表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オセロ風景〜坂道と図書室  作者: 霧島まるは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/26

16.断崖の錯覚2

 その日。


 菜々は初めて本を返却した後、借りなかった。


 突然の、次巻の喪失に呆然としてしまったせいだ。彼女は、突然『太宰治』を喪失したのである。


 10巻で読んだ『断崖の錯覚』を思い出すほど、菜々の目の前には断崖が見える気がした。


 しかし、図書室に本は溢れるほど存在している。


 太宰だけが、菜々の世界の全てではないはずだ。


 だから。


 だから菜々は、心のどこかで期待していたのである。


 東先輩が、次に別の作者の本を、彼女に勧めてくれるだろうと。


 なのに、彼は10巻の返却を受け付けた後、カウンターから立ち上がらなかった。


 いつものように、本の林へ向かわなかったのである。


 カウンターを挟んで二人、いつの間にか黙り込んでいた。ゆうに二分は、そうしていただろう。


 何かに夢中な時の二分とは、まさに文字通り夢のように過ぎるだろうが、何も言葉の出ない二分とは、皮膚がちりちりするほど長いものだった。


 ついに、何か言いたそうに、東先輩が唇を開いた時。


 図書室の扉は開き、誰かが本を返しに来てしまった。


 二人きりの短い二分間は、それで終わってしまったのだ。


 菜々は、とぼとぼと部活を目指した。


 手に持ったスポーツバッグの軽さは、逆に重い荷物のように、菜々の足取りをも重くする。


 昨日、自分がフルマラソンを走ってきて幸せだった記憶さえ、霞んでしまいそうだ。


 本当はそれを、菜々は東先輩に伝えたかったのである。


 もう一度、ちゃんとマラソンの世界に腰を据える覚悟が出来たと、胸を張りたかったのである。


 けれど、ぷちんと縁が切れた気がした。


 走れメロスから始まった、太宰という着ぐるみの中の先輩と一緒に歩いてきた道が、断崖で終わったのである。


『断崖の錯覚』の中で、主人公は断崖から女を突き落とした。


 菜々は──自分が、そこから落ちている気がした。



 ※



「伊藤さん」


 どうして、校門にまた、東先輩がいるのだろう。


 いつもより、もっとへとへとになった菜々は、ぼんやりと外灯の下の彼を見つめながら、そう思った。


 しかし、彼に抵抗する気力も、もはや彼女には残っていない。


 このぼんやりした状態のまま、バス停二つ分を歩くだけなのだ。


 校門から続く下りの坂道は、菜々の身体を勝手に歩かせてくれる。今は、それがありがたい。


 自然に、彼女の視線は足元に落ち、自分の足音が「とぼとぼ」という音を立てるのを聞いていた。


「伊藤さん、月が綺麗だよ」


 そんな菜々の心など知らず、先輩はいつもの穏やかな声のまま、彼女の意識を前方へと促す。


 坂道は、東に向かって下っていて、ちょうど上り始めた月が、遠くの山に綺麗に見えていた。


 丸に限りなく近いが丸ではない、黄色味を帯びた大きな月だ。


 そういえば、今朝の天気予報で「明日は中秋の名月ですね」と言っていた気がする。


 黄色い光を放つそれを見つめ、菜々はただ坂道を下る。


「ホントに綺麗ですね」


 自然と、そう答えていた。


 どれほどぼんやりしていようとも、綺麗なものはやっぱり綺麗なのだ。


 同じように、どれほど断崖から落ちてしまおうとも、菜々はやっぱり東先輩のことが好きなのである。


 これまでの、ぬるく幸せな時間が、続けばいいと思っていたし、続くだろうと彼女は思っていた。


 でも、それは何の保証もされていない上に、口約束ですらないもの。


 ようやく、雅の言っていた本質的な意味を、菜々は理解した。


 東優を手に入れろ。


 好きならば、必ず捕まえろ、と。


 この人は。


 菜々は、月から隣を歩く男へ視線を向けた。


 月と同じように、彼のことも見上げなければならない。


 この人は、どうやったら捕まるのだろうか。


 菜々には、それが分からなかった。


 優しい人である。


 穏やかな人である。


 尊敬できる人である。


 そんな男だからこそ、『好き』と伝えたならば、きっと彼は誠実に答えてくれるだろう。


 こうして、菜々を送ってくれるのだから、可能性はあるのだろうか。


 それとも。


 ただ単に、小学生時代の菜々への、お礼のつもりなのだろうか。


 菜々は、再び視線を月へと戻した。


「そうか、『月が綺麗だよ』では駄目だな……」


 ぼそり、と先輩が呟く。


 そして。


「伊藤さん。『月が綺麗ですね』」


 東先輩は、不思議な言葉を言った。


 同じことを繰り返しているように見えて、微妙に違う。どうして、年下の菜々に敬語を使うのか。


「は、はい、綺麗……ですね?」


 戸惑いながらも、菜々はもう一度答えた。


「……」


 東先輩は、考え込むように黙る。


 菜々は、何か間違っただろうか。


「だ、太宰ですか?」


 はっと気がついて、彼女はそれを口にした。


 もしかして、いままで読んだ彼の作品に、そういうセリフがあったのではないか、と。


 そうしたら。


 先輩が、困ったように眉を寄せて笑うのだ。


「そうか、ごめん。太宰じゃないよ」


 坂を下り終える頃には、月は一度見えなくなってしまった。


 手前にある建物が、それを隠してしまったのだ。


「あー……太宰は、こういう話には向かないな」


 東先輩は、何故か少し照れたように笑った。


「昨日から、随分考えていたんだよ……伊藤さんに、どう言おうかって」


 外灯の下をひとつずつくぐりながら、彼の声を聞く。


 ああ、太宰治のことかと菜々は思った。


 次の巻がないということを、言いそびれていたのを、先輩は気にしていたのだろう。


 昨日──菜々がフルマラソンの距離を走っていたか、もしくは走り終えた余韻で、幸せだった頃。


「いえ、いいんです。太宰治、楽しかったです」


 菜々は、昨日の自分を思い出そうと頑張った。そうすれば、楽しい表情を作れると思ったのだ。


「太宰? ああ、そうか……」


 先輩は怪訝な声になって、奇妙な沈黙を作る。


 沈黙に流されるまま、交差点を曲がり大通りに出ると、もう一度月は見えるようになった。


「伊藤さん……伊藤さんに話したいのは、太宰のことじゃなくて……」


「兄貴っ!」


 月と、車の音と、二人の足音と。


 それらを全部切り裂く声が、後方から投げられた。


 ザッザと走ってくる足音。


 振り返ると、いつか菜々に絡んできた、同学年の東努つとむが駆け足で近づいてくるではないか。


「努……」


 東先輩は。


 弟を確認して。


 少し苦い声を出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ