あなたが大好き
ハッピーエンドしか読めない方は、ご注意ください。
頭が良くて、お金持ち。それでいて、クラスの人気者。彼は……そんな完璧な人。
授業中、自然に目が向いてしまうのは相田虎太郎くんの席だった。
彼は授業中も賑やかな人。いわゆるクラスのムードメーカーってやつ。
……まぁ、先生たちは授業にならなくて困ってるみたいだけどね。
「先生、先生! 今やってるとこってテストに出る? 出る?」
「相田君、ちょっと静かに……」
「あー、今先生の顔に出るって書いてあった! みんなー、ここテストに出るって!」
初老の国語の先生は虎太郎くんの勢いに押されてタジタジだ。平静を保とうとハンカチで汗を拭いているのが、図星だと物語って いる。
虎太郎くんに憧れてる人は少なくない。当たり前だと思った。
男子は彼みたいになりたいと思ってるし、女子は虎太郎くんの彼女になりたいと思ってる。
でもそれは所詮叶わぬ願いでしかない。
「……恵ちゃん、恵ちゃん! もう授業終わったよ」
「は……え?」
声をかけてくれたのは、隣の席の阿部由美香さんだった。
「あ……」
いつの間にか、先生は居なくなっていて、生徒たちも自由に立ち歩いていた。
「恵ちゃんったら、チャイム鳴ったのに全然動かないんだもん。心配したよ」
「ありがとう阿部さん。ぼーっとしてたみたい」
お礼を言うと、彼女は微笑んだ。
「由美香ー! ちょっとこっち来てー!」
教室のドアの前で、大声を張り上げたのは妹尾さんだ。高めのアルトで返事をした阿部さんは、背中まで伸びたポニーテールを揺らしながらかけていった。
美人で優しいという、まさに完璧を絵に描いたような彼女は……虎太郎くんの彼女だったりする。
阿部さんが「とらちゃん」と可愛らしいあだ名で呼んでいる光景は日常茶飯事。
虎太郎くんと阿部さん、人気者同士でとってもお似合いだ。ちょっとだけ……羨ましい。
きらきらと輝きを放つ二人と違って、自分という人間はなんて地味で陰気なんだろう。比べると惨めになってくる。
長く伸びた前髪が重くて暗い印象を与えてることは想像がつくし、古臭い瓶底メガネは雰囲気を頑固にしてしまっている。それは鏡を見た時にいつも思う。
電子的なチャイムの音が、今度こそ耳に入った。けれど残念ながら、今度のそれは授業が始まる合図の方だ。
さて、また虎太郎くんの観察を始めようか。
いつものように退屈な 授業をこなし、さて帰ろうと廊下を歩いていた時だった。背中に強い衝撃を受けた。たたらを踏んだものの、転ぶのだけはなんとか耐える。
「何するの?」
振り返ると、そこにはニヤついた数人の女子生徒がいた。どの人も顔だけは見たことがある気がする。
「あんたが嫌いだから蹴ったの」
さっきの衝撃は蹴りだったらしい。
「スカートなのに?」
「……っ、あんたのそういうとこが嫌いだっつってんだよ! ああ、気持ち悪い」
彼女たちはこれでもかと言うほどスカートを短くしていて、脚の90パーセント以上を露出している。スカートなのか腹巻きなのか区別し難い。
そんな格好で蹴りを入れる神経はよく分からない。
口喧嘩では彼女たちに勝てないに決まってる。かとい って殴るわけにもいかない。
仕方がないから、無視をすることに決めた。
「黙ってないでなんとか言ったらどうなの?」
「黙ってられると余計気持ち悪いんだけど!」
「虎太郎君も言ってたわよ。視線が気持ち悪いって!」
虎太郎君が……?
その後の彼女たちの言葉はよく聞こえなかった。たぶん耳が上手く機能していないからだ。
だって虎太郎くんがそんな事言うなんて思ってもいなかったから、ショックで体が熱くなっていく。
まさか虎太郎くんが視線に気づいてるなんて思わないじゃないか。彼の席は、廊下から二列目の一番前。後ろに目でもない限り分かるはずがない。それが分かるということは、少なからず彼の方も意識してるということなんじゃないだろうか。
嬉 しくてニヤケてしまいそうな口元を、手で覆い隠す。
「何笑ってんだよ!」
拳が、顔面めがけて飛んできた。でも、正面からの素直な攻撃ならよけられる。
顔の数センチ横で、拳は空を切る。
避けたせいか、彼女たちの顔が険しくなる。
これは本格的に逃げた方が良い気がする。
<廊下は走らない>と書いてある紙を視界にいれつつ、僕は全速力で駆け出した。
「え……なんで……?」
家に着いた僕を待っていたのは予想外の出来事だった。
「虎太郎くん……?」
「……」
しかめっ面でテーブルに着いているのは、紛れもなく虎太郎くんだ。僕がいつも観察してる虎太郎くんに間違いない。
「どうしたの……突然」
「おい、誰が対等に話して良いと言った?」
「あ、すみません。……本日はどうしていらしたんですか?」
脱いだ学ランを椅子の背に掛け、そのまま虎太郎くんの正面に座った。
「お前、何を企んでるんだ」
「はい? なんのことで」
「とぼけるな!」
険しい表情も、それはそれで絵になる。溢れ出る気品がそうさせているのだろうか。
「恵! お前が俺を監視してるのは知ってるんだ」
「気づいていたんですね。嬉しいです」
「何が目的だ。俺の弱点でも探しているのか」
「いえ、そういうわけでは……あぁでも、先生に対して生意気な態度取って困らせた後にはフォローしに行ってるのは知ってます。優しいんですね」
虎太郎くんの前に置かれているカップの中身は、色から想像するにどうやら紅茶らしい。僕が帰ってくる前に母さんが入れたんだろう。
残念ながら紅茶はカップになみなみ入ったままだった。
「虎太郎くんは紅茶嫌いですか? 他の飲み物を持ってきましょうか?」
「結構だ。お前の家で出されたものに口をつけるわけがないだろう」
「じゃあ僕が先に毒見をします!」
「結構だと言っている!」
遠慮深い彼は、こんな僕にも気を使ってくれるらしい。虎太郎くんの役に立てないのは残念だけど、彼の厚意が素直に嬉しい。
「ともかくだ」
虎太郎くんはスッと立ち上がった。もう帰ってしまうらしい。
「俺に、関わるな」
「えっ! 虎太郎くん危険なことに巻き込まれてるんですか? それで僕を巻き込まないために突き放すんですね。素敵です、虎太郎くん!」
「お前が関わらなければ危険な事なんて何もないんだよ、恵! 迷惑だから俺に近づくな話しかけるな」
「はい、分かりました」
後ろからそっと眺めるだけにしよう。
僕の返事に満足したのか、虎太郎くんはカバンを手に持つと早々に玄関まで歩いていってしまった。僕は慌ててその後を追う。
「また来て下さいね。待ってますから」
「誰が来るか、こんなところ。二度とごめんだ」
外まで見送ろうとしたのに、虎太郎くんがすぐにドアを閉めてしまう。ボロいアパートだから、音が建物全体に響いた。
閉まったばかりのドアを開け、数メートル先の虎太郎くんを追った。
「待って、下まで送ります」
返事をせず、むしろ早足になった虎太郎くん。僕も駆け足になる。
と、彼は階段の手前で急に止まった。
「え……」
「おい、いい加減に……っ!」
振り向いた虎太郎くんに、勢いを止められなかった僕はそのまま突っ込んでいった。そして、二人折り重なったまま体が宙に浮く。
築40年のアパートの階段は急な傾斜だった。幅は大人一人分ほど。
手すりにガツンガツンと肩をぶつけながら落ちていく。
落ちてる、危ない。そんな事が頭に浮かぶけど、どうすればいいのかが分からない。何もできないまま、ただ痛みを刻まれていく。
いつまで続くのか……そう思った時だった。浴びせられていた痛みが、唐突に終わった。
一階まで、落ちきった。それを理解することだけはできた。
しかし、体が動かない。
ふっと体から力が抜け、瞼が重くなってくる。
――ダメだ起きるんだ。
必死に自分を叱咤するが、体の方がまるで言うことを聞いてくれない。
意識を失う、という感覚を頭の冷静な部分で理解しながら、僕は闇の中に意識を沈めた。
――目を覚ませ。早く起きろ。
そんな焦燥感に駆られて、僕は目を覚ました。
どうして意識を失っていたのか、それを僕はきちんと覚えていた。
どれくらい気絶していたのか。ここはどこなのか。疑問はつきない。
自分の眠っていた場所を確認すると、なんとも無個性な白いベッドの上だった。
「気がついたか」
声をのした方を見ると、壁際でパイプ椅子に腰掛けてる人が居た。父だった。
「えっと……」
父さんと呼ぶのを禁止されている僕は、なんて声をかければ良いのか分からなかった。
「ここは病院だ。覚えているか? お前、階段から落ちたんだぞ」
今まで聞いたことのない柔らかい声色。襲いかかってくる違和感の波が、恐怖をもたらした。
極力平静を保ちつつ、ゆっくりと言葉を発する。
「覚えていますよ。……あの、僕と一緒に落ちたあの人は……?」
「あぁ、恵か。恵は打ち所が悪くて死んだよ」
「はい?」
誰が死んだって?
「僕は生きてます」
「あぁ、虎太郎は生きてる。死んだのは恵だ」
「違う! 僕は恵です!」
「お前は虎太郎だ!」
僕が虎太郎くん……?
そんなわけがない。僕は恵だ。田上恵。
虎太郎くんは僕の半分だけ血のつながった弟。僕自身は虎太郎くんじゃない。
「頭を打ったから混乱しているのだろう」
「……そんな」
僕の方が間違ってる?
混乱する僕の視界に、一枚の大きな鏡が入った。そこにはベッドに座る男の子が映っていた。僕の動きに合わせて、中の人影も動く。その動きのおかげで、僕はその鏡の人物が僕であると理解した。が、同時に、大混乱に見舞われた。
鏡に映る僕……と思われる男の子はどう見ても虎太郎くんだった。いつも鏡に映る、陰湿で影のある男の子の姿は見えない。
本当に僕は恵なのか? 虎太郎くんは自分……?
父の言う通り、頭を打ったから勘違いしてるというのか?
「……まだ本調子じゃないらしいな。もう少し休んでいるが良い」
父が僕を横になるように促す。
僕に――恵に、父はこんなに優しくない。なら、僕は虎太郎くん?
分からない。何がどうなってるのか……分からない。
ふっと目が覚めた時、周りに人の気配はなかった。
のどが渇いた。
まだ痛む体を引きずって、ベッドから抜け出した。
暗い廊下。ついてる明かりは非常灯のみ。不気味な廊下がまっすぐにのびている。
水が飲みたい。そんな欲求に突き動かされて、僕は院内を歩き回る。
直立した男性のマークが目につき、そのまま中に入った。自動で灯りがついて、少し眩しい。僕は近くにあった水道に口を近づけ、水を貪った。
一息つき、ようやく冷静になった。
ひと眠りした今でも、僕は恵だと思っている。
しかし目の前の鏡が映し出しているのはやっぱり虎太郎くんの姿だ。
さっきよりも近くで、まじまじと眺める。うん、やっぱり虎太郎くんだ。恵じゃない。恵は……もっとこう――。
そこまで考えて、思考が止まってしまった。
恵の顔の特徴を思いだそうとしたが、できなかった。
そういえば、僕は久しく自分の素顔を見ていない。いつも鏡に映っていたのは、前髪で顔が隠れ、瓶底眼鏡をかけた顔だ。
……僕は、どんな顔をしていたんだっけ?
僕はいつから、顔を隠していたんだろう。そうだ、小学校に上がって、虎太郎くんと同じ学校に通うようになってからだ。
僕と虎太郎くんが異母兄弟だと周りバレない様に、無理矢理顔を隠させられたんだ。
――あまりにも僕たちは似てたから。
じゃあ、今目の前に映ってるのは……虎太郎くんじゃない、ただの僕の顔だ。
さっき、父は恵が死んだと言っていた。でも僕は生きてる。
じゃあ死んだのは? ……虎太郎くんの方だ。
そう思い至った時、父の考えも分かった。
不倫相手の子供が生きていて、正妻の子供が死んだ。それが、自尊心の高い父にとっては耐えがたいことだったのだろう。だから、顔が似ているのを良い事に、立場を逆にしようとしたんだ。
――不倫相手の子が死に、正妻の子が生きていると。
「……ふっ」
クツクツと笑いがこみあげてくる。
僕は確かに、虎太郎くんが好きだった。だというのに今の状況には笑いをこらえることなどできやしなかった。
勉強も運動もできて、そのうえみんなに慕われている。それが虎太郎くんだ。でも、違う。僕が彼を好きだったのはそんな理由じゃない。
同じ人を父に持ちながら、同じ顔を持ちながら、方や裕福な家庭で育ち、方やボロアパートの母子家庭。可笑しいじゃないか。面白いじゃないか。
もしも虎太郎くんが生まれてこなければ、彼の立場は僕のものだったかもしれないのに。
彼を見ていると、あるかもしれなかった僕の幸せを想像することができて、それが楽しかった。
……もしかしたら虎太郎くんにしてみれば、僕を見るたび、あるかもしれなかった自身の不幸におびえていたのかもしれないけど。
憎しみや恨み、妬み嫉み。それらをすべて混ぜた上で僕が彼に向けていた感情、それが好意。
自分自身でも本当に彼が好きなのだと錯覚していた。心から尊敬していると思いこんでいた。
思いこまずにはいられなかった。彼はすべてにおいてパーフェクト、全人類から愛される存在だと、そう思わずには耐えられなかった。
ただの、どこにでもいるちょっと優秀なだけの人間だなんて認めたら、僕の存在はどうなる。
虎太郎くんが格段に優秀で素晴らしい人間でなかったなら、それ以下の扱いを受けていきた僕はなんだと言うんだ。
そんな事、認められるはずがなかった。だから、僕は虎太郎くんを神のように崇めるしかなかった。僕の、人間としてのプライドを保つための逃げ道がそれだったんだ。
でもこれからは違う。僕は虎太郎くんになるんだから。僕が尊敬し好きだ好きだと言っていた虎太郎くんに。
鏡の中の虎太郎くんが顔を歪めて笑っている。邪悪さはあるものの綺麗な顔だ、と思った。
虎太郎くんが育ててきた、相田虎太郎という像を僕がもらい受ける。望んでも手に入らないと思っていた立場を、僕は今手にしたんだ。
「大好きだよ、虎太郎くん」
僕は鏡に向かってそう笑いかけた。