23.女生徒
翌日の水曜日。
登校した菜々は、自分の教室でクラスメートから、生暖かい視線を受ける羽目となっていた。
彼女に視線は向けられたまま、ひそひそと何か囁かれ続けているのだ。
それは、特に女子の間で顕著だったが、男子も無言の視線をこちらに向けてくる。
「おはよう、悪女」
キラキラにさわやかな笑顔で、雅が遅れて登校してくる。
「おはよう……って、悪女?」
つまらなさの真逆の表情に、菜々は身を引きながらその言葉を投げ返した。
「そう。東兄弟を手玉に取る悪女……いい響きよね」
うっとり。
雅の価値基準は、時々難しい。
いや、それ以前に、彼女は何と言ったのか。
『東兄弟を手玉に取る』
菜々の頭の中に、優と努の白黒兄弟がカットインした。
「弟にお姫様だっこされて、兄と一緒に早退したなんて……面白すぎて……もうね」
こらえきれないように、雅は心行くまで菜々の面前で高笑いしてくれる。
あ、ああ。
たらぁっと汗をかきながら、ようやく菜々は昨日の自分の出来事を全部思い出したのだ。
東先輩との話が濃厚過ぎて、すっかりその前の努の事件を忘れていたのだ。
確かに、あの事象だけを見れば、そんな噂が立ってもおかしくないだろう。
がっくりと、菜々は肩を落とした。
周囲の生徒は、菜々が雅の言葉に何と答えるのか、興味津々で耳ダンボしているのが分かる。
下手なことを言うと、また訳の分からない噂を振りまかれてしまうだろう。
「あの『トウド』にお姫様だっこされるなんて、余程のことがあったんでしょ? いいわよ、別に説明しなくったって。推理するだけで、十分おなかいっぱいだわ」
菜々の恥ずかしい出来事も、彼女にとってはただの推理の種でしかないようだ。
その答え合わせにも、別に興味はないのだろう。
雅の一方的な言い様に、周囲ががっくりと失望するのが分かった。どうしてそこでもっと突っ込んで聞かないんだと、みんな思っているのだろうが、女傑雅には恐ろしくて誰も言えないはずだ。
「頭打ったの。それで、病院行ってきただけ」
菜々は、とりあえず昨日の出来事に(少なくとも努については)、色気は含まれていないことを証明したくて、それだけは言った。
周囲は一瞬色めきたったが、彼女はつまらなそうな目になる。
「言わないでいいっていったじゃない」
「何か気持ち悪くて」
雅の常套句である『気持ち悪い』は、菜々にとってはこういうタイミングで使うべき言葉だ。
「気持ち悪いのは、私の方よ。そんなくだんないことの説明より、私に言うことはないの? それとも、頭を打って、大事な使命は忘れてしまったの?」
本家雅のそれが飛び出し、菜々はうひっと背筋を冷たくした。
彼女を生き物にたとえるなら──蛇かもしれない。
雅の言わんとしていることは分かるが、まだ周囲の聞き耳のある中で、それを告げるのはとても無理だ。
しかし、馬鹿正直な言葉でなければ、何とかなるのかもしれないと、菜々は昨日強く打ちつけた頭で考え付いた。
「ええと……捕獲しました」
「でかした!」
半秒の間もあけず、即座に彼女の輝く瞳と言葉が返される。
異人さんなら、きっと親指を立ててくれたに違いないタイミングだ。
晴れやかに美しい笑みを浮かべ、満足しきった雅は自分の席へと帰って行った。
その背中には、音符が飛び交っているのではないかと思えるほど。
菜々の幸せを、彼女は存分に満喫してくれているのだ。
えへ。
その背中を見ていると、菜々まで嬉しくなってしまう。
彼女は、『どうでもいい』と思えない三人を、手に入れることが出来たのだ。
最高の友人である雅。
許し合わない相手である東努。
そして。
苦しいほど好きになってしまった、東優という男。
それぞれ、意味も色も違うが、かけがえのない人となった。
「ああ、そうそう」
自分の席に行った雅が、軽い足取りで再び戻ってくる。
顔が下がり、彼女の唇が菜々の側に寄せられた。
「『トウド』の好きな女、教えようか? 戦う時の武器として、使えるかもよ?」
吐息は、悪魔的な艶を帯び、菜々の弱い心をくすぐる。
だが。
あっ。
昨日頭を打ったことが、逆に作用したのだろうか。
雅にそう言われた瞬間、菜々は閃いてしまった。脳裏でバチッと、火花がスパークしたのである。
「美術部の……木下先輩?」
呆然と、菜々はそれを言葉にしていた。
「あら、なんだ……知ってたのね」
その言葉は、つまらなそうではなかった。
唇を少し尖らせた後、雅はふふふと笑う。
そんな静かな雅と対照的に、菜々の頭の中ではわあわあとうるさい自分の声が響き渡っていた。
努のことを、ブラコンだとは思っていたが、その根の深さをそこに見た気がしたのだ。
兄である優が好きな人だから、努がその人を好きになったとまでは言わないが、その後がいけない。
彼は、自分の好きな女性を、頑として兄の恋人として隣に置き続けようとしていたのだ。
本来であれば、自分自身で手に入れるべき相手だというのに、だ。
一体、彼の恋心はどこへ走って行っているのか。
「私……東君とは、本当に理解し合えないと思う」
つくづく、菜々はそう思い知ったのだ。
すると、雅はますます笑みを深くするではないか。
「理解し合えないことを『理解』するのって、ぞくぞくすると思わない?」
傾げた彼女の首を、さらりと黒髪が流れる。
「普通は、理解し合えないことを『嫌悪』するのだもの。危なかったわね、菜々。ほんと、危なかった」
ふふ、ふふふふ。
「出会う順番が、入れ替わってなくて、本当に良かったわね」
くるりとスカートを回し、雅は踊り出しそうなほど浮かれた足で、今度こそ席へと戻って行った。
タララ、タ、タタタ。
彼女の足取りに、菜々は脳裏で『花火』のタップを思い出す。
音こそ楽しげではあるが、放蕩兄に振り回される妹の話だ。
病気の兄に振り回される弟の話ならば、菜々のすぐ近くにある。
東優という人間に縛られすぎた男は、そこから解放されるのが幸せであるはずなのに、本人はちっともそうは思っていない。
不毛だ。
理解は出来ない菜々だったが、それだけは強く感じたのだった。
※
「久しぶりに兄弟ゲンカをしたよ」
帰り道。
東先輩は、部活帰りの菜々を待っていてくれた。
図書部員である彼は信用があるのか、責任を持って戸締りをすることを約束に、図書室で居残りをしているという。
待ってもらうのは心苦しいのだが、東先輩が「静かで勉強もはかどるから都合がいいよ」と言ってくれたので、彼女はえへへと笑っておくことにした。
「努は僕と似て、頑固だからね。お互い折れないから、ケンカは続行中だよ」
「はあ、そんなものですか」
男兄弟というものを、菜々は知らない。
だから、二人がどういうケンカをしているのか、想像も出来ないのだ。
殴り合うことだけは、きっとないだろうが。
「もし、また努が伊藤さんに絡んできたら、僕のケイタイに連絡していいからね」
ぎょっとすることを言われ、菜々はどきどきした。
「で、電話なんか、しませんよ、そんなことで」
努とやりあう方法を、彼女も何となく会得した気がする。相手に気遣いをしなくていいというのは、気楽なものだ。
だから、そんなくだらないことで、東先輩の手を煩わせたくなかったし、努にいちいち彼に泣きつく弱虫だと思われたくもなかった。
そんな彼女の顔を、東先輩はじっと見つめる。
そして。
「僕を……頼って欲しいんだよ」
寂しげな瞳と唇にそんなことを言われたら──菜々は墜落するより他、なかったのだった。




