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4つめ 食欲増す君

 ――王宮は広い。


 そこに飾り付けられたガラス窓の数もまた、それに比例するようにして多い。

 その中の一つを、リタは脚立に登って磨いていた。

 背中に感じる視線を努めて無視しつつ作業を続けるリタの姿を、隣で同じように窓を磨く少女が青ざめた顔で見ているのがわかる。

 時間をかけてしっかりと綺麗にした後、脚立を降りて次の窓へ向かおうとしたときに視線の主から声をかけられた。

「真面目ね、リタは。もう少し手を抜いてもよろしいのではなくて?」

 声をかけられてしまったからには無視するわけにもいかない。

 リタはしぶしぶ足を止めて、声の主と向き直った。

 そこにいたのは、日傘を差した王女殿下――食欲増す君である。もちろん白いマスクも完備している。

 何故室内で日傘? と思わなくもないが、最早そのような些細なことは気にならなくなってきているリタはお辞儀した。

「良いお日柄で、食欲増す君。残念ながらこれが仕事ですので、手を抜くわけには参りません」

「そんなに頑張っていては疲れてしまうでしょう? どうかしら、お昼は私のサロンにおいでくださいませんこと?」

 ほらきた。こうなることはここ連日のことで予測しきれている。

 リタは決まりきったセリフのように言った。


「私のような下々の者にお声をおかけいただけて光栄なことはありますが、申し訳ございませんが辞退させていただきます。と言いたいのですが、アーティレット様の命令がありますのでご一緒させていただきます」


 深々と頭を下げるリタの姿に王女殿下は溜息を一つついて、

「そう、残念ね。たまにはリタもこちらに顔を出してくれても――なんですって?」

「ご一緒させていただきます、と申し上げました」

 王女殿下はこの言葉に目を丸くして、ぽかんと口を開けた。

 一瞬の後、傘の縁を下げて顔を隠してしまうと数秒経ってから再びその麗しい顔を覗かせた。

「そ、そう。それはよかったですわ。それにしてもお兄様の命令ってなんでしょう」

「具体的な内容はお聞きしてませんが、食欲増す君の食事に付き合えと申されました。本人も顔を出すと仰られていました」

「では、お兄様の分の料理も準備しておきましょう。通達を出しておきますから、午前の就業を終えたらこちらにいらしてくださいね」

「畏まりました」

「では」

 そう言って王女殿下はドレスの裾を翻して去っていく。

 その足取りが昨日までのトボトボとしたものと違い、心なしか弾んでいるように見えるのは目の錯覚だと思うことにした。


 王女殿下が見えなくなると、隣の窓を拭いていたチュチェが駆け寄ってくる。

「りりリタ! とうとう王女殿下のお誘いを受けちゃったの!? ダメよ! 危ないわ、王女殿下と昼食だなんて!!」

 客室侍女の担当になったリタではあるが、客室侍女の数自体は足りているため、専任の相手が割り当てられるまでは通常の侍女と同じ業務を行うようにと侍女長から仰せつかっていた。

 チュチェはただの侍女で、窓掃除を言いつけられたリタの先輩に当たる。立場的にはリタが上でも、ただの侍女相手に頭を下げなければいけない立場である。チュチェ自身が下の人間に対して高圧的な態度を取る性格ではないため、少しばかりほっとしているのが本音である。

 おっとりとしながらも仕事は出来るタイプなチュチェだが、心の琴線が多いのが太いのか、些細なことで興奮してしまうのが玉に瑕である。

 初日に王女殿下が昼食へ誘いをかけにきたときからこんな風に興奮して少し困る。

「そもそも王女殿下の誘いを断るほうがどうかしてると思う」

「……それをリタが言うとおかしく感じるからヤメテ」

 王女殿下からは「食欲増す君」と呼ぶように言われているが、実際そのように呼んでいる人は誰もいない。

 誰も彼も、彼女のことを指すときには「王女殿下」と呼称する。

 だからリタも本人がいないときにはそのように呼ぶ。リタは空気が読める子なのだ。

「アーティレット様の命令もあるし、仕方がないわ」

 言いながら脚立を次の窓へ移動させるリタの後姿を、チュチェがジトリと見た。

「ある意味尊敬するわ、リタ」

「褒めてくれて嬉しいわ」

「褒めて言ったわけでもないけどね」

 そんな風に軽口を叩きながら、リタは午前中しっかりと窓拭きをこなしたのだった。



----



 王女殿下の居室近くにあるサロンへの道順は忘れていない。

 登城初日に出会ったその足で城内を案内してもらったのだ。そのときに、最後に通されたのがそのサロンだった。

 朝が早かったため、昼近くになってからの朝食をご馳走になったのだが、そのときにアレ(・・)を見てしまった。

 それ以来、なんとなく昼食のお誘いを断ってしまっている。


 モクモクとそのようなことを考えながら歩いていると、肩を叩かれたことに気づく。

 振り返るとアーティレット王子が爽やかな笑みを浮かべている。

 それを見て、リタは即座に外行き用の仮面ではないと直感した。そしてアーティレット王子は全く持って予想通りな発言を繰り出す。

「やぁ、リタ。偶然だね、妹の所に行くところ? 僕も一緒に行ってもいいよね」

 聞いているのかと思いきや、一緒に行くことは規定事項であるらしい。

 リタは「遠慮します」とも「その手に持ってる籠の中身は何ですか?」とも言わず、黙って首肯した。

 余計なことを口にすると、またマシンガントークが始まるのは目に見えている。

 王女殿下の下へ呼ぶということは、同様の話をするのだろう。

 煩わしいことは、一度で済むほうがいい。


 サロンへ到着するまで喋りっぱなしだったアーティレット王子は、入室と共に意識の質を少し変えたらしい。

 少し硬質な空気を身に纏ったアーティレット王子は、まさに王子と呼ぶに相応しい威厳が、ちょっとばかり増えて見える。

 その王子の斜め後ろに下がったリタの手を、アーティレット王子が前に引いた。

「リタ、今のお前は妹に呼ばれた客人だ。そのような立ち位置へ下がる必要はない」

「……わかりました」

 王子は鷹揚に頷くと、王女殿下の待つテーブルへ向かう。

 王女殿下はこちらの到着に気が付くと、手に持ったハンカチーフをテーブルの上で三重になったそれに重ねてから立ち上がった。

 サロンは三方がガラス張りで、光を良く取り込む。儚い印象の王女殿下は光を孕んで、まるで御伽噺に出てくる妖精のようにも見える。もちろん、その口元にマスクがなかったら、の話であるが。


「お二人とも、よくいらしてくださいましたね。どうぞこちらへ」


 礼を言って椅子に腰掛けると、すぐにサロンへワゴンを押した侍女が入ってくる。

 テーブルを手際よく皿とカップで埋め尽くすと、そのまま礼をして下がっていく。惚れ惚れするほどの優雅さと素早さである。

 さすがにお姫様付きともなると立ち振る舞いがそこらの侍女とは全く違うな、とリタが関心していると、王女殿下が「さて」と言葉を発した。

 リタは意識を戻して、二人の顔を見比べた。

「お兄様がリタを呼んだ理由というのをお聞きしても?」

「あぁ、それなんだが……」

 アーティレット王子は少し言いよどんで、まずリタを見た。

 それから順に、王女殿下に視線を移し、並べられた料理を見、再び王女殿下を見た。

 リタも同じように視線を動かして、頷く。

「まずは食事を済ませよう」

「まずは食事にしましょうか」

 二人の声が、見事にハモる。視線の先の王女殿下の白いマスクから、溢れんばかりのよだれが滴っていた。

 これが、妖精のような王女殿下がマスクを手放せない理由であり、見えぬところで食欲増す君と嘲られる原因なのだった。





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