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オセロ風景〜坂道と図書室  作者: 霧島まるは


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19.令嬢アユ

「兄貴には、ちゃんと『彼女』がいるんだからな!」


 そう努に突きつけられた言葉に、菜々は首を傾げたまま彼を見上げていた。


 東先輩に、彼女がいるというのだ。


 もしも、彼が言うことが本当であるならば、昨日の先輩の告白は、一体何だったのか。


「……」


 菜々は、黙って考え込んだ。


 彼女にとって東優という男は、尊敬している人なのだから、そんな不誠実なことはしないはず。


 それを信じたい気持ちと、目の前の努の言葉を、天秤の両側に載せてみたのだ。


 ガチャン!


 比べるまでもなく、東先輩の言葉の方が重く、そのあまりの差に、努の言葉は天秤の皿の上からロケットよろしくすっ飛んでいった。


「ごめん……東くんの言葉、信じられない」


 彼には、嘘をつく理由はある。


 努の目には、菜々は兄にふさわしい女に映っていない、というのが最大の理由だ。


 鈍い菜々だって、もはやそれくらいは分かっているのである。


「嘘なんかつくかよ。相手は、二年の木下沙織先輩だ。美術部だから、あの『クソ女』がよーく知ってる相手だ」


 刹那。


 バチン。


 菜々は、兄とは全然似ていない、よく日に焼けた男のほっぺたを、平手で叩いていた。


 張り倒すほどの力は入れていないが、いい音が鳴った。


「雅ちゃんは、クソ女なんかじゃない! 雅ちゃんのことを悪く言う人の言葉なんか、何一つ信用しない」


 菜々が罵倒された時、雅は一瞬も臆することはなかった。


 そのおかげで、彼女は努に罵倒されたことなど、痛くもかゆくもなかったのである。


 思い出そうとすると、必ずセットで雅の姿が思い浮かんで、逆に笑ってしまいそうなほどだ。


 痛い過去を、時間もかけずに笑い話にしてくれた友人を侮辱されて、菜々がヘラヘラしていられるわけがなかった。


 東先輩の弟ではあるが、これ以上彼の話を聞いたところで、何の意味もない。


 彼女は、教室に戻るべきだと思い、階段に足をかけ、すばやく踏み出そうとした。


「ま、待てよ!」


 だが、相手もまた運動部員。


 菜々の運動神経にさえ、ついてこられる身体能力を持っていた。


 え?


 階段の、もう一段上にかけようとした足が、空を舞う。


 腕を掴まれて、後方に引っ張られたからだ。


 菜々のウェイトの軽さと、引かれる力のバランスが、とにかく悪かったのだけは分かった。


 グラッ、ドンッ、ガツッ!


 音が三つ流れたかと思ったら──菜々の目の前に星が飛んだ。



 ※



「いたた……」


 菜々が、くらっとする頭を軽く動かして、意識を覚醒させた時。


 彼女の目の前には、白いシャツがあった。


 そこから伸びる日に焼けた肌があり、しっかりした顎も見えた。


「伊藤、大丈夫か?」


 声は努のもの。


 そこまで理解した後、菜々はいまの自分の状態を、ようやく把握した。


 彼女は、努にお姫様だっこの形で、運ばれていたのだ。


「え、ちょっ!」


「後でいくらでも謝るから、いまは大人しくしてくれ」


 信じられない状態に、彼女が暴れようとすると、より強く抱えなおされてしまった。


 切羽詰った声は、こうなった原因が努にあるからだろう。


 彼が強く引っ張りすぎたため、菜々は勢い余って壁に頭をぶつけてしまったのである。


 それで、情けなくも脳震盪を起こした、というわけだ。


 謝ってもらわなくてもいいので、大人しくさせないで欲しかった。


 ここは、学校なのである。


 昼休み、非常階段にこそ人はほとんどいないものの、廊下に出てしまえば、その目から逃れることは出来ない。


 そして、学校ではお姫様だっこなんて、滅多に起きる事態ではないのだ。


 ひいっと身を小さくして、菜々は周囲の視線から逃れるのが精一杯だった。


 そんな彼女の心など、何ひとつ知らないこの色黒男は、迷いない足取りで教務棟にある保健室へと向かうのである。


 渡り廊下を通った方が近いのはよく分かるが、昼休みという時間帯を考えると、本当にもう勘弁して欲しかった。


「先生! 脳震盪です、お願いします!」


 運動部と保健室は、仲がいい。


 ちょっと無理なことをすれば、必ずといっていいほどお世話になる場所だからだ。


 ようやくお姫様だっこという苦行から逃れた菜々は、自分で立とうとして視界がぐらんぐらんに揺れたのを知る。


「うあっ」


 よろける彼女を、努はがっちりと小脇に抱えながら、保健室の中へと彼女を引っ張り込む。


「って、いねぇし」


 昼休みは、校医にとっても昼休みなのだ。


 職員室で昼食でも取っているのか、姿が見えない。


「しょうがねぇ」


 努は小脇に抱えた菜々を、そのまま空いたベッドに座らせる。


 座っているのに、視界が揺れる。


「悪いな、結構揺れただろ。今更かもしんねぇけど、頭動かさないようにすっから横になれ」


 大きな手が、菜々の頭を支える。


 もはや、抵抗できる状態ではなく、菜々は素直にベッドに横になった。


 頭の位置が安定すると、ほんの少しではあるが、視界が楽になった気がする。


「吐き気はねぇか? コブになってねぇか?」


 自分が怪我をさせた罪悪感はあるのだろうが、努のテキパキとした看護を前に、菜々は戸惑っていた。


 勝手に冷凍室を開けてアイスノンを取り出し、ぶつけた後頭部にタオルで温度調節をして敷いてくれる。


 何というか。


 看病慣れしているのだ。


 そして、ああと思った。


 彼は、東優の弟なのだ、と。


 東先輩は、子供の頃から身体が弱かったと言っていた。


 そんな兄を、努は甲斐甲斐しく面倒をみてきたのだろう。


 そう思うと、おかしくなってちょっと笑ってしまった。


「頭……ほんとに大丈夫か? 悪かったな、あんなに軽いなんて、思ってもみなかった」


 菜々の笑った顔は、努に違う心配をさせたようだ。


 罪悪感いっぱいの目で、彼女を見下ろしている。


「少しこうしていれば大丈夫だと思う。足もくじいてないし」


 菜々にとっては、頭よりも大事なものがあって、そっちが無事だと、心も軽いものだ。


「けど……俺を許さなくていいから。許して欲しいと思ってもいないし」


 しかし、努の心は頑なだった。


 いっそ今回の件込みで、菜々には憎まれてもいいと思っているのだろう。


 参ったなあ。


 努にとって、自分は本当に及第点以下なのだと思い知る。


「兄貴には彼女がいるって言っただろ? 美術部の木下先輩。綺麗で頭もよくて、彼女と兄貴と並んで歩いている姿は、俺の憧れだったし、誇りだった」


 この状況で、菜々は逃げ散らかすことも出来ず、ただ努の吐き出す言葉を聞かされる。


 しかし、違和感がないわけではなかった。


『彼女がいる』としながらも、彼の言葉は、『憧れだった』『誇りだった』という過去形で語られているのだ。


 これほど執拗に木下先輩とやらの話をするのだから、彼女は本当に『いた』のだろう。


 今現在は、どうかよく分からないが。


 努の心には、兄と彼女の光景が美しいものとして焼きついているのだ。


 その一枚の絵のような完成品から、離れられないでいるのか。


 確かに菜々は、綺麗でもなければ、頭もよくない。


 努に言わせれば、スカートをはかなければ、男か女かも分からなような女子高生だ。


 自分でも、薄々感じてはいたが、やはり東先輩の彼女になるには、菜々では余りに似合わないのだろう。


 沈みかけた心は、しかし、記憶の中の人間に踏みつけられた。


『ああ、気持ち悪いわね』


 人の目を気にしている菜々など、彼女──雅にかかれば、ただの気持ち悪いものにしか見えないだろう。


 まさに、雅の声音で聞こえるものだから、菜々はやっぱり笑ってしまった。


「ごめん、東くん」


 悲痛な顔の努を前に、菜々は晴れやかだった。


「やっぱり私、東先輩が好きみたい……だから」


 反対されるのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳でもない。


 大好きなマラソンと同じだった。


 勝てないのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳ではないのだ。



「だから、東くん。私のこと、許さなくていいよ」



 そして菜々は、東努と──許し合わない仲になったのだ。



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