが帰った後すぐに僕の携帯が鳴った。
『もしもし?これ、あたしの番号だから、ちゃんと登録しといて。』
僕は言われるがままにさゆりさんの番号を登録した。
その時に気付いたことは、僕の携帯のメモリーには女の子ってほとんどいないってこと・・・。
だからって訳じゃないが、僕は運転中とかトイレ中とか、自分が携帯に出られない時にユキに代わりに出てもらったりしていた。お風呂に入ってるときなんて、僕にかかってきたシンからの電話にユキが長電話してることもある。
さゆりさんからかかってくることなんて・・ないよな?
大丈夫だよな・・。
僕は、バイト中何度も携帯を見ている自分に気付いた。
さゆりさんからのメールを待っている自分に気付き、僕は冷蔵室に駆け込んだ。
自分の顔を何度も叩いた。携帯を鞄の奥へと押し込んだ。
僕はさゆりさんに対して特別な感情を抱いていたわけじゃなかった。
ただ、今までユキ以外の女性で魅力的だと感じる女性に出会ったことがなかった。
僕が出会った初めての、ユキ以外で素敵だと思える女性・・だった。
ユキへの気持ちが100だとしたら、さゆりさんへの気持ちなんて1にも満たない。
でも、今まで1どころか0.1もそんな気持ちを感じたことがなかった為に僕は罪悪感でいっぱいだった。
バイトが終わってから、携帯を見ると2通のメールが来ていた。
1通は、ユキからで・・・もう1通はさゆりさんからだった。
ユキのメールを読む前に、さゆりさんのメールを読んでしまったことを僕は後悔した。
≪じん君、バイト終わる時間にコンビニの前に行くからからあげ揚げて持ってきてね♪≫
いつもの口調とは別人のようなかわいいメールだった。
僕は、どうして僕の終わる時間にさゆりさんが来てくれるのかわからなかったが、そのメールを見た後、僕の胸が高鳴るのを感じた。
そして・・・僕はもう1通のメール、ユキからのメールを読むのも忘れ、からあげを揚げに行っていた。
「あれ?どうしたの、お前。もう上がっていいぞ?」
店長は、私服で戻ってきた僕を見て、不思議そうな顔をした。
「ちょっと・・からあげ揚げる練習していいですか?」
僕は、バイト熱心な優等生だと思われただろう。
店長が接客している後ろで、こっそりから揚げを5つ頂いて、店の前へ急いだ。
「遅い〜!!」
そこには、いつもと違う大人びたさゆりさんがいた。
ワンピースにクルクル縦巻きした髪型で、座っている彼女は僕を見上げて笑った。
「今回のから揚げは、満点ですよ!」
僕はいつも通りに話そうと思ったが、あまりのギャップに目を見れずにいた。
さゆりさんは、座ったまま口を開けた。
「あ〜んしてよ。」
僕はその時、すっかりユキのことを忘れてしまっていたのかもしれない。
ユキ以外の異性とこんな風に接することが初めてだったせいで、僕はこれが恋ではないかと思うくらいにドキドキしてしまっていた。
僕は、爪楊枝がない事に気付いた。
手でからあげをつまんで、さゆりさんの口へ運ぼうとした時だった。
勢い良くから揚げに食い付いたさゆりさんは僕の指まで・・・
「じん君の指食べちゃった〜!!」
これがもし作戦か、男を落とす手段なのだとしたら、この人はすごい人だと思った。
僕は、それが自然のさゆりさんの姿であって欲しいと願った。
僕もしゃがみ込み、2人でから揚げを食べた。
「薄暗いから、キツネ色かどうか見えないから不合格〜!!」
さゆりさんはそう言って、尻餅をつく大笑いしてた。
「今日のは、絶対にキツネ色ですって!!」
僕は、さゆりさんに早く褒めてもらいたいと思っていることに気付いた。
まんまと、さゆりワールドにハマってしまっているのか?
「うそだって!!合格!!よくできました、じん君。ごほうびに何欲しい?」
いつの間にか体育座りをしているさゆりさんは、膝の上に置いた腕に顔を乗っけて僕を見つめていた。
バイト中の顔とは明らかに違う種類の顔をしていた。
恥ずかしがることもなく、瞬きもせず僕の目をじっと見つめていた。
・・・・・
・・・・・
僕は、咄嗟に立ち上がり我に返った。
一瞬、僕とさゆりさんは熱い目で見つめあってしまった・・・。
あの目は、普通の目じゃなかった。
僕に何かを言わせようとしている目。
僕は、こんな気持ちになっている自分が許せないと思いつつも、さゆりさんへの興味が膨らんでいくことを止められなかった。
「からかわないでくださいよ。」
僕は、平静を装いながらそう言ったが、僕のこのドキドキをさゆりさんに気付かれているような気がした。
さゆりさんに、手を引っ張られ・・僕はまたしゃがみ込んだ。
さゆりさんの視線が僕の左半身を硬直させていた。
できるだけ、さゆりさんを見ないように前を向いていたが、かすかに映るさゆりさんを意識せずにはいられなかった。
「もう1個ちょうだい。」
さゆりさんの言葉に、僕はから揚げをもう一つ口へと運ぶ。
今度は、僕の指に唇が当たることはなかった。
その時、少しがっかりしている僕に僕は無性に腹が立った。
・・・・・
その時だった。
コンビニの前の道を歩くユキの姿を見つけた。
僕がユキを見つけるのと同時に、ユキは僕の隣にいるさゆりさんを見つけた。
・・・・・
僕とさゆりさんを・・・見つけた。
その時の僕は、明らかに動揺していただろう。
それは、心の中にほんの少し芽生えた『恋心』のせい。
ユキに見透かされたような気がした。
そのまま、ユキは何事もなかったかのようにクルっとまた来た道を戻って行った。
僕の異変に気付いたさゆりさんが、ユキの方を見ながら言った。
「彼女?じん君、追いかけなくていいの?誤解したよ、明らかに。」
僕は、さゆりさんに「ごめん」と一言言うと、ユキに向かって走った。
どうして、ユキの姿を見てすぐに追いかけなかったのだろう。
さゆりさんに言われて、追いかけるなんて・・・僕は最低な男だ。